新潟久紀ブログ版retrospective

「超基礎的自治体」としての新たな統治の仕組のために (後編)

※「超基礎的自治体」としての新たな統治の仕組のために
  ~ 市町村合併後を見据えた県行政推進システムの変更設計思想~
 平成15年1月 傅説辰星堂 (ふえつしんせいどう[ペンネーム])

(後編)

5 県に求められる機能のうち県の積極的存在につながるものに注目する
○ 中間的な存在として想定される消極的役割
県の存在を左右する市町村合併が一通り落ち着くと、とりあえず県は何を担うことになりそうか。
法令による所定の地方自治業務の中で、規模や専門性・高度性などの面で市町村が受け取ら(れ)ないとしたものを、地方自治の補完原則の名の下に県が受け皿となるという「残り物的業務」と、国としてまとまるための国の出先的機能としての役まわりなど「ミニ国家的業務」が、確実に県の業務として残されると考えられる。
しかし、いずれも県を県として地方自治上独自の存在たらしめるような積極的なものとは思えず、また、この観点では既に多くの研究報告においてアプローチされてきているのであまり「面白み」も無く、自主研究としての「食指」が動かない。我々以外の研究チームに任せることとしよう。

○ 市町村を超える存在としての要請に応える積極的役割
一方で、生活者の立場と視点で求められる「多様な行政ニーズ」と、固定された区域内で合意形成して均一的サービスを提供せねばならないという宿命を抱える「基礎的自治体としての行政システム」とのミスマッチにどう対応するかということが市町村の大きな課題になってくると思われる。
仮に税財源の移譲が進み、情報公開促進によるベンチマークの推進で「担税対サービス水準」がよく見えるようになると、ミスマッチに関する住民の問題認識はさらに大きくなる。
例えば、河川管理のあり方を考えた時、下流域の市町村住民であっても上流域を含めた全体の環境や資源管理のあり方に関する意識が高まっているし、また、上流域市町村住民も水源税などの議論で下流住民に関与すべきとの動きもあり、各々自市町村だけで閉鎖的に合意形成して自己完結的に政策執行することが不可能な課題が増えている。
それらは、命を守るための治水・利水対策などのように、およそ万人に関わる普遍的で物理的にも分かりやすい河川管理上の課題として市町村域を超えるその広域性や大規模性に基づいて議論の余地無く県又は国による所管が妥当とされるというものではなく、市町村の立場や利害を端緒とする「市町村段階の課題」でありながら当該市町村のみでは対応できないという課題である。
雇用確保を中心とする地場産業振興についても、単体の企業育成や支援という“点的な対応”ではもはやグローバル経済の中で通用できず、企画・生産・流通・販売といった産業関連構造の「つながりと流れ」全体としてのいわゆる「クラスター」といった考え方が必要であるのはもはや常識と言え、物理面でも情報面でも一市町村の枠内では対応できなくなっている。
「資本が大きい」又は「広域に影響力のある」企業の誘致や育成という「規模の視点」であれば概して県の関与を引き出しやすいが、今日地域的に経済効果をもたらすほど成長力が大きく見込まれる企業は、必ずしも資本や工場の規模等に比例するのではなく、小規模ながらも情報ネットワークを駆使できるサービス・ソフト系のいわば先鋭的な企業や、効率性の追求から一定地域に企業構造を集積させずむしろ海外を含めて拠点を拡散するものが多いこと、また、その経済効果も雇用や役務などが拠点を中心にほぼ放射状的に波及するというよりは全国又は世界規模で散在・点在する場合が多いので、一義的に県の関与
を持ち出しづらくなっている。事業規模や負担の程度の視点で担い手とされた県による工業(産業)団地の提供方式が上手くいっていない事例が多く見られることからも、規模という視点での県の関わり方はより消極的方向で見直されるだろう。
このように、対象となるものの機能や構造全体をとらえてどう対応すべきかという視点が必要となる課題は市町村毎に問題意識や利害も異なり、質的に等しい事務を共同で行うといった単なる水平的な市町村連携では対処が困難な問題なので、市町村自身の利害に直接的に関わりながらも個々の市町村の利害を超えた立場での合意形成と意思決定が求められる難しい課題である。
経済のみでなく社会構造や人々の意識の面でも、全国的・全地球的視点が普及・浸透している中で、一市町村の自己完結性や自律性が制約されていく分野はますます増えていくと考えられる。
一方で分権推進と合併を通じて、市町村が好む好まざるに関わらず「自律性」を高めていくという方向があり、この大きなジレンマの中で、市町村が、自ら持つ制約条件を超える問題に、自律性を保持しながら対応する方策が求められる。

これが正に地方自治というステージで市町村を超えた存在(超市町村的存在) が要請される場面であり、県の地方自治体としての積極的存在につながるものと考えられるので、この要請に応える地方自治行政システムとしての県のあり方について今回の研究テーマとして掘り下げていきたい。


6 常に参考としてきた欧米に“ 手本” は見いだせるか
○ 「一国の統治制度」でなく「国家を越えた統治の模索」にヒントがある
地方行政のあり方を考える時に、他国の、特に近年の行政制度改革なども参考とされるようであるが、例えば機械部品の製造技術などのように共通化できたり又はそうすることが望ましいものとは異なり、社会制度については、各々の歴史、民族、風土により適切・妥当とされるものは大きく異なるし、しかも、普遍的ではない。

