丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

167.そこには「楽市楽座」があった

2008-10-05 15:06:07 | 旅の記録
 
琵琶湖周遊の旅(8)近江商人発祥の地 近江八幡

湖東を北上し 昼前に 近江八幡に到着しました。

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 近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展しました。

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 いわゆる近江商人の発祥の地です。江戸時代以前の風情がよく残る「新町通り」・「永原町通り」・「八幡堀周辺」・「日牟礼八幡宮境内地」は「八幡伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われています。
 また、2005年9月に市内水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定されました。これは同法適用第1号です。さらに2006年1月「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定されました。

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 「近江八幡」という神社があるとしばしば誤解を受けますが、神社名は「日牟禮八幡宮」です。 ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み多くの建築作品を遺した地としても知られています。

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  この地に永住しのちに帰化したW・ヴォーリズは「近江兄弟社」の設立にも参画しています。「近江兄弟社」は製品名を「メンターム」に変更し 今も存続していました。

◆あきないのこころ 

近江商人のまちは、あきないのこころを、いまも誇りにしています。 近江商人は、主に鎌倉時代から江戸時代、明治時代、大正時代、戦前にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人であり、大阪商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つです。

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 楽市楽座の自由商業主義のもと、活発に活動を続けた八幡商人たちは、秀次没後まもなく天領となった近江八幡の町から、天秤棒を肩に全国に活動を広げました。

 愛知郡、蒲生郡(八幡・日野)、神崎郡(五箇荘)などの出身者が多数 初期の頃は京都、美濃国、伊勢国、若狭国などを中心に行商を行っていましたが、徐々に活動地域や事業を拡大させ、中には朱印船貿易を行うものも現れました。

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 北は北海道から南ははるか安南(ベトナム)やシャム(タイ)まで進出し、当時まだ発展途上であった江戸にもいち早く店を出しました。明治以降、社会が大きく変転する中で日本経済の近代化にも八幡商人をはじめとする近江商人たちが大きく貢献しました。

 彼らは、買い手よし、売り手よし、世間よし、という三方よしの理念を商売の姥本基本とし、自ら利益のみを追求することなく、社会事業に大きく寄与しました。その勤勉で潔癖な倫理観には、改めて深く考えさせられるものがあります。

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 鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業などを行ったり、蝦夷地(北海道)で場所請負人となったりするものもありました。明治以降には西川産業など企業として発展し、今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引くものは多く存続し続けています。

 近江商人たちが残した財産は、形にのこるものばかりでなく、むしろ、その精神に大きく価値があるといえます。


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 八幡山ロープウエイ:山麓から山頂へ約4分。山頂からは四季折々の琵琶湖、西の湖、旧城下町などが見渡せる大パノラマが広がります。

 八幡山(標高271.9m)は、豊臣秀次が築いた八幡城の城跡で本丸跡には村雲瑞龍寺が京都から移築されています。

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◆秀次の無念
 秀次(ひでつぐ)は、豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の甥。 天正19年(1591年)に秀吉の嫡男・鶴松が死去したため、秀吉の養子となり、12月には秀吉の後継者として、豊臣姓を贈られ、関白職を継ぐこととなりました。

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 しかし文禄2年(1593年)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになり、互いに譲歩も試みられたものの、けっきょく文禄4年(1595年)、秀吉の命令で高野山に追放され、出家。同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。享年28歳でした。歴史に「たら・れば」はないけれど 「淀の方」が秀頼を産まなければ.....。

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 「味付赤こんにゃく」八幡山ロープウエイ山頂駅売店で売られていました。派手好きな信長の命を受け作られたのだとか・・・。

 昼食の近江牛すき焼き定食:鍋の右下にあるのが赤糸こんにゃく、ひき肉ではありません。

2時間の市内散策後 バスは最後の訪問地である彦根城へ向かって出発していきました。

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地図をクリックすると文字が読める程度に拡大表示されます


なお近江商人については 近江八幡物産協会などのHPで詳しく紹介されています。当記事もいくつかのWEB公開記事やフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』などから抜粋引用しています。

