タイトルは勿論、僕の大好きなウエザー・リポートに因んで付けたし、現にウエザーのトリビュート作品である。ただ、丹念に辞書を引いていたら、keep a weathereye open for... で「困難な状態を予測(警戒)している」という意味が有るらしく、それが自分の性格に面白いくらい一致したので気に入って使うことにした。
僕個人の名義だけど、正式には「宮地傑クインテット」だ。バンドは97年くらいから活動していた。メンバーはマイナー・チェンジは有ったものの、西尾健一(tp)、あびる竜太(p)、香川裕史(b)、高橋徹(ds)という不動のメンバーで演奏活動を定期的に行っていた。当時は目黒SONOKAや新宿ピットインがメインだった。なぜ不動かというと、バークリー時代から書き溜めていた、ちょっとヒネクレたオリジナルばかりやっていたからだ。当時の僕はⅡ-Ⅴ-Ⅰという当たり前の流れをとにかく嫌って、キーが曖昧な曲をたくさん書いていた。つまり、初見では掴みにくいので気に入ったサウンドを出してくれるレギュラーをきっちり決めて定期的に演奏活動を行いたかったのだ。
キング・レコードに話を持っていったのだけど、いきなりソロ・デビューさせてくれるわけも無く、まずは企画モノの「ジャズ新鮮組」への参加となった。だが、僕の頭にはソロ・アルバムの事しかなかった。結局、2年待ってようやく実現となるわけだが、メジャー・レーベルは当然、売れ行きを気にするわけで、企画モノでなければリリースは難しいという現実があった。プロデューサー氏と何度もミーティングを重ね、様々なアイディアを持ちかけられた。ありがちな映画音楽特集に毛を生やした様な「ホラー映画音楽集」とかね・・(苦笑) どれもピンと来ないし、あたかも「企画モノです!」と分かるようなモノやセンスを疑われる様なものは絶対作りたくなかった。実際、その手のモノで最悪なアルバムを何枚も聞かされて辟易していたし。
丁度、企画段階に入る直前にギターのHAL(高内春彦)さんが、ウェイン・ショーター作品集をリリースしていたので、僕はそれにヒントを得てウェザー・リポート集という案を出したら見事にそれが通った。これなら行ける!と思った。僕は本当に高校生の頃からウェザーに夢中で全てのパートを友達と一緒になって歌ったりしていたくらい。しかも、後にリリースしてみたら、ウェザーのメンバーの誰かが亡くなった訳でも無いのに、オランダのミケル・ボルストラップ(p)やアメリカの誰かさんによって、同じ月にウェザーのトリビュート作品が僕も含め世界で3枚同時にリリースされるという奇妙な偶然も生まれた。
選曲は頭をかなり捻った。メジャーどころの「バードランド」を入れると同時に、マニアックな選曲もしたかった。ショーターの「サイトシーイング」はその典型で、オリジナルはかなりアバンギャルドなジャズだったので、うちのバンドにフィットするようにリハーモナイズを行い、あたかも自分のオリジナルですよ・・って顔で(笑)演奏してやろうと考えた。前述のボルストラップがまさか僕と同じようにアコースティックでウェザーをやろう!なんて考えてるとは露とも知らず、また、ボルストラップなんて名前さえ知らなかったわけだから、自分が世界で最もヒップなアイディアの持ち主だとオモッキリ思い上がっていたよなぁ。(笑) そんな感じでアレンジも結構自分一人であぁでもないこうでもないと考えたりした。後でそのボルストラップのアルバムを聞いたら、「あ゛~!その手も有ったか!」と口惜しくなるほどの見事なアレンジだったけどね。僕は基本的にあまり劇的にオリジナルから遠ざけるアレンジは避け、その上でアート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーズと同じこの編成でもフィットする様なアレンジを心がけた。つまり、ウェザーの中に有るジャズのエッセンスを抜き出して再構築する・・という様な作業だ。恐らくザビヌルが聞いたら激怒するだろうなぁなんて思いながら。(笑) でも、何より僕は自分のオリジナル曲が聞かせたかったわけで、ウェザーの曲が間に入っても何ら違和感が無いようにする必要が有った。ボルストラップはこのあたりも見事で、まさに「ウェザー・アイズ」にとっては「ボディー・アコースティック」は目の上のタンコブ的な存在だった。
