◇◇◇三菱・ギャラン・ヴィエント
[1994年10月から2009年9月まで子育て時代を支えてくれた]◇◇◇
[1994年10月から2009年9月まで子育て時代を支えてくれた]◇◇◇
▼4躍動編
ギャランヴィエントは、初めての子が生まれて2年後に購入し、翌年に第二子が生まれ、結局は15年間も乗り続けた車であり、子供達が高校生、中学生になるまでという、まさに子育ての最盛期に活躍した車だった。
一方で、その期間というのは、人事課において県庁全体を揺るがした公金不適正支出問題の調査班員として激務の渦中に投入されたり、そうした騒動を受けて新設された新行政推進室という部署の立ち上げと実績づくりに奔走したり、当時は県庁随一の過酷な職場であった財政課に、しかも7年間も留めおかれて、予算査定シーズンになると午前様帰りの日々に疲弊していた、まさに県庁勤めにおいて忙しさのハイエンド状態が長く続く時期でもあった。
なので、平日は子供達の寝静まった後の帰宅が常態であり、休日も朝から晩までの出勤が少なくなかったため、育ち盛りで一番可愛い時期の子供達に殆ど接することができなかった。全て任せきりにしてしまった妻には頭が下がる思いしかないのだが、そうした感謝も込めて、久々に続けて休みが取れる時などは、妻と子供を連れてギャランで方々に旅行に出かけたものだ。
小学生くらいの子供達が楽しめる観光施設などを、旅行雑誌や2000年前後のその頃に発展著しかったウエブサイトも検索して行程を緻密に組んだものたが、仕事の忙しさに疲弊していた頃とはいえ40歳前後のその頃は気分を変えるために頭を使うのは苦にならなかった。宿泊は必ず温泉のあるホテルか旅館と決めていて、自分自身の慰労やリフレッシュのためにも大事な行事だった。
特に、財政課の頃には、毎年四半期に一度ずつくらい、年に4回くらいは温泉つき旅行にギャランで出かけていたと思う。そのうちの一回くらいは県外に連泊で出掛けるような企画にして、山形、福島、群馬、栃木、長野など近隣県で魅力的な温泉地を抱える観光地の大抵は巡ったのではないか。
高速道路では車幅とホイルベースが長いギャランはその安定感で全く運転疲れを感じさせず、どこまでも長距離を走っていけそうだったし、山の道路のつづら折りでも、FF車ならではのフロントヘヴィで少し操舵に力が入る時はあるが運転の楽しさの範疇であり、比較的早い速度でのカーブ入りでも四輪がしっくりと道を捕えている感覚が体感された。これはこのギャランのウリでもあった四輪ダブルウイッシュボーンサスペンションによるものだったのかもしれない。とにかく長旅の途中で疲れを感じさせないクルマであった。
そんな乗り心地を過信して、ある夏にディズニーランドを目掛けてギャランで新潟から千葉まで行く旅程を組んだ。新潟を22:00頃出て早朝に千葉みなと駅周辺に到着、辺りのファミレスで朝食を摂って、宿泊予定のホテルに車庫入れし、京葉線で舞浜まで行くという強行軍。出発前の夕方早めに就寝したのだが深くは眠れず、TDLで元気に遊ぶ子供達の相手をしていくのがえらい辛い一日であった。自分が明るく振る舞えなくなる限界はどの程度のものか教訓を得たほろ苦い思い出だ。
子供達が小学生くらいの数年間、夏休みに繰り出す定番が上越国際プレイランドであった。併設のホテルグリープラザ上越を定宿としたが、ヨーロッパ、アルプスの建物を思わせる高い天井と大きな三角屋根が印象的なリゾート感満点で、都市部暮らしから離れる非日常感がお気に入りだった。スキーシーズンがメインのホテルなのだろうが、まだ子供が小さくてリスクがあったので専ら夏場にプレイランドの遊園地、特にウオーターパークをメインにして訪れたものだ。
ギャランの思い出話をしている中で何故このホテルを取り上げるかというと、新車で購入して以来快調だったギャランにおいて、大きなトラブルが発生したことが忘れられないからだ。
(「ほのぼの愛車遍歴15「三菱・ギャラン・ヴィエント」(その4)」終わり。「ほのぼの愛車遍歴16「三菱・ギャラン・ヴィエント」(その5)」に続きます。)
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
①「へたれ県職員の回顧録」の初回はこちら