<イギリス>
行政改革の手法に関して何かと参考とさせていただいているイギリスについては、「人頭税」や「強制入札制度」の導入・廃止に象徴されるような、中央の強力なリーダーシップでの推進による、時にあまりに過激で揺り返しも大きな取り組みの事例が、日本の国民性に照らしても馴染みやすいとは思えないし、肝心の地方行政制度についても、ここ20年で大都市の扱いなどを目まぐるしく変化させたあげく、保守労働の2大政党が共に地方制度の全国一層制を目指しながら結局頓挫したことなどを見ると、現実的に倣っていけるものではないと感じている。
<ドイツ>
また、歴史的に大きな局面で関わりが深いドイツについても、古くから小国家が割拠し、それらが連邦国家を形成してきたという経緯もあって、日本のように全国一律の地方自治制度ではないこと、また、ナチス政権の反省から権限の集中を嫌い、連邦、州、市町村という各次元の権限配分をかなり厳密に分離し、連邦と地方が競い合う関係で戦後をスタートさせ、その後国力増強のために連邦の権限強化を進めてきた経緯を持つという点も、中央集権でスタートして近年地方分権を推進してきているという日本の流れと構造的に異なり、即座にはなじみにくい事例であると思われる。
因みに、ドイツには14,000を越える市町村があるが、多様な連合型行政単位が発達して実質的な統合が進んでいるとのこと。市町村合併論議の中であまりドイツの例が引き合いに出されないのは、合併のみが選択肢ではないことを示すことになるので敬遠されているのではないか・ ・・というのは考え過ぎか?
<フランス>
明治維新後の日本が地方行政制度創設の参考としたフランスについては、今日でも、全国同一制度、連邦制でないなど類似点が多いが、ほんの20年前まで国の任命による県知事であったことなどからも、近年になって封建的制度の改革が進められ、その途上であると言える。
特筆すべきは、市町村段階で、住民が構成するNPOが随分と行政を手伝っていること、また、広域的な問題については課題毎にフレキシブルかつ多層的に組織を編成して対応していて、日本のように殆ど同じ組合せで広域行政を行うということがない。
もっともこれは前述のように日本の地方自治体が総合行政体である故でもあるのだが、組織の枠組みありきでなく機能に応じて体制そのものを柔軟に適応させる姿勢は、日本の行政制度改革に大きな示唆を与えるものと思う。
ただ、根強い反資本主義の考え方や、カトリックの伝統から商業を一段低くみる傾向など、日本の社会思想と照らして格差も大きく、このことが日本において行政システムを始めとするフランスの社会制度が今ひとつ熱心に参照されずにきている要因となっているのではないかと思う。
<アメリカ>
今日あらゆる側面でもっとも影響を受けているアメリカについては、自治体の形態が非常に多様で、公共サービスの供給主体と自治体レベルが各州で必ずしも一致しない。また、自治体境界線に関わりなく機能に応じて行政執行機関が設けられることもある。機能性を突き詰めた地方自治のあり方として非常にアメリカらしい感じを受ける。
しかし、連邦と州の関係については、ニューディール政策や第二次大戦期の連携強化を通じて「協調的連邦主義」といわれていたものが、レーガン時代に、連邦の財政再建のために連邦政府権限の州政府への移譲の名のもとで補助金削減を行う一方、連邦政府の地方への政策的影響力強化のために財源付与なき関与(マンデイトと言われるもの)を増大させてきたことなどによる軋轢もあり、そのまま倣えるような良好事例ではないようだ。
さて、日本の地方自治は直接公選の首長によるもので、立法(議会)と行政(執行機関)がはっきり異なる指揮命令系統にあることから、議会選出首長制など地方行政において立法・行政権が共に議会に集中する体制となっているイギリスやフランスなどの西欧国家と比較して相互牽制機能で優るという指摘もある。
また、先にも触れたが、住民福祉のためにあらゆる事に手を出していけるという日本の市町村の基礎的自治体としての総合性は諸外国に比して珍しいものである。例えば、フランスはコミューン(住民に身近な機関。近隣政府。)があるものの、法律でできる事務の内容が決まっている。勝手に他のことをしてはいけないと定められている。
常に西欧が倣うべき先進であるとは言えないようだ。
良い地方自治をもたらす方策については、前述のとおり、国柄や地域特性ごとの多様な民族や風土を背景とし、さらに刻々と変化する人々のものの考え方などに影響されるものであり、経済技術などと異なり、キャッチアップの時代に日本が得意としてきた「ベンチマークで良いとこ取り」という技は使えないのではないか。
また、一国の制度を分析することは、国家(連邦)の視点で地方をどのようにまとめ上げてきたかという「内国統治」の視点で見ることになるのであり、いわば、一戸の家庭の中で、家長が家族のまとまり方として、どのように役割分担をすべきかといった考えになる。
一方で、例えば、我々は通常、家に働き手がいなくなって家の維持ができないなどという場合に、隣の若い家族の配下で同居したり縁組みして一つ家族となるなどということはしない。一戸では対応しきれない課題について自律性を保ったままで社会的な方法で解決策を模索することになる。
こうした例で考えれば分かるように、今回の研究の参考とできるのは、独立した社会構成単位が、自らに起因して自らの利害に関わるものの、自分自身若しくは単なる水平的連携では解決できない課題に、その独立性を捨てずに対応しているような事例と言える。
独立した国家が、独立性を保持したままで、福祉政策の破綻など各々が抱える問題を超国家的存在により乗り越えようとしているEU統合という事例があるが、この統合経緯が、自律的存在でありながら自らを超える課題への対応を考えるにあたり、極めて参考になるのではと考える。

○EU統合の経緯と注目部分
第二次大戦後、二度とヨーロッパに悲惨な戦争を招かないようヨーロッパを政治的に統合しようという考え方が生まれ、先ずはドイツとフランスとの間で常に紛争の火種となっていた鉄と石炭を国際管理の下に置くことを目的として、フランス、西ドイツ、イタリアにベネルクス3国を加えた西欧6カ国による「欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)」が発足(1952)したことから始まり、続いて東西の軍事的均衡からNATO(1949)としてアメリカの指揮下に入らざるを得なかったことへの反発も追い風にした欧州統合への動きの強まりを受けての「欧州経済共同体(EEC)」並びに「欧州原子力共同体(EURATOM)」(1958)の発足、そしてこれら3つの融合条約により「欧州共同体(EC)」(1967)が発足し、その後グローバル化の進展による70年代以降の各国の低成長や財政問題などいわゆる「福祉国家の危機」をヨーロッパレベルでの市場統合とマクロ経済管理により乗り越えることを主眼に、「ヨーロッパ大陸の分裂の集結」を序文に謳い「欧州共同体(EC)」を「欧州連合(EU)」に発展させることを掲げたマーストリヒト条約が承認・発効(1992)されたという経緯をたどってきた。
ECが関税同盟と共通農業政策が中心であったのに対して、EUでは域内市場をより強固なものとするため、経済通貨同盟(EMU)により欧州中央銀行(ECB)を設置し、単一通貨(ユ ーロの導入が開始されている。
こうした通貨統合に関するメリット・デメリットなど、EUに関して我々は経済面の議論に注目しがちだが、そもそもヨーロッパ統合は国家間の紛争回避の延長上にあるということが重要であり、共通の外交・安全保障政策の導入など、政治・社会面での本筋の統合議論が引き続き進められてきていることも見逃してはならないと思う。
EUの最終的なあり方として、独が「連邦構想」を、仏が「国家連合」を各々譲る気配が無いなど、統合を引っ張ってきた独仏関係の悪化が懸念されており、歴史的実験と呼ばれる統合の取り組みもまだまだ紆余曲折がありそうだ。
いずれにせよ、EU統合の動きは、経済や社会活動のグローバル化の影響を受けた各国の存立基盤の危機を、EUという超国家的存在へ公権力を付与することによる域内国際管理を通じて乗り切ろうとする試みと思える。
しかし、ここで注目すべきは、加盟各国が自己の存立基盤を立て直すために統合を促進したのであって、決して自らの主権が無くなるような融合型の統合を進めたのでは無かったということだ。
法に依拠して上位組織を創設し、その支配下に集うのではなく、主権を持った国家同士が自発的に結ぶ契約に基礎を置いた協調的連邦制とでもいうべき統合のあり方を選択している。
これは、市町村が自律性を保持したままで自らを超える課題対応のために要請する「超市町村的存在」とも言える地方自治体としての県のあり方を見いだしていこうという、今回の我々の研究に大いに参考となると思う。

