●狭い家からの暮らし始め(その1)
幼少の頃というのは家の中での生活が大半になる。
物心つくくらいの頃を振り返ると、今から思えば耐えられないくらいの手狭な家だった。
昭和30年代始めに、私生児で一人っ子だった母は自分の母親、つまり私の祖母を引き取ることを条件に父と結婚し、私の兄が生まれたあたりで一軒家を築造した。
当時は建売とかは珍しく、購入できた土地の範囲内で資金繰りとの兼ね合いで大工に建築を発注するのが普通だったのだが、中小企業勤めの父と大工場ではあるが中学卒の工員として働いていた母は共働きとはいえ当然経済的に余裕はなく、普通自動車も乗り入れられないほど狭い砂利道を通って入る猫の額ほどの土地を買って、必要最小限の部屋で構成された家を建てるので精いっぱいだった。
玄関から直ぐに4畳半ほどの洋間があり、続けて6畳の和室、その右隣に3畳の和室、そこから玄関方面に戻るまでの空間に細長い台所と和式一基の便所という間取りの、長方形型で極めてコンパクトな平屋で、家というより箱のような感じだった。
というのも、いわゆる木造建築ではなく、壁がブロック積みコンクリ固めで外壁は灰色、屋根瓦もコンクリ製の緑色で、異彩を放つ建物だった。営業マンだった父が付き合いのある人から、安上がりにできるとして先駆的な建造を持ち掛けられたということらしかったが、その後、この建築工法がメジャーになることはなかったと思う。気密性が高かったかというとそうではなく、数年経つとコンクリの伸縮の関係なのか、窓枠の端に隙間ができて、私が小中学生の頃は冬にヒューヒューと隙間風やヘタすると吹雪が入り込んで、新聞紙で穴埋めすることになっていた。
予算の都合で建坪を大きくできなかったためか、それとも、どんなサイズの家であろうが一軒家たるもの標準装備として当然とされていたためか、はたまた単なる見えなのか、我が家にも長方形の家の長辺部分に即して小さな庭が設けられ、なんと魚を放つ池まであった。池といっても直径1m少しくらいの円形のコンクリ製で深さは50cmくらい。小型のコイを放ち、ホテイアオイなどを浮かべて、少しは気分を出していたものだ。
武骨な灰色そのままのコンクリ池は、とても癒しの演出とまではいかなかったが、子供の教育には非常に有意であったと思う。すなわち、生き物のの世話、それは単に餌やりということでなくて、池の水を定期的に入れ替える時に、フンやらコケで汚れた槽内に裸足で入ってブラシをかけて清掃するなど、汚れ仕事を何度も実践したことは重要だったと思う。また、池の水を側溝に排水する際に、サイフォンの原理でホースを使って水の流れを作るなど、小さいながらも実用的な生活の知恵が身に着く機会にもなった。幼い頃に実際に身体を動かして汗を流してやって得た知見はいつまでも忘れないものだ。
(「柏崎こども時代8「狭い家からの暮らし始め(その1)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代9「狭い家からの暮らし始め(その2)」」に続きます。)
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