最近、もう完全に自分の為に演奏する様になって来た。以前は、他人(主にお客さん)にどう思われてるのか?というのが気になってたけど、そこそこ長いキャリアの中で気が付いたのは、自分の出来とお客さんの感想が必ずしも一致する事は無いという事。つまり、世間の評価は他人に任せて、己の道を突き進むしか無いのだ。評価を気にして自分のやり方を変えるなんて、それこそ本末転倒だ。
僕が演奏スタイルを変えたのは、自分に飽きたからであって、世間の評価とはまるで関係がない。スタンダードを演奏しても何かしっくり来ず、何処かジャズっぽくない…ってのがここ数年気になって来て、でも、ロリンズやデクスターみたいに吹こうとしても、それは自分らしくないような違和感がずっと有った(この違和感はテナーやり始めてから常に有ったのだけど)。やはり、コルトレーン以上にブレッカーの影響を強く受け過ぎていたからかも知れない。そこで、クールジャズへの傾倒となる訳だ。初めてリアル・ジャズを演奏してしっくりと来たのが彼等の演奏を真似る事だった。
昨夜、スタン・ゲッツの奏法を徹底研究しょうと、動画を何時間も観ていたのだが、その中に彼のインタビュー・シーンが有り、こう言っている。
「私は自分の為に演奏している。人々にその演奏を愛されれば良いなとは思うけど、それでも自分がハッピーになる為に演奏している。皆、まずは自分がハッピーになるべきだ。それを人々が愛するなら、それはボーナスだ。」
10月のツアーを終えて帰って来た僕の気持ちは、まさにこのゲッツの言葉に集約されていて、あぁ、この為に俺は去年から1年半ももがいて来たんだなぁ…と感慨深くなった。
「Conversation 2 」のレコーディングが今年の1月だったので大方一年経とうとしているが、あの頃の演奏とも、もう違って来ている。ゲッツのソロをトランスクライブして、何度も吹いては考えて来た。ただフレーズを切り取って他の曲で当てはめる…ではなく、曲の局面で彼が何を考えていたかを想像する。
なんか、細かく各コードを捉えるんじゃなく、トーナリティを大切にして割と大雑把に捉えたり、次のコードへのアプローチだけを考える事で、フレーズが柔軟になったりメロディアスで滑らかになり、寧ろ「フレーズ」という定型のものが無くなるよなぁ…なんて気が付いて、コピーではなく自分のやり方でそれをやってみると、ちょっとゲッツに近付いた気がする。それが、とても楽しいのだ。特にSub Dominant MinorからTonicへのアプローチがこれからもっと自由になれる気配を感じて嬉しい。これから、ウォーン・マーシュやリー・コニッツなどの研究も同様にしたいと思っている。
まぁ、こんな事、お客さんにとってはどうでも良い事で、ぼーっと聴いてて気持ち良ければ、それで良いのだと思う。今、僕も自分自身の為に演奏している。お客さんがそれを良いと感じてくれたなら、それはボーナスなんだ。
4年ほど前まで、努力が報われず評価が低いなんて嘆く事が有ったけど、どんどん評価なんてどうでも良くなって来て、他人への興味も薄れて来た。同業者がSNSで忙しそうにしてるのも、かつての様に焦燥感に繋がる事は無くなって来たし、ほぼ自分のタイムラインしか見ないようになって来た。そんな時間がもったいないのだ。時間は自分の為だけに使おう。好きなものに囲まれ、好きな人達にだけ会いに行き、それでハッピーならそれで良いじゃないか…と思う事にした。
そんな単純な事に気付きにくくなってるのが、今の世の中なんだな、多分。だいたいジャズなんて、自由に演奏出来るから価値があるわけで、自分のやり方が見つからなけりゃ、ジャズじゃないのだから。でも、人生だってそうなんだよな。
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