
琵琶湖周遊の旅(7)石山寺と湖東探訪
三日目の朝は ホテルから車で5分のところにある石山寺探訪から見学開始です。
珪灰石石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院です。
琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にあります。 ユニークなのは本堂が国指定天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっています
国指定天然記念物の珪灰石岩盤の上に建つ本堂と国指定天然記念物の珪灰石岩盤
本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁(ろうべん)です。石山寺は、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場で、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっています。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られています。
石山寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承があります。
寛弘元年(1004年)、紫式部が石山寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られています。午前9時を過ぎたころ到着したため、寺院内の主だった施設は開館前で 山道を歩き建物の概観を見るだけに終わりました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
◆「急がば回れ」の諺はこの地から
室町後期の連歌師宗長の詠んだ『武士のやばせの舟は速くとも急がば回れ瀬田の唐橋』という歌があります。 坂元宇一郎著『故事百選』によると、この歌が近世初期に著された咄本「醒睡抄」のなかの説話に取り上げられていることが、この諺の発端とのことです。
この歌の持つ意味は、東海道を通って大津に行く場合の2つの経路について、琵琶湖を渡る船便と遠回り迂回陸路とを比較しています。
当時は一般的に早便としては、船便を使っていたようで、陸路を歩いていくより距離で2里も近くなったとのことです。しかし、湖上経路は比良の山から吹きおろす突風で船が難破する危険があったので、瀬田の唐橋を渡った方が、安全確実だと歌ったものです。
◆コンプライアンスと近江商人輩出の土地柄
前夜の宿は 大津プリンスホテルでした。 琵琶湖の南端に位置し 全室琵琶湖を一望できる構造の38階建て高層ホテル。 蒲鉾を縦にして 円形部分が湖畔に、板側が京都方向を向いているデザインです。
天気が良いと琵琶湖の日の出は、陽光が湖面に映えその光は圧巻です。
「萩の露」はここでも 立派にデコレーションされて売られていました。
西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者堤康次郎氏は滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(現・愛荘町、旧・秦荘町)の農家に1889年生まれた辣腕の事業家です。
また百貨店「高島屋」の屋号は、創業者飯田新七の義父が現在の高島市にあたる近江国高島郡の出身であったことにちなんだものです。
近江商人とは近江で商いを行う商人ではなく、近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、個別には「高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれ、それぞれ特定の地域から発祥し、活躍した場所や取り扱う商品にも様々な違いがあるのも特徴です。
商人に必要なのは才覚と算用と言われます。しかし、近江商人は巧妙な計算や企てを良しとせず、世の中の過不足を補い、需要と供給を調整することを本務としています。
伊藤忠兵衛(湖東商人 現:伊藤忠商事・丸紅)は「利真於勤」(りはつとむるにおいてしんなり)を座右の銘としました。荒稼ぎや山師商売や政治権力との結託による暴利ではなく、本来の商活動に励むというのが「勤」の意味であり、その預託として得られるのが利益としています。
地域経済を左右するほどの実力者となると、大名との付き合いも多くなります。しかし、近江商人は権力に依存して利益を得ることを潔しとはしませんでした。財の豊かさに見合う、人格・教養・礼儀作法・人間形成を強く求め、奢ることは即ち身を滅ぼすことに繋がると子孫へ戒めています。 まさに現代に繋がるコンプライアンスの基本です。
近江の国は多くの有名な企業家を輩出しています。しかし西武グループの創業者堤康次郎だけは 経営の独特の強引さ、衆議院議長まで上り詰めた権力志向と破天荒な私生活からみて近江の異端児といえますね。
なお近江商人については 近江八幡物産協会などのHPで詳しく紹介されています。当記事もいくつかのWEB公開記事から引用しています。
瀬田の唐橋を後にして バスは湖東を北上、次の目的地近江八幡に向います。
地図をクリックすると文字が読める程度に拡大表示されます
To be Continued
三日目の朝は ホテルから車で5分のところにある石山寺探訪から見学開始です。
珪灰石石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院です。
琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にあります。 ユニークなのは本堂が国指定天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっています
国指定天然記念物の珪灰石岩盤の上に建つ本堂と国指定天然記念物の珪灰石岩盤
本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁(ろうべん)です。石山寺は、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場で、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっています。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られています。
