信州の旅三日目 軽井沢を散策しました。
まずは 軽井沢駅から 旧軽井沢を経て新軽井沢までぐるっと 路線バスで一周 。(所要時間1時間15分)
周遊の途中ゴルフコース「軽井沢72」に差し掛かると一緒にプレーしたメンバーを思い出したりしていました。
路線バスの一周を終えて 旧軽井沢の本通りとショー通りを端から端まで歩いてみました。天候にも恵まれ頬を爽やかな風が通り過ぎていきます。
軽井沢という地名は、古語・方言で荷物を背負って運ぶことを「かるう」ということから、峠に続く谷間のことを呼んだという説や、枯井沢(水の枯れた沢)という説があるようです。ほんとのところ どれも定かではありません。
軽井沢は江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていました(碓氷峠は、江戸よりの隣の宿場町、坂本宿との間)。また、浅間山を望む景勝地としても有名でした。
江戸時代が終わり明治時代に入ると、いったんは宿場町としての機能を失い没落したそうです。しかしその後、1886年(明治19年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショー(Alexander Croft Shaw, 1846年 - 1902年)がたまたま訪問し、高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在し、故郷のトロントと似ていると感じたことがきっかけで急変していきます。
1888年(明治21年)、ショーは「つるや」の主人の佐藤忠右衛門のあっせんによって別荘を設け、避暑地としての軽井沢の歴史を切り開きました。別荘第1号は、民家を移転し、改造したものだったとか。のちに移築され、ショーハウス記念館としてショー氏記念礼拝堂の裏に現存しています。
1888年には信越本線の長野方面が開通して軽井沢駅が設けられ、さらに1893年(明治26年)には碓氷峠を越える区間も開通し、東京と直結。
1894年(明治27年)ショーと一緒に訪れた帝国大学教師ディクソン夫妻が「亀屋旅館」の佐藤万平に洋食を教え、軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(のちの万平ホテル)ができました。
1899年(明治32年)には「軽井沢ホテル」、1906年(明治39年)には「三笠ホテル」も開業して宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになります。
外国人により「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山(宮城県・松島)」と称され、これら「日本三大避暑地」は開発が進んでいきます。
1918年(大正7年)には、堤康次郎による西武資本が、沓掛区有地坂下ほか山林60万坪を3万6千円(1坪5銭)で買収し、開発に参入。1945年(昭和20年)には東急資本も開発に参入し、その後は東京を後背地として持つリゾート地としての立場を確立。
また、星野温泉の星野嘉助による星野遊学堂(1921)を中心とした文化活動や、中西悟堂と星野によるエコツーリズム「ピッキオ」の活動も軽井沢のリゾート地としての基礎を築いた一要因に挙げることができます。この理念は現在、星野リゾートが受け継いでいます。
今回のグルメ情報は?
以上 いずれもB級ながら 結構なお味でした。
軽井沢の散策時だけは天気予報がはずれ 出発の時刻まではカラッと晴れて 爽やかでした。
今日もお立ち寄り戴き 有難うございました。
注)ブログ記事のうち「軽井沢の歴史」については Wikipediaから抜粋・加筆したものです。
ほかにもブログを公開しています。
◆4Travel. 「Donkyさんの旅のブログ」」(2013年6月投稿開始)は
URL:http://4travel.jp/traveler/donky2013/