昼の時間の長かった夏が終わって、昼夜の長さがほぼ等しくなりつつある時期を迎えました。
今年もお彼岸とはいえ午前8時の気温は26℃の夏日、昼間も31℃の予報です。
9月23日は二十四節気の第16番目の節気 「秋分」です。
(しゅうぶん、英: autumnal equinox)。
この日を境に、少しずつ夜が長くなっていきます。昼と夜の長さがほぼ等しいのですが厳密には昼が若干長いのです。日本付近では、年による差もありますが、平均すれば秋分では昼が7分長く夜は7分短くなるので一日では14分昼が長いそうです。
これは、次の4つの理由によります。 1.は大気差 2.は太陽の視直径 3.は日周視差 4.秋分のずれです。
1.大気差:大気による屈折で太陽の位置が実際より上に見えるため、太陽が上に見える角度の分、日出が早く、日没が遅くなる。屈折は太陽が地平線に近いほど大きくなります。ここから計算される日出・日没の時間の差は約2分20秒です。
(国立天文台では、太陽が地平線付近にある時の、その屈折角度を35分8秒と見積もっている。)
2.太陽の視直径:太陽の上端が地平線と一致した時刻を日出あるいは日没と定義しているためです。
これにより、太陽の半径の分、日出が早く、日没が遅くなります。ここから計算される日出・日没の時間の差は約1分5秒です。
3.日周視差:太陽の距離÷地球の半径は有限なので、視差により、0.7秒日の出が遅く、0.7秒日の入りが早くなる。
4.秋分のずれ:1日の間にも太陽の黄経は変わるため、秋分が1日のいつかにより昼夜の長さに差が出る。この効果は昼夜の長さを最大で±1.1分変えます。ただし平均には影響を与えない。
これらを合わせると日本において、日出は太陽の中心が地平線から昇るより3分25秒早く、日没は太陽の中心が地平線より沈むより3分25秒遅くなるのです。
したがって、秋分の日の昼の長さは約12時間7分、夜の長さは約11時間53分であり、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は秋分の4日程度後になるのだそうです。
(ここまでは 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
閑話休題:彼岸
秋というのは、しみじみと「懐かしい人を思い出す」ことの多い季節であるような気がします。
春と秋で年に二度ある俗に言う「お彼岸」の中日.
秋分の日を真ん中にして、前後3日の計7日間が「彼岸」の期間になっています。
「彼岸」とは、元々仏教から来た言葉です。
三途の川を挟んで私たちの暮らすこちら側が「此岸(しがん)」今生きているこの世・俗世です。
これに対し向こう岸が「彼岸(ひがん)」あの世・浄土であり「仏さま」の世界です。
「この岸」と「かの岸」ということで、「此岸」と「彼岸」です。
「この世とあの世が最も近づくとき」なのです。
ご先祖様の鎮まるお墓や祖霊舎**を磨き、お参りをして日々の御恩に感謝をお伝えするのが、日本人にとって大切な文化として受け継がれてきました。春秋に必ず故人を思い出し偲ぶことが仏教圏の特色でもあるのです。
(**それいしゃ=ご先祖様をお祀りする神棚のことで、仏教における「仏壇」と同じ意味のもの)
(ここまでは 出典:「暦生活」)
お彼岸ですから今日は少しだけ仏教の世界について考えてみます。
仏教の世界では「この世は苦である」が基本的な認識です。此岸に身を置く苦しみとは何か。それは、生・老・病・死であり、思い通りにならない心に振り回され、なにひとつ思い通りにならない現実と、思い通りにしたいと望んでしまう自分の心に悩みます。
結局 思い通りにならないからそこに苦しみや悩みが生まれてくるのです。
そんな、惑わされ続けるあり方から解放された、安らかな悟りの世界を求めて、人々はいつか彼岸へ至ることを願い、仏さまに手を合わせ煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地を目指します。すなわち仏教の究極的な実践目的とされる涅槃のことです。
涅槃は、釈迦が悟りの境地に達して死んだことから、迷いで燃え盛る火が消え、悟りに入った境地という意味になったといいます。
涅槃とは、全ての煩悩の火が消滅した、安らぎの境地のことをさします。人間が持っている本能から起こる、心の迷いがなくなった状態のことをいいます。仏教の理想である、仏の悟りを得た境地で、死を表す言葉です。
いやはや こんなこと言っているから、周囲から「抹香くさい」とか「じじむさい」言われてきたんでしょうね。
かく申す私はといえば 涅槃の域などほど遠く 思い通りにならなかった過去に振り回され、なにひとつ思い通りにならない現実と、思い通りにできなかった後悔で毎夜悶々と悩み続け ひと時も心落ち着けることもできないありさま。仏門にでも入るかと本気で考える日々。情けなくてほんとにお恥ずかしい限りです。
はいはいお後がよろしいようで (了)