 


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倫理観 (あこ)
2008-10-05 16:27:59
豊臣秀次が築いた城下町が基礎ですね。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏は初めてです。
「近江兄弟社」製品「メンターム」には、大変
お世話になっています。
楽市楽座の自由商業主義が芽生えていたんですね。
安南やシャムまで進出していたのですか~
三方よしの理念を商売の姥本基本と勤勉で潔癖な倫理観の美学があったのですね。
昼食の近江牛すき焼き定食は美味しそう


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近江を知る、知るを楽しむ! (モンブラン)
2008-10-05 23:15:48
ヴォーリズ氏の設計による建造物は京都にもたくさんあります。

夫と息子がお世話になった幼稚園の建物も
ヴォーリズによる設計です。
教会の付属幼稚園ですが、礼拝堂や保育ルームは派手ではなく、温かみのある空間です。

今回のドン・キホーテさんの近江の旅で、私も
色々なものを改めて知る機会になりました。
ありがとうございました。

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ブログお立ち寄り有難うございます。 ()
2008-10-06 00:07:15
あこさん

いつもコメント有難うございます。

楽市楽座から始まる近江商人の生まれた歴史的背景を知るにつけ 信長や秀吉の 先見性を再認識します。

そして世の為人の為に 誠実な商売をすることが 成功への近道であるとの 経営理念を築き 継承した近江商人に 敬意を表します。

久しぶりに ほんとの勉強になりましたね。

「丼」
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明日の ブログで 近江編も最終回ですが ()
2008-10-06 00:24:47
モンブランさん

近江の国と近江商人が どうしてここまで 私に感銘を 与えているのかを 考えてみたのですが...


「世の為 人のために役に立つ分野で 真面目に需要を充たす商売をして お客様との間に信用を築きなさい。」

「平素は 質素倹約に勤め 金の使い時を考えて
生きたお金の 使い方を 心がけなさい。」

どう見ても 親父の小言ですが どうも これは「肌の合う」考え方であり、自らの生きる理念に共通する部分が多いのではないかと 思うに到りました。

明日の ブログで 近江編も最終回ですが....。

「丼」
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メンソレータムとメンターム ()
2008-10-06 00:43:33
あこさん

 長くなるので 本文では 割愛したのですが 我々の知っているメンタムはメンソレータムです。

 近江兄弟社は、塗り薬「近江兄弟社メンターム」を中心に医薬部外品等を製造及び販売しています。

 建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズにより1920年に「近江セールズ株式会社」として創業され、後に現社名へ変更されました。

 キリスト教の信仰に基づいた社業では、「メンターム」など皮膚薬のトップメーカーとして着実な業績を挙げている一方、病院、老人保健施設、学校なども経営している。また、一時はハモンドオルガンの輸入代理業務も行っていました。

 社名の由来は、近江と「人類皆兄弟」の精神から命名したものです。兄弟が設立した会社というわけではないのです。

 近江兄弟社の以前の主力商品はメンタームではなくメンソレータムでした。こんなこと行かなきゃ知らずに終ったことでした。

 メンソレータムは、アメリカ合衆国の「メンソレータム社」の製品であり、近江兄弟社が日本国内の販売権を持ち日本国内向けに販売、その後製造も手がけるようになっていました。

 しかし1974年に近江兄弟社は倒産し、メンソレータムの販売権も返上しました(その後翌年の1975年にメンソレータムの販売権はロート製薬が取得、さらに1988年にはメンソレータム社本体もロート製薬に買収されました)。

 近江兄弟社は、その後大鵬薬品工業の資本参加で再興をはかりましたが、そのときにはもうメンソレータムの商品名を使うことができなくなっていました。

 そのため、メンソレータムの製造設備を利用し、現存の「メンソレータム」とは多少は処方が異なるがほぼ類似した「メンターム」を製造販売したのです。

 この「メンターム」を、自社の主力ブランドとして育て、今に至っています。

 なお、メンソレータムは医薬部外品扱いになりましたが、メンタームは現在も医薬品扱いです。


「丼」

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