●9先生、バスケがしたいです(その6)
肥満体型から抜け出して、身長もそこそこ伸びてきた私は、最上級生の人数の少ないこともあって、スタメンにはなれなかったが、時折スポットの交代要員として試合に出してもらえることもあった。バスケというのは同じ選手が試合中に何度でもベンチとコートを行き来できるので、主力選手を一時的に休ませるなどのために私の様な補欠も重宝されるのだ。幅広くチャンスを与えることにつながるバスケの大きな魅力だと思う。
当時の試合は15分ハーフの30分。バスケというのは試合時間中の殆どを走り回っているので、30秒以上動き続けることが無いと言われる野球などと比べて大変に苛酷なスポーツだ。肥満体上がりの私は5分もすれば完全に息があがるので出ては直ぐに引っ込められるのであったが、それでもシュートは決めてみたいと欲を出したものだ。
平日の部活やそれ以外でも体育館が使える時にマメにシュート練習をしたものだ。ハーフコート以内だったらどこからどんなロングシュートでも入れられるような自信が持てる位になったし、フリースローラインからゴールに背を向けてノールックで決められるようにもなった。ごくまれにではあるが、試合でスポット交替でコートに居る刹那、当時はルール化されていなかった今で言うスリーポイントシュートを決めることがあった。
そんな私を顧問の教諭は優良誤認してくれていたのかもしれない。
柏崎市内の中学校同士による三年生夏の大会にかろうじて一勝を挙げて、少し広域の地区大会へと歩を進めた我が第二中学校バスケ部は、電車に乗って現在は上越市に合併されている名立町の中学校体育館に乗り込んだ。
これ以上は勝ち進める訳がないという当部の弱さを部員皆が心得ていたので、最後の夏の思い出とばかり試合に臨むと案の定、点差は開くばかり。コールド制など無く気を抜けばどこまでも点差を付けられるので、負けるにしてもできるだけ情けない結果にはしたくない。ゲーム運びに余裕が無いので少ない主力メンバーを交替させるタイミングが無く、私ともう一人の補欠ベンチメンバーは全く出る幕が無いまま、ゲームセットまで残り3分程度と迫っていた。
ベンチに座る補欠の私ともう一人には、なかなかウオームアップの指示が出ない。どう考えてもこのまま終了の雰囲気になっていたのたが、突如、私に「アップしろ次のファールで出す」と顧問の教諭は声を掛けて来た。
この時ほど嬉しかったことはない。二人の補欠のうちからどう見ても技能的に劣ると自身で思う私を登用してくれるというのだ。最後の試合出場という言葉が頭の中をグルグルまわる中で、最大限駆けずり回った。残念ながら放った僅か一本のシュートは決めることができず、部活動の集大成となる思い出を作ることはできなかったが。
顧問の教諭は、我々三年生の最後の試合ということで、温情的な思い出づくりとして、補欠も全員出場させてやろうということなのかとも思ったが、残る一人がコートにでるタイミング無くゲームは終わってしまった。最後の試合にベンチに居るのみだった彼の心中を思うと暫くは切なかったものだ。
顧問にしてみれば、まぐれのようにツボにはまると決まっていく私のロングシュートなどの覚えがあって、ムードを変えたいという賭けに出たということなのかもしれない。その大博打を正に空振りで終わらせてしまった私の中学時代バスケ部最後の試合だったのだ。
それでも、最後の最後に少しでもコートに立たせてもらえた思い出は、どこか高揚感にも似た満足感を残すことができて、いじめに近いシゴキ練習やヘタクソぶりを罵倒され続けた三年間を悔いの無いものとして振り返らせてくれる。入部を希望した際に担任教諭から肥満体型により「君にはバスケ部は無理」といわれたことを三年の間を通じて跳ね返せたこと、見返せたことは、その後の生活の苦難や課題にも向き合える根本の柱を心身に造ってくれたように思える。
しかし、バスケそのものはヘタクソに違いはないのに、調子に乗って何か勘違いしてしまい、進学した高校でもバスケ部に入って色々とやらかして恥をかくことになるのだ…トホホな私。
〓中学バスケ部編を終わります〓
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↓柏崎市立第二中学校登下校路の(株)リケン付近の現況。企業城下町だった。