丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

215.菓子屋横丁から蔵造りの街へ

2008-12-05 00:52:16 | 街角散歩

  小江戸川越探訪 その2
 
雲ひとつ無い快晴の空の下、 

食後 まず最初に足を踏み入れたのは名所のひとつ「菓子屋横丁」です。 

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 「菓子屋横丁」は石畳の道に、22軒の菓子屋・駄菓子屋がひしめく川越の有名な観光スポットです。 素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び 連日多くの観光客が立ち寄り童心に返って駄菓子を買い求めています。

 明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれています。 大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったそうです。

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 その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角は、時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれます。

いまどき アメ横以外にどこのお菓子やさんで威勢の良い呼び込みの声など聞けるでしょうか?

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 来春 NHK朝の連ドラの舞台になることもあってか店主とタレントのスナップ写真が方々で 見られます。
 すでに連ドラのこの横丁収録は終っているみたいなことを老舗の女将が言っていました。

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 今回だけは駄菓子を買うのはよそうと思っていても ひとたび足を踏みいれるや、つい呼び込みのオバちゃんと会話し、昔懐かしい駄菓子には つい手が伸び、知らない間に買い物袋をぶら下げています。
 今日もまた 駄菓子をぶら下げながら 横丁をあとに 川越まつり会館を目指します。

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 平成15年9月に開館した川越まつり会館は明治・大正・昭和初期の川越まつりや四季をとおして市内で行われる祭りを紹介しています。 展示ホールには壮麗な実物の山車を3台展示しているほか大型スクリーン(6m×4m)による映像と音声による演出で川越まつりの熱気を再現しています。

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 特に市内にある29台の山車と山車の構造・曳行編成図などを紹介しています。 何年か前に近江長浜で90年に一度披露される21台の山車すべてを見てきたという とこさんも、 ここでは29台の山車の数にただただ感心していました。 これだけでも川越商人の富裕振りが分かるというものです。



              小江戸と呼ばれる所以

 川越の歴史は古く 戦国時代まで遡りますが、詳しくは後述します。
 ひとまず小江戸と呼ばれる所以です。
 
 天正18年(1590)の徳川家康の関東入部に伴い、ここに川越藩が置かれ、幕末まで続きました。
 川越は、江戸の北の守りであり、豊富な物資の供給地として重要であったため、幕府は有力な大名を配置しました。

 なかでも、松平信綱は、新河岸川を利用した「舟運」(しゅううん)を起して江戸との物流を確立、商人の町としても発達させました。 街道を整備し城下を江戸と同様の町並みに変えていったのです。

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 町の商人たちは城下町、門前町、宿場町の利点を十二分に活かし、川越街道を利用する駄馬輸送や、新河岸川を利用する川舟輸送で、大消費地・江戸と直結させたのです。

 川越街道と新河岸川は、江戸時代初期に開発された先進的インフラであり、川越発展の最大の要となりました。

 米、味噌、材木、炭、野菜をはじめ、ろうそく、髪油、燈油、釘、建具など、さまざまな商品を積んで川越を夜のうちに舟出すると、夜明けごろは江戸の各河岸で荷揚げができたといいます。

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 戻りの川舟で江戸へ集まってくる諸国の特産品を運び、それらに手を加えてまた江戸や、方々の中小消費地へ送り出すのです。 町は栄え 潤い 貧富の差も どんどん拡大していきます。

 この城下町にも江戸を真似て、「十組問屋仲間」という大商人の同業組合が組織され、幕府より承認されていました。

 こうして問屋仲間のメンバーだけが利益を独占しようとしたのも江戸と同じです。いつの世にも富は権力者と手を結んだ者に集中していくのです。

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 明治になると埼玉県一の商業都市として繁栄。主に穀物・織物・たんすが特産物でした。

 明治26年(1893)には、町の3分の1を焼失する大火に見舞われましたが、直ちに耐火性を重視して土蔵造りの店舗を建設。

 現在も残る蔵造りの景観を形成しました。

養寿院や和菓子の老舗「亀や」に立ち寄ったり、「時の鐘」を眺めたり 「蔵造りの街」を 端から端まで歩いて 大正浪漫通りへ進みました。

この続きはまた 次回に

To Be Continued 
今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。

注)ブログ記事のうち景勝地の紹介はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
および各地の公式サイトから抜粋・加筆したものです。


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4 コメント

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川越の発達 (あこ)
2008-12-05 09:12:13
沢山の菓子屋が並ぶ風景は映画のセットのよう。
確かに、5円を母親からもらい買いに行った
子供時代を思い出す懐かしく温かい癒しの街角です。
写真を拝見すると、電信柱がないのが江戸時代を
感じさます。
船の交通網整備が物流を活発にさせたのですね。
耐火性土蔵造りの店舗は明治26年以降なんですね。


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上杉謙信 発祥の地でも あったのですが  ()
2008-12-05 10:23:55
あこさん

維新後 北の拠点から 凋落しなかった理由のひとつが 関東大震災で 菓子製造が またこの町を活気に満ちたものに変えていったのですね。

戦国の英雄 越後の上杉謙信 発祥の地でも あったのですが 詳しくはこの後の記事で ご紹介します。

「丼」
返信する
駄菓子! (モンブラン)
2008-12-06 01:50:32
駄菓子屋さんって楽しいですね!

昔ながらの駄菓子ですか?

最近の子供が行く”駄菓子屋”さんは
”ぺペロンチーノ”って言うヌードルが有ります。
お店で、お湯を注いで貰ってパスタ風になるそうです。
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懐かしい日本の駄菓子 ()
2008-12-08 12:44:05
モンブランさん

 かつて昭和20年代に子供たちの ユートピアであった お店です。でも 味覚の変化に合わせ、いまどき食べなくなったものは10年で ここからも消えていました。

 いまどきの駄菓子屋さんではなく 懐かしい日本の駄菓子を揃えていますが、飴や煎餅や薩摩芋の加工品に変っています。

 10年以上前に 娘と訪れたときには渡辺のジュースの素や はっかのタバコみたいな駄菓子、ソース煎餅などが 戦後いっぱい見かけた品がたくさん あった記憶があります。

 ご一緒したのが お二人とも幼少時 エエとこの子だったせいか 感動も薄かったようです。

「丼」
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