○EUの超国家的存在としての仕組み
今回の研究の視点はWhat(どんな政策課題が議論されたか)ではなくHow(どのようなやり方で統合が進められてきたか)であるので、EUがどのような具体の政策課題について立法などを担ってきているかはこの際省略し、どのようにして超国家的存在として構築されているのかに着目する。
マーストリヒト条約において、「ヨーロッパ大陸の分裂の集結」を掲げて一体化を目指しながらも、同時に「各国の国家主権が最大限尊重される」と明記されているとおり、加盟国が自己の存立基盤を立て直すために主権の移譲を最小限に抑えて「統合」するという方向性ゆえ、EUは単なる国際組織でも大規模な連邦国家でもない特異な性格をもつこととなっている。
その特異性はEUの合意形成・意思決定の仕組みに顕著であり、
①ヨーロッパ理事会(加盟各国首脳が年二度集まりEU全体の大きな方向付けを行う)
②EU理事会(問題分野毎に加盟各国の担当大臣が集まり法令や各種行動の決定を行う)といった「政府間協力機関」と、
③ヨーロッパ委員会(法令や各種行動を提案する発議権を持つ執行機関)
④ヨーロッパ議会(EU理事会との間で共同決定権を持ち理事会に対して拒否権も持つ)
⑤ヨーロッパ司法裁判所(司法審査権を持ち、加盟国や各EU機関が条約に反する行動をしていないかどうかを判断)
⑥経済社会評議会(各種経済利益団体の代表者から構成される諮問機関)
⑦地域評議会(域内の各地域自治体の代表者から構成される諮問機関)
⑧各種超国家的諮問委員会(ヨーロッパ委員会が提案を作成する段階で問題案件毎にヨーロッパレベルで形成された利益団体から招集される)
といった「超国家的組織」が混在している。
前者(①②)は加盟各国の利害がぶつかり合う場所で、域内市場形成などに係る案件について特定多数決制(人口比例多数決)が導入されているものの、EUそのもの方向性に関わる重要な決定については加盟国全会一致が求められるようになっており、各国国家主権の尊重が強力に担保されている。
これだけを聞けば、後者(③~⑧)のような、特定の国家利害に拘束されずにEU全域的視点での行動が求められる機関を幾重に設けても、統合は上手くはいかないのではと心配される。
しかし、欧州全体としてまとまらなくては世界の中で立ち往かないという共通認識は強く、多くの対立を経たものの、加盟国代表機関が最終決定権を握りながら大きく権限を弱めることなくEU設立にこぎつけた。
とはいっても、統合が、自国エゴを乗り越えた各国の理性と英知によって通常の国際連携機関と同じような交渉のみで進められたわけではなく、今回の研究で注目する、超国家的組織の存在と仕掛けが強かに機能してきたようである。
例えば、EU立法による法規が加盟国の法規に対して強い効力を持つようになっていて、各国民に権利や義務を直接発生させる効果(直接効と呼ばれる)をもたらし、これに抵触する国内法規に優先するという判例が確立している。
EU(EC)法の「対国内法優位原則」は1960年代にヨーロッパ裁判所に採用されており、同裁判所はEC,EUの設立条約が「憲法的条約」であって単なる条約ではないと解釈している。
EU法上の解釈問題はヨーロッパ裁判所が一手に解釈することとなるので、超国家的存在に大きな公権力が付与されていると言える。
また、EUの組織機構における意思決定過程においては、前述の「政府間協力機関」と「超国家的組織」の間に公式・非公式に複雑な交渉関係が存在しており、8つもの組織があらゆる形で相互に影響を及ぼしあっている。
さらに、EUでは、各国の地方自治体や利益団体によるEUレベルの交渉過程への直接関与が公式に制度化(地方自治体に関しては地域評議会が、利益団体に関しては経済社会評議会がそのための機関としてマーストリヒト条約に規定されている)されており、国内組織が国機関を通さず直接に超国家的組織と公式の交渉関係を持つことによって、加盟国政府がヨーロッパ委員会からの提案を受け入れざるを得ないような状況が作り出されている。

○統合の論理となる普遍的な概念に着目する
EU加盟各国と超国家的組織の役まわりを、市町村と超市町村的役まわりとしての県とに置き換え、前述のEUの仕組みを真似てそのまま導入すれば、市町村の自律性を保ちながら県域を包括する自治が実現するかといえば、もちろんそんな簡単なことではない。
何よりも、市町村が具体的な課題をもって一体的に連携しなければ立ちゆかないという危機感を共有していなければ、いかに形式的な制度や仕組みをEUに倣って作ろうとも、機能する見込みはない。
ただ、EU統合の事例において、単位行政システムを超える存在が要請される局面において求められる「超単位行政システム」ともいえるものに共通する普遍性のある概念を見いだすことはできないだろうか。
主権国家でない超国家組織が実効性を持てるということは、主権者からなんらかの強制力が付与されているということになるが、その根拠を考えた時、それは強制力の受容者(主権者)に正統性が認知されているということと考えられる。
社会学者M.ウエーバーは、「被支配者が支配者の命令をあたかも自己の行為の格率であるかのごとく捉え、以て支配者の強制力に対し安定的・恒常的に妥当性を見出している状態」を、「正統性が認知されている状態」と捉え、被支配者の内面的な支えという正統性の根拠がなくなるとき、秩序に変動(革命)が起こるという。その内面的な支えのあり方に応じて、かの有名な「カリスマ的」・「伝統的」・「合法的」という三つの支配の類型を提示している。
悲惨な第二次大戦の反省からカリスマ的なものは認められがたいこと、また、現代の社会・経済のグローバル化の波の中で伝統的なものを原理として正統性を確保することは難しくなっている。これはEUのみならず今日の世界・地域において共通する傾向にあろう。
近代国家において統治の中心的な指標となるのは「合法性」ということになる。
しかし、歴史的に枠組みが定着した、半ば所与のものとしての国域における内国統治ではなく、歴史上例を見ない形で創設される超国家組織に「公権力を持つための合法性」がもたらされるために、EUはどのように正統性を調達してきたのかを分析する必要がある。

○正統性の源泉についての考察
合法的に公権力を付与されるためには今日どのような要件が必要となるのか。
我々が国、県、市町村による公権力の行使を何故受認しているかといえば、民主的な手続きによる法に基づくからということになるが、為政者がどんな人物や組織であっても形式的手順さえ整えば正統性を認めるということにはならないと考えられる。
正統性の源泉に関する説はいろいろとあると思われるが、次に挙げるとおり、利己的・主情的な観点として「同胞意識」、社会的・理性的な観点として「共通観念」、現実的な観点として「物心保障」という3つが主なものとして考えられるのではないか。

●「同胞意識」
「同胞意識」は、家族係累、民族、郷土という個人のアイデンティティーに関わる側面に起因する感情的絶対価値であり原初的帰属意識である。たとえ理論的で技術的にも優れた手法を持って統治しようとしても、それが全くの新参者や傀儡者によるのであれば、公権力の行使についての正統性が認知されにくいことになろう。
例えば、新興住宅地など新たに寄せ集まった同胞意識が乏しい集団の中で、多数決など形式上民主的手続きを用いて選出されたリーダーであっても、その指示に全幅の信頼をもって服従できるとまでは確信できないというような経験は、誰しも思い当たるのではないか。
また、建前では本人の政策内容で評価判断されるべきと皆が思っていても、世襲性が実質決定要因となってしまう政治家の支持基盤の移譲などという例は、血縁という正統性の源泉を最大限に強調して支持者ら関係者の選択権を手中に取り込む戦術であろう。

●「共通観念」
「共通観念」は、被統治者皆が共感できる理念や価値観に符合しているということである。現代社会においては、統治にあたり自由、平等、平和、基本的人権の尊重、民主主義的な合意形成と意思決定などの理念をもっているかということになるが、例えば、町内会長が世界平和の理念を持っているからといって町内住民から町内会長としての正統性認知を獲得できるとは言い切れない。対象者の範囲や質等を考慮した理念の打ち出し方が必要となる。

●「物心保障」
「物心保障」は、安定した秩序がもたらされること、つまり、現実的に生活の安全、安定、安心が守られる機能や技術が統治者にあるかということである。戦国時代であれば戦勝により住民の生命を守り、敗者からの収奪により富や生活物資をもたらすために、武力を効果的に行使できる機能や技術がなによりも評価されるだろうし、現代の民主社会であれば、犯罪防止のための治安維持能力、雇用の確保、福祉サービスの供与といった利益保障が効果的に行われるかどうかという点が重要になろう。これは現実にそうした効果がもたらされることを持って正統性の認知を確固とできる源泉であり、実績の蓄積と維持を欠かすことができない。つまり、社会情勢の変化に対応できない場合は即座に失われてしまう正統性の源泉と言えよう。

