
琵琶湖周遊の旅(6)世界遺産・比叡山延暦寺
ケーブル延暦寺駅から 延暦寺根本中堂まで10分くらい山道を歩きます。
(最澄が開いた天台宗の総本山)延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多いみたいです。
延暦寺(えんりゃくじ)は、平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称されました。平安時代初期の僧侶最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院です。住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括しています。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心として君臨してきました。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持っていました。
特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競っていたのです。
「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称です。延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりです。
開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことでした。
◆焼いたのは信長だけではなかった
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教でした。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立しました。
永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首したのです。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難しました。
しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと記述があります。
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していましたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰しました。延暦寺を焼き討ちしたのは信長だけではなかったのです。
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、将軍足利義昭との政治的対立を起こすと、延暦寺は義昭側について浅井・朝倉連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こしました。
元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちしたのです。
これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されています。
ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われています。
いずれにせよあの焼き討ちで多くの僧兵や僧侶が殺害され、このことも光秀が本能寺で信長を討つ理由のひとつになったことは間違いなく 日本の歴史に大きく関わっている寺の代表格と言えますね。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されました。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しています。
延暦寺 : 根本中堂回廊(重要文化財)所在地 滋賀県大津市坂本本町4220
・位置 北緯35度4分13.62秒東経135度50分27.33秒
・山号 比叡山 ・宗派 天台宗 ・寺格 総本山 ・本尊 薬師如来
・創建年 延暦7年(788年) ・開基 最澄
◆「油断大敵」はここから始まった。
根本中堂に入り 偉そうな僧侶のお話を聞いてみました。 最澄がこの山を開基したのは若干19歳のときのことであったこと。 そして「油断大敵」の語源です。 中堂にある薬師如来の前の三個の常夜灯には灯りが途絶えないように毎日油を注入しています。油が切れると灯りが消えるのでここから「油断大敵」と言う言葉が生まれたそうです。
家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移っていきました。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されています。
比叡山は文学作品にも数多く登場しています。また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地として、ユネスコの世界文化遺産にも登録されているのです。
大晦日の「行く年来る年」に 必ず登場する大きな鐘楼で 鐘をついてきました。 一回50円で誰でも鐘をつけます。これもいい記念です。
気温が20度を切る中を歩いてくると暖かい飲み物が欲しくなります。 茶店で 抹茶とお茶をいただきましたが まだまだ夏バージョンです。 比叡山に限らず 自販機のコーヒーは冷たいものばかり、ホットは一本も販売されていません。 やれやれ どの観光地も 臨機応変の顧客ニーズ対応には疎いようですな。
ケーブル延暦寺駅から 延暦寺根本中堂まで10分くらい山道を歩きます。
(最澄が開いた天台宗の総本山)延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多いみたいです。
延暦寺(えんりゃくじ)は、平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称されました。平安時代初期の僧侶最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院です。住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括しています。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心として君臨してきました。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持っていました。
特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競っていたのです。
「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称です。延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりです。
開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことでした。
◆焼いたのは信長だけではなかった
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教でした。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立しました。
永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首したのです。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難しました。
しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと記述があります。
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していましたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰しました。延暦寺を焼き討ちしたのは信長だけではなかったのです。
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、将軍足利義昭との政治的対立を起こすと、延暦寺は義昭側について浅井・朝倉連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こしました。
元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちしたのです。
これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されています。
ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われています。
いずれにせよあの焼き討ちで多くの僧兵や僧侶が殺害され、このことも光秀が本能寺で信長を討つ理由のひとつになったことは間違いなく 日本の歴史に大きく関わっている寺の代表格と言えますね。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されました。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しています。
延暦寺 : 根本中堂回廊(重要文化財)所在地 滋賀県大津市坂本本町4220
・位置 北緯35度4分13.62秒東経135度50分27.33秒
・山号 比叡山 ・宗派 天台宗 ・寺格 総本山 ・本尊 薬師如来
・創建年 延暦7年(788年) ・開基 最澄
◆「油断大敵」はここから始まった。
根本中堂に入り 偉そうな僧侶のお話を聞いてみました。 最澄がこの山を開基したのは若干19歳のときのことであったこと。 そして「油断大敵」の語源です。 中堂にある薬師如来の前の三個の常夜灯には灯りが途絶えないように毎日油を注入しています。油が切れると灯りが消えるのでここから「油断大敵」と言う言葉が生まれたそうです。
家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移っていきました。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されています。
比叡山は文学作品にも数多く登場しています。また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地として、ユネスコの世界文化遺産にも登録されているのです。
大晦日の「行く年来る年」に 必ず登場する大きな鐘楼で 鐘をついてきました。 一回50円で誰でも鐘をつけます。これもいい記念です。
気温が20度を切る中を歩いてくると暖かい飲み物が欲しくなります。 茶店で 抹茶とお茶をいただきましたが まだまだ夏バージョンです。 比叡山に限らず 自販機のコーヒーは冷たいものばかり、ホットは一本も販売されていません。 やれやれ どの観光地も 臨機応変の顧客ニーズ対応には疎いようですな。
今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。
一部史実に関してはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋引用しました。
京都の南に有る感じです。
昔々は貴族仏教ですね。
開創時の年号で延暦寺ですか。
還俗・将軍就任後は比叡山と対立とは、その権勢を
牽制する狙いが、、その変わり身が政治ですね。
1499年管領細川政元も延暦寺を焼き討ちですか。
最澄の開基は19歳で、すごいね~!!
薬師如来の前の三個の常夜灯が由来ですか!!
上野に東叡山寛永寺が建立。そうだったのか~
顧客ニーズ対応に疎いのは役所と同じですね~
いつもブログお立ち寄り有難うございます。
4回も 付け火による失火 そして ここまで
歴史を変えるうえで 深い関わりを持った寺。
こんなお寺は 他に無いですね。
ほんとに 旅は勉強になりますね。
「丼」
こんなに違うなんて~
恥ずかしいです!
気持ち良いとか、静かね~とか
歴史そっちのけの自分が情けないです。
益々、訪ねたくなりました。
普通なら 行楽に出かけているのに ここまでいっては 楽しさも半減しますね。(笑)
ややこしくなるので 焼き討ちの話だけにしましたが 歴史をずっと遡ると12世紀末の平清盛全盛期のころ すでに延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かしていました。
後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたほどだったといいます。
清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説まで残っているのです。
そこを あえて 記述したのは 天台座主として比叡山側の長 までいった人物が 還俗・将軍就任するや 比叡山を逆に潰そうとした点が 人間のエゴを表していて 興味深かったためなのです。
まあ そんなこんなで 私の話は硬いので 古くからの知人・友人は私のブログにもあまり近寄らなくなってしまいました。
毎回 コメントいただく あこさんは 特別良い人であり、人格者でもあります。有難いことです。
薀蓄で固めたブログは 本来 ブログ発祥の理由である ネット上での 学術的ディベートにのっとったものなのです。 が....、(もともとは その考え方はおかしいとか 同調できるとか 他の意見もあるとかの書き込みにより 記事の精度を高める狙いです。)
まあ 軽いのりで ちょっと立ち寄るには このコメント内容もやはり硬すぎますね。
「丼」