新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎中学生時代8「先生、バスケがしたいです(その5)」

●先生、バスケがしたいです(その5)

 柏崎市立第二中学校での部活動の思い出といえば、運動音痴なのに飛び込んだバスケットボール部で、二年生から"基礎練習"という名のいじめに近い"シゴキ"を受け続け、それでもそもそもの目的だった肥満体の解消に加え打たれ強い根性を身につけられたということに尽きる。
 バスケそのもので頭角など現しようのない運動センスの無さだったから、放課後毎日のようにヒイヒイとぶっ倒れる寸前まで身心を酷使した挙句、本日も生きて帰れると安堵しつつ、帰り道途中の明治牛乳販売店でアイスや清涼飲料など買い食いするくらいが楽しみだった。貧乏な僕は帰路が同じ方向の近所の自営業の同学年の友人に奢ってもらってばかりだったが。
 そもそも、我が中学のバスケ部は弱かった。
 新入生の時に目の当たりにした逞しくて頼もしい三年生達も、市内の東中学校や第三中学校などの強豪には足元に及ばなかったし、二年生はといえば、真面目に取り組む部員がほんの数名で、色々なやんちゃを起こして問題になるようなクセの強い者が数人いて、放課後の部活時間ではバスケのプレイもそこそこに我々一年生のシゴキに熱を入れたり、遊び惚けていたので、三年生が卒業した後にはそのまとまりの無さが更に露呈して、チームワークを発揮できずにいたように思えた。
 そんな上級生も夏の地区大会の終わりと共に引退して、二年生になっていた我々の”天下”がやってきた。これまでは他校との試合において、ゲーム状況により抜擢される上手な者が予備番号のユニフォームを着てコートに出ていたのだが、いよいよ最上級生となり、我が学年に正規の背番号が付されることになる。
 当時のバスケの番号振りは、ポジションなどにより「4番」から数字が割り振られるのが常道で、5人制だから基本的に4番から8番までがレギュラーメンバーとなる。
 当時あまり人気の無かったバスケ部には、途中退部した者もあったので、同学年が9人しか居なかった。どう考えても私は一番の下手くそだったのだが、最後の9人目となる12番でなく、11番が割り振られた。顧問の教諭はバスケ経験者ではなくにわか勉強仕込みの上、あまり放課後の練習には立ち会わなかったので、実力の順列を誤認していたのかもしれない。
 この顧問の関与の緩さは、目が行き届かないという点で上級生が陰に隠れて行う下級生のシゴキを助長したし、部として強くなれないことにもつながったのであるが、一方で、良い意味の放任が自由な雰囲気を生んでいたことも事実だった。
 昭和後半のこの頃にしては珍しかったのだが、運動部でありながら髪型は自由だったし、練習そのものはきつくてもどこかしら明るさがあった。この環境はデブの私でも退部せずに三年生となって引退するまでやり抜けたことに大いに寄与していた。

(「柏崎中学生時代8「先生、バスケがしたいです(その5)」」終わり。「柏崎中学生時代9「先生、バスケがしたいです(その6)」」続きます。)
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