○EUはどのようにして正統性を調達してきたか
EUが「合法的」支配を遂行している背後には、上に挙げた三つのいずれかの正統性を認知させるための仕掛けが働いていると考えられる。
現代社会において、合法的支配には合意形成・意思決定の民主性が大前提となる。
しかしEUには、主権国家と異なる超国家的組織ゆえに「民主主義の赤字」といわれる民主制に関わる大きな問題が当初から宿命づけられていた。
これは、EUレベルへの権限委譲によって加盟国議会が民主的に統制できる案件が少なくなる一方で、欧州全土から直接選挙で選出される議員で構成されるヨーロッパ議会の権限が抑えられているために、結局EUの権限が増大すればするほど民主的統制が利かなくなるという問題である。
原因は、前述のとおり、国家主権を最大限保持するためにヨーロッパ議会の権限を抑えつつ統合を進めてきたということ、すなわち、EUはあくまで加盟国間の条約によって形成されたのであって、決してヨーロッパ市民による欧州全体レベルの社会契約にその根拠を持つわけではないとしてきたことによるものである。
EUはこの「民主主義の赤字」という形式的な欠点について、
①ヨーロッパ大陸の分裂の終結による永久平和・共生的発展という欧州共通の理念を謳い、加盟国が連携しなければ解決困難であることを拘束力の無い勧告や提案という形で積極的に発信し続けるなどして、欧州統合という共通理念の育成・強化を行い、
②どうしても加盟国自身では対応できない若しくはEUレベルで対応した方が効果的であることが明らかに説明できる事案だけをEUが担うとする「補完原理(サブシディアリティー原理)」という概念をEUと加盟国間の交渉規範とすることにより、EUが公的権限を持って担うべき政策内容が、加盟国自らのあくまでも主体的な判断により抽出・具体化される仕掛けづくりをし、
③さらに、ヨーロッパ委員会が独自の裁量で供与できる資金を活用して、国境を越えた地域自治体間の共同プロジェクトや、国籍を超えた企業連携を支援するためのネットワークづくりを促進することにより、国家の枠に捕らわれない「欧州意識」を戦略的に育成した
ことなどによって補ってきた。
つまり、欧州統合という共通理念の宣伝強化により「共通観念」を育成し、補完原理という規範による交渉の蓄積によりEUが実効性を持って担える「物心保障」の内容を具体的かつ明確化し、自ら裁量を持つ地域政策を通じての国境を越えた意識醸成により「同胞意識」を育成してきたということであり、3つの正統性の源泉すべてにアプローチし、さらに各々を相互に関連させながら、全体としてEUの正統性を調達してきたと言えるのではないか。


7 超基礎的自治体となるための基盤として必要となる取り組み
○ 正統性の調達の観点で必要となる要件
市町村という単位行政組織を超えた存在としての県へ、市町村の主体性を確保しながら市町村の要請という形で公的権限が付与されるためには、県民レベルでの正統性認知のための裏付けが欠かせないと考えられる。
県という行政機構が正統性調達のための源泉をどの程度保有しているか、また、超基礎的自治体化を想定した時にどのような補強のための取り組みが必要か。

①「同胞意識」として
長い歴史の中で新潟県という郷土としての範囲を県民意識に定着させてきており、稲作を始めとする土地利用型農業中心の土着的血縁関係がまだまだ人間関係の基盤として根強いこともあり、県レベルでの統治を図るにあたって正統性の源泉となる県民としての同胞意識は、基盤としては相当程度有ると思われる。
しかし、経済・社会構造のグローバル化による「地球人」的な意識が進展する一方、その反動もあって、食品の安全確保や近隣レベルの相互扶助など、身の回りへの意識も高まっており、県レベルというのがいかにも中途半端な範囲として意識面での求心力を失いつつあるとも見られることから、県民同胞意識の盛り上げに係る梃子入れが必要と思われる。
人々のもつアイデンティティーの中で県民という意識を内発的に高めることにつながるようにするには、メディアを通じて郷土愛や郷愁感情に響くような情報供給を増化させるといった従来型で退屈な広報手法のみでなく、民衆意識を一丸のものとして高めやすい方法、例えばスポーツにおいて県ゆかりの選手やチームの活躍を効果的に活用して同郷意識高揚を図るなど、今日の生活の中で強く県民としての興味・関心を引くと思われるあらゆる視点で戦略的な展開が必要と思われる。

②「共通観念」として
平和、人権、民主性などの大きな理念はあらゆる社会的場面で共通する普遍的なものである故に、県が打ち出しても世界的、国家的レベルのものとしてぼやけてしまうことから、県レベルの意識的なまとまりを誘導するための理念としてはもっと具体性あるものが必要となる。
県レベルでの政策理念は「長期計画」にまとめられているが、県民共有の認識と符号しているかについては心許ない。
また、政策理念は同じことばでも受け手によりイメージが異なることが往々にしてある。
現代社会において、行政に対して求められる共通項は「効果・効率」「公平・公正」などの理念に収斂されるのではないか。
これらは、定量的な指標を伴いやすく受け手の意識を揃えやすい。
前述のクラスターの概念(もちろん分かりやすく)や、全国知事会による都道府県の役割に関する「6つのメルクマール」など各種研究成果(の権威)を引用しながら、県レベルで一体的に取り組まなくては効果・効率的対応が困難な案件を積極宣伝していくことで、県行政機構が効果効率という行政に求める理念に適った担い手であるという県民の認識を高めることが必要と思われる。
加えて、県の組織や仕事の進め方が公平・公正なもので、市町村に対して指導的立場に立つに相応しいと認められるようなものとする必要がある。
<6つのメルクマール>
・全国知事会の「第六次自治制度研究会」(H10.6発足)による、地方分権一括法施行等を踏まえた地方分権時代に相応しい都道府県のあり方についての研究報告書(「地方分権下の都道府県の役割-自治制度研究会報告書-」13.7月報告)により提示されたもの。
・機関委任事務制度の廃止により完全自治体化した都道府県は、今後、地方が処理すべき事務全体の中で、どのような役割を担う、どのような存在となるべきであるかということに焦点を当てて研究が進められた。
・第3章「これからの都道府県の果たすべき役割」の中で、これからの都道府県は、文字通り完全自治体化した存在として、その事務を自主的・自立的に処理しつつ、地域住民の福祉向上を図っていく必要があると指摘し、この認識の上にたって地方が処理すべき事務全体について市町村との適切な役割分担を図るために、都道府県の行政活動の実態を踏まえた上で、都道府県が処理すべき事務であるか否かを判断するに当っての基準となる以下の6つのメルマールを設定している。
〈6つのメルクマール〉
<1> 産業(製品・サービスの生産・供給)に係るものであるか
<2> 法人等に係るものであるか
<3> 行政対象が広域的に一体のものであるか
<4> 行政需要・行政対象が広域的に散在しているものであるか
<5> 相当高度の専門性を必要とするものであるか
<6> 市町村を包括する団体という性格に係るものであるか

