新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代30「学業は燃えていたか(その1)」

●学業は燃えていたか(その1)

 アルバイトにサークル活動、趣味の音楽などの思い出をつらつらと記してきたが、大学生の本分たる肝心の学業はどうだったのか。そういえばどうだったっけと思い返してみる。
 先にも記したとおり、私には同じ新潟大学に先に入学していた兄がいて、5年も歳の差があったので頻繁にという程では無かったが、高校生まで住んでいた実家のある柏崎市内の店舗では中々陳列されていないような、オーディオ機器などの現物を見たり視聴したりなどするために県都新潟市を訪れた際に、雑談の中で新潟大学における学業などを漏れ聞いていた。
 高校生までの教科書に即した授業とは異なり、多くは教授自身の著作を買わせることによる参考文献を、かいつまんだり引用したりして使用はするものの、わりと教授自身の持論を展開する一方的で時には奔放さも感じるような講義が殆どであると予め知っていたのだ。
 私が高校生くらいまでの昭和後半の頃は、中学も高校も公立であったが、成績表に定期試験の学内順位が示されていた。5歳上の兄の頃などは掲示板に名前と順位が張り出されていたという。競争の顕示を異常なまでに極端に避けようとする現代の教育では考えられない所業であったが、勉強に打ち込む者には頑張る励みになり、成績の低迷が続く者には読み書き以外の分野を早くから模索させるという意味では、実は多様性を展開させるある種の装置として効用があったのではないかと思える。
 そんな時代に兄は中学から高校を通して殆ど学年トップの成績であったので、両親はもとより近しい親族の中でも初めてとなる国立四年生大学へ進学すると、早々に当時の大学教育の本質を見抜いてしまい、効率的に最低限の出席による単位取得を図りながら、趣味に興じるためのバイトや麻雀などに傾注したようだった。
 問題なのは、ボンクラ頭で身の程を知らない弟の私が、兄の話を真に受けて、大学の学業なんてそんなものなのかと嘗めた意識を持ってしまったことだ。実際に入学して教養課程という科目の受講が始まると、とりわけ年輩の重鎮らしい教授陣の講義は、初めて聴くのに"これは旧態依然としている"と直感できるものが多かった。昭和当時の新潟大学では十年前のノートがそのまま使えるなどと巷で揶揄されていたが、さもありなんだった。

(「新潟独り暮らし時代30「学業は燃えていたか(その1)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代31「学業は燃えていたか(その2)」」に続きます。)
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