新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎中学生時代10「演劇クラブの思い出」

●演劇クラブの思い出

 柏崎こども時代の小学校編に書き漏らしたのだが、私は小学高学年の時に担任の教師を大いに落胆させたことで私自身にもトラウマになった出来事があった。
 小学校3年生くらいから、出来が悪いくせに学級委員長などというものを毎年拝命していた。仕切りたがりの性格だったのか、賢い級友達にそそのかされたのか、いずれにしてもクラスメイトを前に教壇に立って、何かを伝達したり皆の意見を聴いて集約したりということを重ねて来た。なので、人前でもっともらしい事を話したりするのも得意だと思いこんでいた節がある。
 柏崎市立比角小学校5年の秋に、定例の生徒会長選挙が開催された。生徒会役員というのは、男女とも、スポーツや勉強で名を馳せていたり明るく爽やかだったりする、いわゆる人気物が推挙されて選挙に臨むのであるが、肥満児で文武共にうだつのあがらない私は、それでも学年主任の教諭から統率力があると見込まれたのか、選挙管理委員長という大役を仰せつかった。
 私も幾度もの学級委員で馴らした自負からそれを安請け合いして、選挙の当日に候補者が順次演説を始める前に、全校生徒が集う体育館の演壇上にて良い選挙となるよう挨拶を始めたのであるが、なんともたどたどしくて極めてずさんな内容になってしまった。
 推してくれた教諭からはあからさまに「見損なったぞ」と叱責されたし、自分自身が一番恥晒しを痛感していた。今から思えば教諭も事前に仕込みをしてくれてもよさそうなところ、昭和当時の自主性を重んじる校風のためなのか、私の発言内容の事前確認やご指導ご助言など全く無いままに、もちろん手持ちメモなども準備の無い完全なアドリブで、全校生徒が体育座りして聴き入る静寂を前に口を開いてしまったのだ。
 この大失敗の後で残る6年生の時の一年間は、学校行事に関してはとにかく表舞台に立たないように潜むような日々を送っていた。児童が家庭から持ち寄るベルマークを集めて備品などの購入を行う委員会など、とにかく地味な分野に身を投じていた。
 そんな経験から、柏崎市立第二中学校に進学しても、大舞台に立つことなどは極力避けたいと思うのだったのだが…。
 中学校では、放課後のいわゆる部活動のほかに、授業の一環として毎週一時限が充てられたクラブ活動というものがあった。どんな経緯かは思い出せないが、私は何人かの同級生と共に「演劇クラブ」に入ってしまった。負けず嫌いゆえに人前で話したりするための訓練になるとでも思ったのだろうか。肥満のくせにハードなバスケ部に入るなど、この頃の私は今では考えられないくらいにアグレッシブだったようだ。
 小学生時代にアドリブでの発言に手痛い失敗をした私は、台本どおりにセリフを話せばよいと考えて、人前に立つためのリハビリを始めようと思っていたのかもしれないが、担当の教諭はかなりの演劇好きで、教室での小作品による練習においても、演技力や表現力にかなり熱く力を入れて指導をしてくるので驚いたものだ。
 忘れられないのは、作品タイトルは思い出せないが、「少女は"はにかんだ"」という台本のト書きで、役を充てられた級友の女子が丁度自らと同じ年頃の少女の”はにかむ”態度がうまく示せなくて教諭から何十回もダメだしをされた挙句、周囲の私達も一緒になって”はにかむ”ってどういうふうに表したらよいか結構な議論に時間を掛けたことだ。自分自身としては「こうだ」と思っていても大勢の人から「そうだ」と思ってもらえなくてはならない。特に”はにかむ”とは何と難しい態度だろう。演技の奥深さを感じる一方、セリフが無く態度だけで人へ何かを伝えることの面白さに目覚めさせてもいただいた。
 毎年秋の学芸会が演劇クラブのお披露目の機会であり、一年生の時は主役級を占める三年生たちにリードされながら少しだけ端役をやったり裏方作業にあたった。ここでも三年生は皆が大人びていてテレビで見るドラマのように思えた。演技の上手いヘタというなら上手くはないのだろうが、表情や声に熱意が乗っていることが伝わる。熱心な教諭の指導のたまものなのだろう。人心に響かせるためのエッセンスを学べたような気がした。
 二年生になると、中心となって上級生も前にした体育館の舞台で演じなければならない。これも経緯が思い出せないのだが、クラブ員が進級に際して減ってしまったためなのか、三人くらいしか舞台に出ない演題で準主役にさせられてしまった。私が扮する中学校の独善的な優等生が、級友が主役として演じるクラスのはみ出し者にイラつくも、次第に認め合う関係になつていくという道徳的なニュアンスを感じさせるシナリオだったと思う。
 全体として小一時間ほどの演目だったと思うが、私と主役の彼は、とにかく一人芝居の時間が長いのだ。今から思えばよくもあれだけの長いセリフを覚えて演じられたものだと思う。アドリブではないので衆目を集めてライトに照らされた舞台の上でも不思議なくらい緊張した覚えはないのであるが、さすがに観客の評価を気にしながら演技する余裕は無かった。後日に厳しい指摘までは受けていないのでまあ”そこそこ”にやりきれたのだろう。
 「演劇クラブ」は、一旦はへたりこんだ"大勢の人達を前にするための心神"を再生させてくれるような経験を与えてくれて、多感な中学生時代に非常に重要な場だった。なのに、あらゆる面でハードだったバスケ部の思い出が強烈すぎて具体的に思い出せる事が少なくて不思議なくらいだ。三年生になってからの舞台などは全く思い出せない。不安だった高校受験に備えて関与を薄めていたのかもしれない。もしくはクラブ活動の制度そのものが変わってしまったのかも…。それすら思い出せない。
 曖昧な記憶の中で書き記してきたので誤認も多いかもしれない。是非とも当時一緒に演技した級友たちなどから当時の思い出話を聴いて、心の奥底に眠っているかもしれない心神の形成に大きく寄与してくれた場面などを改めて発掘してみたくて仕方がない。

(「柏崎中学生時代10「演劇クラブの思い出」」終わり。続きは近く掲載します。)
小学生時代までの「柏崎こども時代」(全46話)はこちら
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