③「物心保障」として
よく行政改革の議論の中で、県、市町村、民間の役割分担のあり方というテーマが幾度となく掲げられるものの結局具体的な基準を設けられずにうやむやにされてきているのは、個々具体の案件についてケースバイケースで検討・整理していかなければならない問題であり、一般論として包括的に定義できるものではないからだ。従って、県が担うべき仕事を一般的な基準に依拠して具体化することはできない。
県が提供する行政サービスの内容(施策)については、長期計画及びその実施計画の策定議論を通じて検討・整理されているが、県民の立場から見て、本当に県で担うことが実効性の面で妥当なのかについて、県民の納得を得られる程度に具体的に明確化されているだろうか。
今日の激動の社会においては、長期計画はますます大局的な理念や方向性を示す抽象的なものにならざるを得ず、たとえ、長計策定の際にアンケートや市町村からの意見聴取など「義務手続き」を形式的に経たといっても、それらをアリバイにして、策定された長計を、県が担う具体的仕事を確定する根拠とできるとは言い切れないのではないか。
また、超市町村的存在としての県のあり方を考えると、あくまでも市町村議会レベルでの意思決定が重視される形で県の権限が具体化されるような仕組みが必要であり、県全域から選出の県議会(EUでのヨーロッパ議会と同様)による意思決定ということのみを持ってしては、県への権限付与の正統化が十分とは言い切れない。
個々の政策課題について、(水平的連携も含めた)市町村レベルで本当に出来ることなのか否か、それが効果・効率の観点でどうか、政策課題毎に徹底した議論と場合によっては実験・試行(スウェーデンなどではフリーコミューンという実験例有り)も通じて、県段階で合意形成・意思決定することが当該サービスの提供を最適化とすることを県民から具体的に理解してもらえるようなシステムが必要となると考えられる。
その際、議論をより具体的で分かりやすいものとする上で、実態として市町村を包含して行政サービスを安定提供してきたという過去の県の実績を有効に活用していけるという面では、県は“アドバンテージ”を持つと言える。

○フリーコミューン
・スウェーデンなどの北欧諸国では、1980年半ばから国の権限を委譲する自治体フリーコミューンを創設して地方分権の試みをした。
・フリーコミューンとは自由な自治体という意味で、外交とか国防といった分野を除いて、すべて規制から自由になるということ。
・具体的には、国の法律で教育委員会のもとに置かれていた学校の運営が先生と親に任されたり、都市計画の決定に国の許認可が不要になったりしている。
・これは福祉国家化により国が細かく実施を定めた福祉教育、住宅対策といった分野で、地域の実情に合った行政がもうできなくなってきたということが要因であった模様。


8 具体的な仕組みについての提案
○ 仕組みの検討にあたって
「これからの県のあり方」について、将来担うべき仕事の内容としてのあり方を現時点で固めることは困難かつナンセンスと思えるので、担うこととされた仕事を上手くこなしていけるような「仕組みとしてのあり方」という視点で考えようと研究をスタートした。
いわば時々の合意形成と意思決定により県が担うこととされる「具体の政策・施策」というアプリケーションを、最適に稼働させる仕組みとしてのオペレーションズシステムは何かという視点であり、WhatではなくHowとしての県のあり方を考えようとしてきた。
そして、県の存在に大きな影響を与える市町村合併の動向を見据え、地方自治体としての県の積極的な存在意義をもたらすのは、超市町村的存在としての要請に応えることであると考え、そうした存在たりうるためには、市町村を超える公的権力が実効性を持って県に付与される必要があること、そのために正統性が認知されることが必要であるとして、正統性調達の源泉と思われる3つの視点で必要となる取り組みの方向性を考察してきた。
そうした方向性に対応する仕組みを突き詰めて考えると、徹底した県民レベルのニーズ把握とそれが的確に反映される執行体制が必要であるということに終着する。つまり、必要な取り組みに共通して重要となる鍵は「県民とのコミュニケーションのあり方」と「仕事の進め方」であると思われる。
冒頭記載のとおり、県行政の当事者たる一職員の立場で県民のためにどう往くべきかという問題意識が研究の契機になっているので、仕組みを考えるにあたり条件となるのは、「職員として当事者意識を持って具体的に機能できる」もので、「県民本意の視点で効果的行政サービスにつながることが確信できる」ものであるということだ。
組織機構改革などと大きく構えることで大がかりかつ時間がかかり、職員レベルの取り組みによっては一歩も先に進まないというようなものではなく、職員一人ひとりが任意で実践を開始でき、引いては県全体の仕組みづくりにつながるようなものを考えるべきと思う。

提案1 職員を「端末」とするコミュニケーションシステムの構築
県行政においてのコミュニケーションの相手方は、市町村、企業、団体、個人など非常に多様であり、適切な方法も事案により一律ではない。
特に県行政機構という巨大組織と県民個人とのコミュニケーションを考える時、インターフェイスの調整は非常に難しいものであると感ずる。
しかし、地方分権が進む中で、的確な政策立案と展開のために、合意形成、意思決定、事業執行などあらゆる場面において、従来型の系統組織を束ねて要望を集約する手法ではなく、県民レベルのニーズを的確に把握・反映しながら行政を進めていく必要性が高まっている。
また、説明責任を果たすことへの要請という見方でも、県民の立場で納得のいく情報提供(説明)が必要となってきており、県民レベルでどの程度の情報が求められているか、また、提供された情報への満足度はどうかなどを的確に捕捉するために、コミュニケーションの双方向性はますます重視されるようになっている。
現在の県行政において、広く県民を対象とするコミュニケーションシステムはどうなっているか。
市町村に比べて県民生活に身近とはいえない県行政においては、面を向かい合わせてのコミュニケーションは難しく、アンケートやパブリックコメントなど、媒介を通じた間接的手法の活用が中心となっている。
しかしアンケートにおいては「設問の誘導性」や回答に「あるべき論」傾向がみられるなどの問題が、また、パブリックコメントにおいては意見提出者が「常連」や「特定の関係者」に偏重する問題があるなど、“常態において滲み出る民意”の把握には難しさがある。
一方で、県は、教員を含めて40,000人近く、その係累を含めれば、単に「量」のみでなく構成する属性(年齢層、地域分布等)といったいわば「質」の面でも、県民に占める割合が“有効数字”といえる「県職員関係者」を抱えている。
職員そのものが県民の集合体であることはもちろん、公私における人間関係をも含め、やがてLAN端末の個人配備に伴い全県を網羅する個人(職員)ネットワークが生まれることも考え併せれば、職員を県民レベルでのコミュニケーションの資源としてもっと活用できるのではないかと考えられる。
職員を、本人やその家族等が持つ「一県民としての意見」を収集したり、逆に家族や近隣へ県政情報を普及浸透させるための、直接的コミュニケーションの手段として、もっと戦略的に機能させてはどうか。
さらに、社会性・波及性あるコミュニケーションとするために、職員を、自らが属する自治会など、地域において行政に関する民意が交わされる場面へ「県の楔」となる意識で参画させ、自然なつぶやきなどに滲み出る民意を通じて県民ニーズや世論の傾向などを受信させたり、より能動的に、現場で出された個々の散漫な意見を集約に向かわせて社会性ある意見として捕捉させるほか、意見交換などの場面を通じて県の施策への理解を誘導するなど、広聴面のみならず戦略的政策広報マンとして双方向的コミュニケーション機能を果たす、いわば職員が県行政の端末として活用されるシステムを構築してはどうかと考える。
つまり、職員を、本人や家族などごく狭い範囲を発信元とするいわばナロウバンド・コミュニケーション端末とするだけではなく、職員や家族等を含めた地域コミュニティなど、より幅広く社会性のある発信元につながるいわばブロードバンド・コミュニケーション端末として機能させるシステムを構築してはどうかと考える。
そのシステムの中で、正統性調達のための3つの源泉に関わるコミュニケーションを展開していけば、県を超基礎的自治体として公的権力を付与する相手方とできるという認知を、もっとも基本となる県民レベルからきっちり浸透させていくことができよう。
もっとも、職員を端末とし、庁内LANの活用によりネットさせるコミュニケーションシステムの設計にあたっては、職員が一県民として本音を蓄積できるようにするための方法(匿名性の保証等)、“身内”たる職員情報経由ゆえのデータの偏重性(傾向)等を分析して客観的有効性を見極める方法(統計学的手法はあるか、第三者による評価が必要か等)、意識誘導や世論形成のための技法の確立など、十分に検討して対処する必要がある。
なお、職員が、日常業務の合間に机上(LAN端末)から、匿名性を保証されて、個人としての情報を蓄積していくことにより、ついつい身構えてしまう「コミュニケーションBOX」(注:本書作成当時にあった知事への職員からの意見投書箱)や事務改善前提の「職員提案」では引き出せない情報が捕捉できることになり、不適正情報の一早い把握など、今後組織管理上の大きな問題になると思われるモラルハザードの予測や回避につながるほか、職員個々の県政への参画意識の高揚など、内部管理面での副次的効果も大きく見込まれる。
取り組みが散在していては統計的にも有効性に疑問が出てしまうこともあり、一気に全庁的システムとして構築されることが望ましいのであるが、職場を離れた地域における広報広聴的活動に係る「公務性」に関して正面から議論を始めたり、ハード面での全庁的ネットシステム整備を入り口条件としてしまうと、導入に必要な調整に時間を徒費してしまうことは明らかなので、個々の職員レベルで任意でも取り組みを開始できる、つまり明日からの一人ひとりの具体的な行動につながるような仕掛けで展開していく方法を取るべきだろう。
例えば、同じ頂きを目指しながらも別ルートで登山するように、任意による一人ひとりの取り組みとして始められたとしても、全体としての望ましさを認識して同じ方向性のもとでそれらが蓄積されていくような戦略的誘導が施されていれば、一気に世界を網羅したインターネットと同様、庁内LANの個人配備という個々が結ばれるきっかけひとつで、予定調和的に大きなコミュニケーションシステムが構築されると思われる。
総じて成熟する民主社会においては、合意形成作業による時間の利益の喪失というのが最大の問題であると常日頃から感じている。取っ掛かりは負荷や逆風が小さく「たわいない取り組み」と見えても、結果して大きな成果を招来するような、戦略的な物事の進め方がますます重要となろう。
もっとも、「棚田サポーター」など、公的性格を持つ事案に職員自ら非公式な形で取り組もうという、先に触れたフランスにおける行政業務へのNPO関与などを彷彿とさせる動きが芽を出してきており、一人の職員は官民の立場を重層的に持ち合わせた存在であり、各々の性質は不可分という当たり前のことが当たり前として認められるようになっていけば、今回提案のコミュニケーションシステムに関して公務性がどうこうという議論などナンセンスとされるだろうし、何よりも機能性や時間の利益が重視される時代がそれを認める追い風としてやってくるだろうと期待している。

