新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代20「カナヅチ苦労(その2)」

▼20カナヅチ苦労(その2)

 カナヅチがプール授業の一時限の間を耐え抜くというのは、本人にしてみれば一分が一時間に感じられるほどの精神地獄のような苦痛であったが、更には、先生も級友も泳がないままの私を許容できなくなってきているような雰囲気が日に日に強まってきていることも相まって、私の心は臨界に達しそうになってきた。
 重圧に押し潰されてしまいそうな極限の精神状況の中で、何故か私の心の中には負けず嫌いの気持ちが沸々としてきたから我ながら不思議だった。馬鹿にされているような視線に耐えきれないというよりも、周囲を見返してやれないかという意識が突然芽生えて大きくなっていったのだ。
 小学校4年生のプール授業が始まって間もない頃、校内の掲示板で市内体育施設で夏休み期間中に短期水泳教室が開催されるというチラシを見つけると、帰宅してすぐに母に教室に通いたいと申し出た。プール授業が死ぬほど嫌だったが親には心配かけまいと家では話していなかったので、母親は私の悔しくて辛い思いを聞くとすぐに手続きをしてくれた。
 全く泳げない状態から少しずつ教えてくれるというその教室は私にとって正にストライクだった。小学校の学友達には偶然なのか泳げない児が見当たらなかったのだが、教室にくると泳げない児ばかりなのだ。みな苦痛に耐えている者同士。学友でもないこの場限りのメンバーなので楽しくお喋りするということはないが、何となく共に頑張ろうというフレンドリーで過ごしやすい空気になり、見るのも嫌だったプールに入ることも厭わなくなってきた。
 そうなればしめたもので、カナヅチの身心を良く理解して優しく教えてくれるコーチの言うことに素直に従っていくうちに、二週間ほどの教室を終えるころには、息継ぎまではできないものの10メートルくらいは、なんと"ビート板"も無しで、バタバタながら泳げるようになったのだ。
 夏休み明けには例年同様に小学校のプール授業の最終盤が待ち構えていた。25メートルプールを泳ぎ切って仕上げるようなことになるのだが、毎年2,3メートルほどバタバタしては足を着くことを繰り返して殆ど歩くような様で恥をかいていた私も、その年は、途中の足着きなしで25メートルを始めて泳ぎ切れた。ただ、息継ぎの技が習得できていなかったので、ゴールすると死にそうな形相でゼイゼイと息を荒げていたと思う。
 長くカナヅチの汚辱に耐えてきた私には正に革命的な日であったのだが、そんな思いを知ってか知らずか、級友も担任の先生も私を褒め称えるでもなくいつもどおり淡々としていたことが思い出される。
 良くも悪くも自分が考えるほど周囲は自分の事など意に介していないのだなあと思った。これから先に自分が深く思い悩むことがあっても、他人や周り、全体からしてみれば取るに足らないことであって、そう考えると自分にとっても結局はどうってことないことになるのかなあ、などとぼんやり考えたことが、プール嫌いだったあの頃を振り返ると思い浮かばれるのだ。

(「柏崎こども時代20「カナヅチ苦労(その2)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代21「イシザキ遊技場(その1)」」に続きます。)
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
 ①「へたれ県職員の回顧録」の初回はこちら
 ②「空き家で地元振興」の初回はこちら
 ③「ほのぼの日記」の一覧はこちら
 ➃「つぶやき」のアーカイブスはこちら

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「回顧録」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事