●新潟大学卒業の日
昭和62年3月上旬。新潟大学経済学部生としての卒業式の日がついにやってきた。
思い返せばあっという間の4年間。一人暮らしに関しては、スタートは神田川のフォークソングが聴こえてきそうな不便極まりない古い昭和の下宿からで、2年目からは古いながらも念願のバス・トイレ付きでキッチンなどユーティリティも充実のアパート「あけぼのハウス」に引っ越し、原付バイク2台、オンボロなれど四輪の愛車も2台乗り継いできたこの4年間。
とりわけ3年生からの後半2年間は、道路工事現場の旗振りからフルタイムの広告代理店までありとあらゆるバイト経験や、留学生とともに経営学を掘り下げしたり大手企業役員との面談に臨んだり、立教大学との合同ゼミ会などにも様々に取組み、各々の成果はイマイチばかりだったけれど、そんなほろ苦い経験の七転び八起きが志望の就職先へも導いてくれたように思える。過ぎてしまえば一つとして無駄だったことはなく、今日の自分を形作る糧となっているようだ。
そんな想いにしみじみとしながら、3年間住み慣れたアパートの部屋で卒業式出席のためのスリーピースのスーツに着替えた。就職用に仕立てた最新のスーツが別にあったのだが、この日は何故か、大学の入学式のために購入して着用して以来全く着ていなかった4年前のスーツを選んだ。形も何となく野暮ったくて柄も古臭い感じだったが、大学生としての始めと終わりに、おそらく着るのはそれっきりになるだろうと思うと、無性に着ておきたかったのだ。4年前と4年後の今、同じものを着て、中身の自分自身は変わったのか、成長できたのか、自問自答してみたかったのかもしれない。「嗚呼、俺は何も変わってはいないようだ」と独りため息が漏れる。ただ、それは諦め的な感慨ではなく、この4年間をしっかりと反省してこの先は自分なりに進化していこうという前向きな心持だったと思う。
そんな想いにしみじみとしながら、3年間住み慣れたアパートの部屋で卒業式出席のためのスリーピースのスーツに着替えた。就職用に仕立てた最新のスーツが別にあったのだが、この日は何故か、大学の入学式のために購入して着用して以来全く着ていなかった4年前のスーツを選んだ。形も何となく野暮ったくて柄も古臭い感じだったが、大学生としての始めと終わりに、おそらく着るのはそれっきりになるだろうと思うと、無性に着ておきたかったのだ。4年前と4年後の今、同じものを着て、中身の自分自身は変わったのか、成長できたのか、自問自答してみたかったのかもしれない。「嗚呼、俺は何も変わってはいないようだ」と独りため息が漏れる。ただ、それは諦め的な感慨ではなく、この4年間をしっかりと反省してこの先は自分なりに進化していこうという前向きな心持だったと思う。
卒業式というのはいつの時も、生まれ変わりの気分にさせてくれるような"優しさ"がある。
4年前の入学式は一人で下宿からバスに乗って会場に向かったが、卒業式は私の兄の時も見ておかなかったということで、父が車で柏崎市から新潟市まで駆けつけてくれた。そこに私とゼミ仲間が同乗して新潟市中心部の会場に向かった。そして卒業式そのものは恙無く形式的に淡々と進行して終了した。小学生のころから長きにわたる学業生活は実にあっけなく幕を閉じたのだ。
賑々しい謝恩パーティーなどは遠慮して、父の車でアパートへ引き上げると、一息入れてから鈴木辰治教授に親子で御礼のご挨拶に伺うこととした。研究室に行くと例によって机に覆いかぶさるように執筆されていた教授はその手を止めて、父と私からの謝意の言葉を少し畏まってお聞きになり、営業マンらしく腰を低くした父から手渡された地元柏崎市の地酒である「越の誉」の2本箱詰めを受け取ってくれた。酒豪の教授には何より喜んでいただける手土産だった。
教授にさよならの挨拶を終えてしまうと、本当の意味で新潟大学五十嵐キャンパスとの関係の一切が終わったような気持ちになり何とも言えない寂しさがこみあげてきた。あとは退去期限までに住み慣れた「あけぼのハウス203号室」を片付けて実家の柏崎市へ引き上げるのみだ。ガス、水道、電気の解約の手続きなどもあり慌ただしく過ごしていれば感慨に耽ることもなく日日は過ぎていくのだろう。
4年前の入学式は一人で下宿からバスに乗って会場に向かったが、卒業式は私の兄の時も見ておかなかったということで、父が車で柏崎市から新潟市まで駆けつけてくれた。そこに私とゼミ仲間が同乗して新潟市中心部の会場に向かった。そして卒業式そのものは恙無く形式的に淡々と進行して終了した。小学生のころから長きにわたる学業生活は実にあっけなく幕を閉じたのだ。
賑々しい謝恩パーティーなどは遠慮して、父の車でアパートへ引き上げると、一息入れてから鈴木辰治教授に親子で御礼のご挨拶に伺うこととした。研究室に行くと例によって机に覆いかぶさるように執筆されていた教授はその手を止めて、父と私からの謝意の言葉を少し畏まってお聞きになり、営業マンらしく腰を低くした父から手渡された地元柏崎市の地酒である「越の誉」の2本箱詰めを受け取ってくれた。酒豪の教授には何より喜んでいただける手土産だった。
教授にさよならの挨拶を終えてしまうと、本当の意味で新潟大学五十嵐キャンパスとの関係の一切が終わったような気持ちになり何とも言えない寂しさがこみあげてきた。あとは退去期限までに住み慣れた「あけぼのハウス203号室」を片付けて実家の柏崎市へ引き上げるのみだ。ガス、水道、電気の解約の手続きなどもあり慌ただしく過ごしていれば感慨に耽ることもなく日日は過ぎていくのだろう。
3月半ばのいまだ冷たい風があたる窓越しから日本海を遠くに眺める見慣れた景色が夕暮れに黄昏れていく中で、大学生活とは如何に自由でかけがえのないものだったのかと思えるエピソードのあれこれが止め処なく思い返されてきた。
(「新潟独り暮らし時代57「新潟大学卒業の日」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代58「あけぼのハウス引上げの日(その1)」」に続きます。)
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
①「へたれ県職員の回顧録」の初回はこちら
②「空き家で地元振興」の初回はこちら
③「ほのぼの日記」の一覧はこちら
➃「つぶやき」のアーカイブスはこちら
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