○ 県執行部と県民との直接的コミュニケーションシステムと議会制民主主義との関係
・さて、パブリックコメント制度の導入など、住民の意向をより直接的に把握しようという昨今の行政の動きに対しては、議会制民主主義の否定ではないかという議論が良く聞かれる。
・そもそも行政への住民参加の法制としては、自治法に基づく条例制定・改廃請求、事務監査請求、議会の解散請求、議長・首長・主要役員解職請求リコールなど、いわば自治体の構成者としての「政治的参加」制度がある一方で、「地域自治への参加」としては地域開発、生活関連施設整備法関連の審議会、公聴会、利害関係人意見聴取などがあるが、「審議会」方式においては「あて職」「兼任委員」など形骸化の問題が、また、「公聴会」方式も形式的で自由に議論を交わす場ではないこと、さらに「利害関係人意見聴取」も住民参加というより“地権者参加”でしかなかった。
・しかし、地方分権の流れの中、多様な住民ニーズにきめ細かく対応していくために日常的に住民意見を行政に反映させるチャンネルが必要となってきている。
・今回提案したコミュニケーションシステムは、[行政による政策立案→議会議決→行政による執行→議会による執行状況監視]という行政の一連の流れの中で、「政策立案」と「執行段階」に係る場面に住民が直接参加することで、選出された議員による議会の活動を含めて政策の立案・形成・実施の全ての段階にわたって住民の意見を行政に反映することを可能としようということにつながるのであり、いわば議会機能の補完とも言えると思われる。

提案2 仕事の進め方の品質を構造的に確保するためのシステムの構築
組織として対応可能な仕事量や範囲などといった、県の「受け皿としての許容量」ではなく、県が、超市町村的存在として担うことを要請される業務を、適正かつ効果効率的に遂行するための仕事の進め方ができる「仕組み」を持つことを、県民から認められるようにしておく必要がある。
もちろん、仕事を適正に遂行するための仕組みの確保は、現在も必要とされるものであるが、法令の規定に基づく所定の業務を遂行するという枠組みにおいては、財政力や職員数など組織としての許容量が重視されがちとなる。
しかし、将来、超市町村的存在として県にオーダーされるのは、「お品書き」のように所与のメニューとできるものではなく、時の社会経済情勢と、関与する市町村の実情に応じてどのようなものとなるか全く見込めないものなので、どのような要請にも的確に対応できるような仕事の進め方ができるようにしておく必要がある。
そしてそれが県民から認められることが、行政の仕事に適正さを求めるという「共通観念」に呼応し、さらに県民福祉の増進に実効性をもたらすという「物心保障」を確信させることになり、県による公権力行使を支える正統性の調達につながることとなる。
なお、どのような要請となるか分からないということから、県がその時点で保有する経営資源によっては対応できないというケースも有に想定してかかる必要があるので、民間との連携・協働など外部資源の有効活用も展開できるような仕事の進め方を考えることが当然に必要となるだろう。
こうした必要性に応えるために、ISO9000sという国際規格が参考とできる。
ISOについては、もともと製品のハード面での仕様に関する規格であったが、経済のグローバル化の中で、製品やサービスを「生み出す仕組み」を標準化して円滑に国際的な取引を推進できるようにすることを目的として、9000シリーズという「仕事の進め方についての規格」が設けられたもので、WTO協定などに触れる規模内容の産業においては認証取得が生き残りの必須要件とさえなっている。
その概要は、一般的に想定される業務プロセスの各段階ごとに設定された「この段階ではこのような状態であること必要とされる」という「要求項目」各々について、どのような仕組みで対応するか文書(手順書)で明確にし、実際に手順書どおりの執行が成され、必要とされる状態が実現されているかを随時の内部監査と認証機関による定期審査により確認し是正し続けるというものである。
あらゆる業態を対象とする規格として生み出されたものの、当初は要求項目の文言等に製造業を意識した表現が色濃く、サービス業や行政業務などソフト分野には馴染みにくいという声も多かった。しかし、こうした業界における採用の広がりも受けて、近年(2000)の内容改訂で表現が見直され、さらに、厳しい競争時代を背景に顧客満足のための経営戦略性に関わる事項が強化されてきたこともあって、最近では認証取得が新聞記事でも小さく扱われるほどあらゆる業界に広く一般的なものとして普及してきている。
行政機関における認証取得のパイオニアの一つとして佐久市役所の事例がある。
佐久市役所では、全ての事務事業について業務を一連のフローとして模式化し、各々の段階で仕事の質に影響を与える事項を浮き彫りにして、失敗を回避するために、また、失敗した場合にその原因特定を迅速に行って復旧できるようにするために、必要とされる仕組みを文書(業務手順書)で明確化して関係者の認識を共有化し、四半期毎の内部監査と認証取得機関による定期審査を通じて実効確保を図っている。
臨機の調整に特化した業務など、フロー化が困難な業務については、「責任と権限」「記録・管理のルール」のみを文書で明確化することで、認証審査もクリアしている。
一般的にはISO9000s規格に列挙されている要求項目の順序に即して対応内容を整理していく例が多いと聞くが、佐久市役所のように、業務のフロー図作成から取りかかり、各段階で要求項目に触れる部分について対応内容を書き起こして整理していく方法は、できあがりのフロー図をそのまま実務的に分かりやすいマニュアルとできるものであり、極めて優れた方法であると思う。
県として、ISO9000sの認証取得如何はともかく、佐久市方式をベンチマーキングして、仕事の進め方についての品質確保のための取り組みを進め、文書(手順書)による明確化を通じて県民へアピールしてはどうかと考える。
なお、業務フロー図作成というと数年前に本庁一斉に行った取り組みを思い浮かべる職員も多いだろう。
大変な労力をかけて行ったわりには、以降あまり活用されているとは思えず、徒労の印象が強いことから、改めてフロー図作成などと打ち出せばアレルギー反応も大きいかもしれない。
当時の成果が結局活用されなかった理由は、適宜アップデート、メンテナンスされなかったこと、また活用についてきちんとしたフォローが無かったということもあるが、そもそも何のために労力をかけるのかという理念的価値について、深く職員の共感を得られてはいなかったというのが大きかったのではないか。
「自らの業務をより良くするために」などという打ち出し方では、現在最善を尽くしていることを疑わないまじめな職員ほど共感を持ちにくい。
つまり、共感できる目的があるかという「共通観念」の視点と、その取り組みにより実利があることの確信をもたらすかという「物心保障」の視点の両面で、職員へ取り組みを指示するサイドによる正統性の調達が不足していたため、結果として熱心な取り組みを招来できなかったといえよう。
「県民の支持を得るために必要であること」「世界的に実績を持つISO9000s的な手法であること」など誰にも懐疑の余地が無い「大義」(共通観念)をきちんと掲げ、間違っても一部事務局に「やらされている」という認識を職員に持たれないようにリーダー(首長)主導であることが確信される方法、つまり職員の生殺与奪権を持つ任命権者の信賞必罰につながるという「物心保障」に訴えるようなやり方で進める必要がある。
民主化が進む現代を反映して、特に大きな組織においては、構成員にリーダーシップが確信されることはますます難しくなってきている。首長名が記された通知文書形式だけでは、法令に強制力を依拠しない任意の取り組みであればなおさら、事務方の主導性が鼻について、職員から完全に白けられてしまうのがオチである。
首長が原稿無しで直接職員へ自分のことばで語りかけたり、現場での取り組み状況を抜き打ち的に点検するようでなくては職員の真の動機付けにはならない。
超市町村的存在ということでなくても、地方分権が推進する中で、ますます独自性の強い経営判断が地方自治体に求められてくるので、リーダーシップの実効性を仕組みとして確保するという点でも、ISO9000s的な取り組みは必要となると思う。
以上述べてきたように、「正統性の調達」などというと、浮世離れした哲学的な思索の賜のように思われるかもしれないが、特に県庁組織のように縦割り構造、外部からの割愛管理職の存在、多くの職員を抱える巨大組織においては、日常の実務を遂行する上でも必要とされる、非常に現実的な概念なのだ。
業務フローの作成と手順書の整備は、個々の職員レベルで任意に作成できるものなので、これも「提案1」と同様、明日からの「私やあなた」の具体的な取り組みとすることができるが、個々の取り組み内容に格差が大きくならないよう作成要領(ガイドライン)を示して奨励し、事例に基づく効果検証を経て、全庁的な取り組みへと展開することが望ましい。