石山寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承があります。
寛弘元年(1004年)、紫式部が石山寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られています。午前9時を過ぎたころ到着したため、寺院内の主だった施設は開館前で 山道を歩き建物の概観を見るだけに終わりました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
◆「急がば回れ」の諺はこの地から
室町後期の連歌師宗長の詠んだ『武士のやばせの舟は速くとも急がば回れ瀬田の唐橋』という歌があります。 坂元宇一郎著『故事百選』によると、この歌が近世初期に著された咄本「醒睡抄」のなかの説話に取り上げられていることが、この諺の発端とのことです。
この歌の持つ意味は、東海道を通って大津に行く場合の2つの経路について、琵琶湖を渡る船便と遠回り迂回陸路とを比較しています。
当時は一般的に早便としては、船便を使っていたようで、陸路を歩いていくより距離で2里も近くなったとのことです。しかし、湖上経路は比良の山から吹きおろす突風で船が難破する危険があったので、瀬田の唐橋を渡った方が、安全確実だと歌ったものです。
◆コンプライアンスと近江商人輩出の土地柄
前夜の宿は 大津プリンスホテルでした。 琵琶湖の南端に位置し 全室琵琶湖を一望できる構造の38階建て高層ホテル。 蒲鉾を縦にして 円形部分が湖畔に、板側が京都方向を向いているデザインです。
天気が良いと琵琶湖の日の出は、陽光が湖面に映えその光は圧巻です。
「萩の露」はここでも 立派にデコレーションされて売られていました。
西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者堤康次郎氏は滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(現・愛荘町、旧・秦荘町)の農家に1889年生まれた辣腕の事業家です。
また百貨店「高島屋」の屋号は、創業者飯田新七の義父が現在の高島市にあたる近江国高島郡の出身であったことにちなんだものです。
近江商人とは近江で商いを行う商人ではなく、近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、個別には「高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれ、それぞれ特定の地域から発祥し、活躍した場所や取り扱う商品にも様々な違いがあるのも特徴です。
商人に必要なのは才覚と算用と言われます。しかし、近江商人は巧妙な計算や企てを良しとせず、世の中の過不足を補い、需要と供給を調整することを本務としています。
伊藤忠兵衛(湖東商人 現:伊藤忠商事・丸紅)は「利真於勤」(りはつとむるにおいてしんなり)を座右の銘としました。荒稼ぎや山師商売や政治権力との結託による暴利ではなく、本来の商活動に励むというのが「勤」の意味であり、その預託として得られるのが利益としています。
地域経済を左右するほどの実力者となると、大名との付き合いも多くなります。しかし、近江商人は権力に依存して利益を得ることを潔しとはしませんでした。財の豊かさに見合う、人格・教養・礼儀作法・人間形成を強く求め、奢ることは即ち身を滅ぼすことに繋がると子孫へ戒めています。 まさに現代に繋がるコンプライアンスの基本です。
近江の国は多くの有名な企業家を輩出しています。しかし西武グループの創業者堤康次郎だけは 経営の独特の強引さ、衆議院議長まで上り詰めた権力志向と破天荒な私生活からみて近江の異端児といえますね。
なお近江商人については 近江八幡物産協会などのHPで詳しく紹介されています。当記事もいくつかのWEB公開記事から引用しています。
瀬田の唐橋を後にして バスは湖東を北上、次の目的地近江八幡に向います。
地図をクリックすると文字が読める程度に拡大表示されます
To be Continued
なお近江商人については 近江八幡物産協会などのHPで詳しく紹介されています。 当記事もいくつかのWEBに公開されている複数の記事から引用しています。
今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。
お泊りは38階建て高層ホテルなんですね。
湖面に映えた朝陽は神々しいです。
百貨店「高島屋」も近江商人の創業なのですね。
近江商人は他国行商の総括名と知りました。
伊藤忠兵衛の「利真於勤」は近江商人総括の銘「企業よ信念を持て」ですね。
「奢ることは即ち身を滅ぼす」など、どうしてそのような素晴らしい信念を持ったのだろう
いつもブログお立ち寄り有難うございます。
明日 近江商人の生まれた歴史的背景を記述しますが
それにしても 松下幸之助さんみたいな商人ばかりなんですね。
西武の堤一族は 特別変り種の近江出身者だったのです。
今回はほんとに勉強になりましたね。
「丼」
私になると薄まって来ていますので、
心して生きないと駄目ですね。
祖父達は、「質素倹約」で育ったそうです。
でも、学問については充分な機会を与えられたようですね。
多くの近江商人は商品流通の操作によって生まれる差益に依存したり、投機的な取引に手を出すことはつまらない商人のすること述べています。
自分の店や商品が人々に役に立ち、喜ばれ、社会に有益であるようにと心掛けることで、世の中に商人の存在意義と価値が認められたのです。
このような事は、家訓・家法・家憲・家則等の形として代々受け継がれており、明治維新、終戦、等々の苦難を乗り越えてきた近江商人の企業の強さは、これらの経営理念の継承にあるのではないでしょうか。
企業倫理の基本ですから そのDNAは そう簡単に薄まるものではありません。 モンブランさんのベースに見識と倫理観が深く根ざしているのです。
とても それを 強く感じます。
「丼」