②「空き家で地元振興」の初回はこちら
③「ほのぼの日記」の一覧はこちら
➃「つぶやき」のアーカイブスはこちら
ギャランヴィエントは、初めての子が生まれて2年後に購入し、翌年に第二子が生まれ、結局は15年間も乗り続けた車であり、子供達が高校生、中学生になるまでという、まさに子育ての最盛期に活躍した車だった。
一方で、その期間というのは、人事課において県庁全体を揺るがした公金不適正支出問題の調査班員として激務の渦中に投入されたり、そうした騒動を受けて新設された新行政推進室という部署の立ち上げと実績づくりに奔走したり、当時は県庁随一の過酷な職場であった財政課に、しかも7年間も留めおかれて、予算査定シーズンになると午前様帰りの日々に疲弊していた、まさに県庁勤めにおいて忙しさのハイエンド状態が長く続く時期でもあった。
なので、平日は子供達の寝静まった後の帰宅が常態であり、休日も朝から晩までの出勤が少なくなかったため、育ち盛りで一番可愛い時期の子供達に殆ど接することができなかった。全て任せきりにしてしまった妻には頭が下がる思いしかないのだが、そうした感謝も込めて、久々に続けて休みが取れる時などは、妻と子供を連れてギャランで方々に旅行に出かけたものだ。
小学生くらいの子供達が楽しめる観光施設などを、旅行雑誌や2000年前後のその頃に発展著しかったウエブサイトも検索して行程を緻密に組んだものたが、仕事の忙しさに疲弊していた頃とはいえ40歳前後のその頃は気分を変えるために頭を使うのは苦にならなかった。宿泊は必ず温泉のあるホテルか旅館と決めていて、自分自身の慰労やリフレッシュのためにも大事な行事だった。
特に、財政課の頃には、毎年四半期に一度ずつくらい、年に4回くらいは温泉つき旅行にギャランで出かけていたと思う。そのうちの一回くらいは県外に連泊で出掛けるような企画にして、山形、福島、群馬、栃木、長野など近隣県で魅力的な温泉地を抱える観光地の大抵は巡ったのではないか。
高速道路では車幅とホイルベースが長いギャランはその安定感で全く運転疲れを感じさせず、どこまでも長距離を走っていけそうだったし、山の道路のつづら折りでも、FF車ならではのフロントヘヴィで少し操舵に力が入る時はあるが運転の楽しさの範疇であり、比較的早い速度でのカーブ入りでも四輪がしっくりと道を捕えている感覚が体感された。これはこのギャランのウリでもあった四輪ダブルウイッシュボーンサスペンションによるものだったのかもしれない。とにかく長旅の途中で疲れを感じさせないクルマであった。
そんな乗り心地を過信して、ある夏にディズニーランドを目掛けてギャランで新潟から千葉まで行く旅程を組んだ。新潟を22:00頃出て早朝に千葉みなと駅周辺に到着、辺りのファミレスで朝食を摂って、宿泊予定のホテルに車庫入れし、京葉線で舞浜まで行くという強行軍。出発前の夕方早めに就寝したのだが深くは眠れず、TDLで元気に遊ぶ子供達の相手をしていくのがえらい辛い一日であった。自分が明るく振る舞えなくなる限界はどの程度のものか教訓を得たほろ苦い思い出だ。
子供達が小学生くらいの数年間、夏休みに繰り出す定番が上越国際プレイランドであった。併設のホテルグリープラザ上越を定宿としたが、ヨーロッパ、アルプスの建物を思わせる高い天井と大きな三角屋根が印象的なリゾート感満点で、都市部暮らしから離れる非日常感がお気に入りだった。スキーシーズンがメインのホテルなのだろうが、まだ子供が小さくてリスクがあったので専ら夏場にプレイランドの遊園地、特にウオーターパークをメインにして訪れたものだ。
ギャランの思い出話をしている中で何故このホテルを取り上げるかというと、新車で購入して以来快調だったギャランにおいて、大きなトラブルが発生したことが忘れられないからだ。
(「ほのぼの愛車遍歴15「三菱・ギャラン・ヴィエント」(その4)」終わり。「ほのぼの愛車遍歴16「三菱・ギャラン・ヴィエント」(その5)」に続きます。)
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
①「へたれ県職員の回顧録」の初回はこちら
②「空き家で地元振興」の初回はこちら
③「ほのぼの日記」の一覧はこちら
➃「つぶやき」のアーカイブスはこちら