○ISO9000sなどプロセスに着目した考え方に関する偏見(?)について
・IS9000sなどにおいては業務フローの分析に基づく徹底したマニュアル化が求められることから、「杓子定規」「機転が効かない」といった連想で、「役所窓口を一律に愛想笑いをさせるファストフード店にするつもりか」などという向きもある。
・これには、前述の佐久市役所の例のとおり、企画立案や関係者間調整業務などマニュアル化が困難な業務については、責任と権限の明確化さえしてあれば後はフリーハンドとできますよと応えることもできる。
・しかし個人的には、このような業務であっても、ある意味でのマニュアル化は可能であり、また、必要ではないかと考えている。
・それは、「分厚いパソコンの手引書」のようなものではなく、例えば企画や調整業務における「現状分析→課題抽出→指標選定→代替案作成→最適案選定」など、業務の一連の流れの中で作業内容に応じて共通して使用すべき「ツール」(方法論含む)や「フレーム」(整理用書式等)を明確化しておくということが考えられる。
・例えば現状分析のためにマッキンゼーのSWOTフレームを使用して検討過程を残すとか、代替案の中から最適案を選ぶための課題特性別の問題解決手法を全庁共通のツールとするということを関係者共通認識として明確化しておくことである。
・検討過程と判断が導かれた根拠を分かりやすく残す方法を明確にすることで企画・調整など非定型的業務のマニュアル化とできると思う。

○ついでに雑感。(流行りの“評価システム”について。)
・さて余談になるが、検討過程と判断が導かれた根拠を分かりやすく残す必要性といえば、ここ数年話題となってきた事務事業評価に関する取組みを幾つか見渡すと、一つの事業内容が先ずあって、指標から寄与度を測り、その事業を今後どのように展開していくべきかというものが書き記される「フレーム」が見受けられるのであるが、これには疑問が感じられる。
・フレームとして必要なのは、検討過程で挙げられてきた、限られた条件下で考えられ得る代替案とそれぞれの特徴(各指標への影響度の違いなど)、そしてその中から最適案を選び出した評価の過程が明確化されるようなものではないかと思うのだ。
・事業実施の前に、本当に他の代替案でなくてその事業で良いのかという「事前評価」、事業実施の途上で、当初見込んでいたとおりの指標上の成果がでているか、引き続き他の案よりも優れた内容であると言えるかについての見直しである「途中評価」、そして事業実施後に、指標により得られた成果はどうであり、トータルで見て成功であったか否か、課題が残されたのであれば実施で得られたデータのもとで他の代替案も踏まえてどのように対応を考えて行くべきかを総括する「事後評価」をしていくというサイクルには、施策や事業を選び抜く過程を明らかにするフレームが必要であり、それが全庁的に共通のものとされれば、あれこれと検討違いな作業を招かずに効率的に業務が進むだろう。また、時間を含めた制約条件の下、考えられ得るあらゆる角度から検討された代替案の中でこの案が選ばれてきたという過程が明示されることで、予算査定なども効率的に進むのである。
・本来、事務事業評価システムとして必要なのは、現状分析から代替案の策定そして最適案の選定までの各段階で全庁が共通して使用すべき「ツール」と それら一連の過程を分かりやすく記録として残せる各種「フレーム」の開発・共有化なのであり、指標選定と一つの事業をどのように展開していくかを直線的に整理するレポートではないと思う。
・事業が導かれた検討プロセスと代替案が併記されたものでなければ事業内容を効果的に評価することはできないし、評価結果に伴うべき「判断の責任」も明確にはしていけないと思うのだ。
・こうした考え方は人事評価のシステムづくりなどにも当てはまることであろう。