レコーディングは当時キング所有だった関口台スタジオ。プロデューサー氏には「日本で最も高いスタジオ」と脅され(笑)、与えられた時間は12時~0時の12時間のみ。よって当然、全て1発録りだったのだが、僕はジャコの名曲「ティーンタウン」でどうしてもサックスの多重録音がやりたかった。時間に当然余裕が無い。しかもピッチが不安定なソプラノの重ね録り・・これは別日にゆっくり作業したかったと今でも悔やまれる。最初にts,b,dsのトリオで一発録音して後からサックスを4本重ねるという作業。スタジオに来ていたライナーの著者・高井信成氏は「このショボいアレンジでいいのかな・・」と重ねる前は真剣に心配していたそうな。
このレコーディングのエピソードで面白かったのは、「ウェイブ・ウインド&ウォーター」の録音で、最後の音を伸ばして終わった瞬間に、西尾健一の電源を切り忘れてたケイタイが鳴り始め、一同が「エ~~!!」となった事。(笑) 結局これがOKテイクだったので、そのケイタイ音が少しでも被っていたら、西尾は射殺もの。ミックスルームでプレーバックを聞いたら、ギリギリ・セーフで全員でガッツ・ポーズを取ったのが忘れられない。
とにかく、このアルバムはデビュー・アルバムだったわけなんだけど、それまでに日本人アーティストの作品がどれもこじんまりまとまっているという印象を持っていた僕は、ラフでミスが残っても良いから爆発力の有るものにしたかった。今聞くと、僕の楽器のセッティングもかなりハードだったせいでサウンドがソフトな感じだし、楽器のコントロールという点でもまだ完成にはほど遠いものがある。また、批評家の感想にも爆発力に欠けるというものも実際に有り、常に自分を客観視しながら演奏するという課題が残ってしまったが、紛れも無く当時のベストプレーであり、如実な「記録」に他ならない。
ちなみにジャケット・デザインにはこの頃から口出ししていて、ヘンなポーズ取らされたり、妙なデザインは嫌だったので、とにかくシンプルにして欲しいと要望を出し、写真も撮った直後に全てチェックして自分で選んだ。まぁ、30過ぎの遅いデビューだったわけだけど、年喰ってた分、当然最初からナマイキでした。(笑) スタッフの皆さん、ごめんなさい。(苦笑)
僕個人の名義だけど、正式には「宮地傑クインテット」だ。バンドは97年くらいから活動していた。メンバーはマイナー・チェンジは有ったものの、西尾健一(tp)、あびる竜太(p)、香川裕史(b)、高橋徹(ds)という不動のメンバーで演奏活動を定期的に行っていた。当時は目黒SONOKAや新宿ピットインがメインだった。なぜ不動かというと、バークリー時代から書き溜めていた、ちょっとヒネクレたオリジナルばかりやっていたからだ。当時の僕はⅡ-Ⅴ-Ⅰという当たり前の流れをとにかく嫌って、キーが曖昧な曲をたくさん書いていた。つまり、初見では掴みにくいので気に入ったサウンドを出してくれるレギュラーをきっちり決めて定期的に演奏活動を行いたかったのだ。
キング・レコードに話を持っていったのだけど、いきなりソロ・デビューさせてくれるわけも無く、まずは企画モノの「ジャズ新鮮組」への参加となった。だが、僕の頭にはソロ・アルバムの事しかなかった。結局、2年待ってようやく実現となるわけだが、メジャー・レーベルは当然、売れ行きを気にするわけで、企画モノでなければリリースは難しいという現実があった。プロデューサー氏と何度もミーティングを重ね、様々なアイディアを持ちかけられた。ありがちな映画音楽特集に毛を生やした様な「ホラー映画音楽集」とかね・・(苦笑) どれもピンと来ないし、あたかも「企画モノです!」と分かるようなモノやセンスを疑われる様なものは絶対作りたくなかった。実際、その手のモノで最悪なアルバムを何枚も聞かされて辟易していたし。
丁度、企画段階に入る直前にギターのHAL(高内春彦)さんが、ウェイン・ショーター作品集をリリースしていたので、僕はそれにヒントを得てウェザー・リポート集という案を出したら見事にそれが通った。これなら行ける!と思った。僕は本当に高校生の頃からウェザーに夢中で全てのパートを友達と一緒になって歌ったりしていたくらい。しかも、後にリリースしてみたら、ウェザーのメンバーの誰かが亡くなった訳でも無いのに、オランダのミケル・ボルストラップ(p)やアメリカの誰かさんによって、同じ月にウェザーのトリビュート作品が僕も含め世界で3枚同時にリリースされるという奇妙な偶然も生まれた。