おまけ… 提案既成概念を破る柔軟な組織体制
一職員レベルでの取り組みから始められるような内容を念頭に仕組みづくりを考えてきたが、組織の枠組みのあり方について考えが及んでしまうので、当初目的からは少々逸脱するとは思いつつも、「おまけ」として提案する。
前述のとおり、超基礎的自治体として要請される業務内容はどのようなものとなるか見込めないことから、外部資源の有効活用も含めた仕事の進め方の検討が必要となるが、その実効性を確保するためには、その時々で協働や連携について協議調整するという頼りないものではなくて、相手方組織の意思決定に関与できるほどに懐にまで潜り込んだようなパイプが予め設けられている必要があると思う。
また、提案1のコミュニケーションシステムを深化させていくと、職員が、地域コミュニティの単なる構成員として意見交換に臨んだりするような弱い関わりではなく、地域コミュニティにおける合意形成と意思決定に主導的に携われるマネジャーとしての立場を持って県と直結することが求められるようになってくると思われる。
つまり、県職員でありながら県行政のパートナーである外部組織に所属するという重層性、つまり組織境界を超えた配置の流動化が求められるのではないか。
現在も市町村派遣などの制度はあるが、あくまでも有期・限定の交流であり、どうしても「お客様的扱い」されていないとは言い切れない。
しかし、地方分権の推進と合併を通じた市町村の充実により県から市町村への権限移譲が進めば、財源と共にマンパワーの移譲も求められるので、イギリスの行革なみに県から市町村への異動も考えられることとなる。
これを絶好の機会と捉え、退職と採用の手続きにより市町村に「帰化」させてしまうのではなく、県職員という身分を保留し、県組織とネットする機能を保持させたまま「移譲」することで、県組織が、行政庁舎の物理的な枠を越えて外部組織に所属する職員も含めた、ネットワークとして存在するシステムを構築してはどうかと考える。
当面は既存業務に係る権限移譲で県の業務は減る一方だが、やがて超市町村的存在として県の機能が求められることになり、その際要請される業務量によっては県組織へ再配置する必要性も想定されることなどについて市町村へ説明し、協議・調整していく中で、給与負担や服務など細部を詰めながら、既成概念を越えた特殊な職員の存在の仕方について合意形成を図っていくことができれば・ ・・と思う。
また、企業やNPOなど民間組織への県職員の埋め込み配属については、行政改革の定番である民営化や外部委託推進といういわゆるアウトソーシングの議論を通じて進めて行けば良いのではないか。
最近のアウトソーシングに関する議論を見聞きすると、分離可能で単体で考えていける仕事についてはある程度対応してきているので、庶務・総務的な一連の業務、いわば業務システムの中で政策展開の周辺・後方支援的とも言える部分を包括的に外部へ出して行政のスリム化・効率化を任せようということが注目されてきているようだ。
しかし、周辺・後方支援的な業務こそ、実は政策本体に係る業務を円滑に回すという面で、実質的に管理運営のイニシアティブを握っているアキレス腱であり、システム論や組織工学的な視点での考察が十分なされているのかどうかについて懸念が感じられる。
外部化の相手先に対していろいろと瑕疵や危険負担の担保を講じても、いざトラブルが生じたときに県が迅速に実効性を持ってこれを制御できるようでなくては、現実に仕事が回らなくなる。
よって、一連の仕事を包括的に外部化して、その分に掛かっていた人員をそのまま削減できるという単純なものではなく、外部化の相手方の適正実効を確保するために、その内部に県職員を配置して、仕事(作業)は任せたが危機管理のための主導力は県に留保することが必要。
よりソフトな言い方としては、外部化の相手先へノウハウの移転をスムーズに行うために県職員を当面配置させていただくということもできよう。
なお、アウトソーシングの受け皿としての対象には上らないものの、県が超市町村的存在として要請される業務に対応するために、また、的確な行政ニーズ把握や円滑な合意形成のためのコミュニケーションの相手方として、職員を埋め込み配置することが欠かせない民間組織もあり得るので、それらはどんなもので、どのような配置方法が考えられるかについて、超市町村的存在として要請される内容を予測して対応を検討していく必要があろう。


9 終わりに( 雑感)
○ 本質的には個(単位) と全体という普遍的な問題に触れた研究だったと思える
かねてから中二階と揶揄されてきたように、県の当事者性の希薄さは、地方分権推進による市町村充実の流れの中でますます強く感じられてきている。
また、アンケートや有識者懇談会方式の多用など民主性を高めるための意思形成過程の外部化や客観化が進んでいることで、意思決定に関する職員の存在感も空洞化しているように思える。
一職員という「個」として県行政「全体」にどのように機能しているか直接的に確信しにくく、心許なく所在ない感じが強まっている。
生活者という「個」がもつ多様性や重層性をそのままに包含して、基礎的行政機関が限られた経営資源と制約条件の中で地域をいかに「全体」として統治し成り立たせていくか、さらに、その行政機関が「個」として自律性を保ちながら自らを超える「全体」としての課題にどのように対応していくかということを考察してきたが、こうした「個」と「全体」の問題は、民主的な現代社会においては、あらゆるレベルの団体が抱える永遠のテーマと思える。
さて、今回は市町村を超える存在としての県のあり方を考えてきたが、物事を機能全体で考えたときに、一つの県域を超える自治の問題も当然あり得るので、地方自治において「超都道府県的存在」が求められることも当然考えられる。
しかし、「地方自治」が一国の内において何らかの分節(区域)を設けて行われる限り、こうしたいわば“境際問題”ともいえる問題は無くならないので、敢えて超都道府県的存在には及ばず、「単位組織を超える存在が求められる場合」という普遍性ある視点で考察を展開してきた。
冒頭にお断りしたとおり、荒削りで飛躍も多く、県の仕組みとしてのあり方を体系的にまとめ上げることはできなかったが、「個」と「全体」の関わり方というか、「単位」と「センター」との間の力学というか、あらゆる社会的な場面に普遍的に共通する考え方に触れることができたと思うのだ。

○これからの時代、「物事の進み方」や「仕組みのつくられ方」についての予感
大むかしの中国「殷」の時代に道路作業員であったのを王(高宗)に見いだされ、賢人宰相といわれるまでになった人物「傅説」[ふえつ]は、死語その精神を星座(辰星)[しんせい]に託したと言われている。
日常の作業に負われる毎日にあっても大局を想う志を失わず、また、自主的研究であることから活動が終業後の夜間になることで「星を見上げながら」との洒落もあって「傅説辰星」[ふえつしんせい]というペンネームとした。(「斧鉞[ふえつ]を加える=他人の書いた文章に手を入れる」・・・各方面から出されている研究報告書等に意見を言ってやろうという、身の程をわきまえない無責任な意気込みにも引っ掛けていたのです・・・。)
職場を離れて研修など受けるのではなく、自主的な研究という形を取ることにより日常実務に身を置くことを重視しながらも、県行政推進に対する高い理想を持っている職員がいて「真に活かされる日を待っているぞ」とアピールしようかという、ちょっとした思い上がり的な意識も研究当初にはあったものだ。
しかし、今回の研究を通じて、各種研究報告や参考資料を探し読むにつれ、地方行政の行く末を熱心に考える人たちが随所にいることを感じた。
それぞれがいろいろなアプローチで考察しているので、これら散在する知能や知識が有機的にネットされ、より高次の考察に向わせられることができれば良いなと感じた。
こうした考えに関しては、昨今「ナレッジマネジメント」と騒がれているが、「ニューパブリックマネジメント(NPM)」などと同様、体系的に物事を考えようとするあまりなのか、大げさな理念や概念をつつき回して議論のための議論に時間を徒費するばかりで、具体的実践が展開されているのか良く見えてこないというのが“現場”の実感。(推進サイドは「あれもこれも手を尽くしている」と思っているのに何故か?は、前述のレスリスバーガーの理論を思い返して欲しい。)
始まりは体系的なものでなく、任意で自発的なものであっても、個々のレベルでの取り組が着々と望ましい方向へ展開させる演出が施されていれば、情報技術の進展によりネットされる機会が与えられることで、ある日突然に大きなシステムが構築されるかもしれない。
インターネットを通じて個々につながりのない人たちがバラバラに関与しながらも「リナックス(LINUX)」が構築されていったように、膨大な時間を掛けて準備したスキームに何とか単位メカニズムをはめ込んでシステムを構築するというのではなく、単位毎の任意の取り組み(機能)を誘導する魅力的な媒介を用意し、戦略的な演出を通じて、狙いとするシステムを予定調和的に招来させる・ ・・物事の進め方や仕組みづくりに関してはそういう時代なのではないかと思うのだ。
-完-

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