選曲は頭をかなり捻った。メジャーどころの「バードランド」を入れると同時に、マニアックな選曲もしたかった。ショーターの「サイトシーイング」はその典型で、オリジナルはかなりアバンギャルドなジャズだったので、うちのバンドにフィットするようにリハーモナイズを行い、あたかも自分のオリジナルですよ・・って顔で(笑)演奏してやろうと考えた。前述のボルストラップがまさか僕と同じようにアコースティックでウェザーをやろう!なんて考えてるとは露とも知らず、また、ボルストラップなんて名前さえ知らなかったわけだから、自分が世界で最もヒップなアイディアの持ち主だとオモッキリ思い上がっていたよなぁ。(笑) そんな感じでアレンジも結構自分一人であぁでもないこうでもないと考えたりした。後でそのボルストラップのアルバムを聞いたら、「あ゛~!その手も有ったか!」と口惜しくなるほどの見事なアレンジだったけどね。僕は基本的にあまり劇的にオリジナルから遠ざけるアレンジは避け、その上でアート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーズと同じこの編成でもフィットする様なアレンジを心がけた。つまり、ウェザーの中に有るジャズのエッセンスを抜き出して再構築する・・という様な作業だ。恐らくザビヌルが聞いたら激怒するだろうなぁなんて思いながら。(笑) でも、何より僕は自分のオリジナル曲が聞かせたかったわけで、ウェザーの曲が間に入っても何ら違和感が無いようにする必要が有った。ボルストラップはこのあたりも見事で、まさに「ウェザー・アイズ」にとっては「ボディー・アコースティック」は目の上のタンコブ的な存在だった。
レコーディングは当時キング所有だった関口台スタジオ。プロデューサー氏には「日本で最も高いスタジオ」と脅され(笑)、与えられた時間は12時~0時の12時間のみ。よって当然、全て1発録りだったのだが、僕はジャコの名曲「ティーンタウン」でどうしてもサックスの多重録音がやりたかった。時間に当然余裕が無い。しかもピッチが不安定なソプラノの重ね録り・・これは別日にゆっくり作業したかったと今でも悔やまれる。最初にts,b,dsのトリオで一発録音して後からサックスを4本重ねるという作業。スタジオに来ていたライナーの著者・高井信成氏は「このショボいアレンジでいいのかな・・」と重ねる前は真剣に心配していたそうな。
このレコーディングのエピソードで面白かったのは、「ウェイブ・ウインド&ウォーター」の録音で、最後の音を伸ばして終わった瞬間に、西尾健一の電源を切り忘れてたケイタイが鳴り始め、一同が「エ~~!!」となった事。(笑) 結局これがOKテイクだったので、そのケイタイ音が少しでも被っていたら、西尾は射殺もの。ミックスルームでプレーバックを聞いたら、ギリギリ・セーフで全員でガッツ・ポーズを取ったのが忘れられない。
とにかく、このアルバムはデビュー・アルバムだったわけなんだけど、それまでに日本人アーティストの作品がどれもこじんまりまとまっているという印象を持っていた僕は、ラフでミスが残っても良いから爆発力の有るものにしたかった。今聞くと、僕の楽器のセッティングもかなりハードだったせいでサウンドがソフトな感じだし、楽器のコントロールという点でもまだ完成にはほど遠いものがある。また、批評家の感想にも爆発力に欠けるというものも実際に有り、常に自分を客観視しながら演奏するという課題が残ってしまったが、紛れも無く当時のベストプレーであり、如実な「記録」に他ならない。
ちなみにジャケット・デザインにはこの頃から口出ししていて、ヘンなポーズ取らされたり、妙なデザインは嫌だったので、とにかくシンプルにして欲しいと要望を出し、写真も撮った直後に全てチェックして自分で選んだ。まぁ、30過ぎの遅いデビューだったわけだけど、年喰ってた分、当然最初からナマイキでした。(笑) スタッフの皆さん、ごめんなさい。(苦笑)
購入したのは2002年だったけれど、その時からジャズを1から覚えていった気がします。
今でも知らないことが多いけれど、アルバムを聴いたりライブハウスに行ったりする事が~今ではすでに生活の一部になっていますもんね♪
あ~でも、あと1年2年早くこのアルバムに出合って“ちょっとヒネクレたオリジナル”をナマで聴きたかったです!(笑)
このヒネクレたジャズから入門したってのも気の毒な気がします。(苦笑)
気の毒どころか~ヒネクレたオリジナルでも、ラテンでも、スタンダードでも・・私がハマッタ宮地サウンド♪には変わりないので~す!(笑)