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Saxophonist 宮地スグル公式ブログ

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エキセントリックな自分へ。

2015年03月11日 01時41分13秒 | Weblog
最近、小・中学校の友人とFBで繋がって、忘れていた過去の記憶が沢山蘇ってきた。

先日書いた「クリエイティビティとは?」の様に、たまに思い出す事も有る。でも、過去の自分を思い出すと、いつもエキセントリックな自分を思い出して赤面してしまい、いっその事、ギャグとして終わらせたいのだ。あのエピソードも女子のクラスメイト達が一般的で、僕の方が突拍子もないのだから。

いやぁ、あの頃に比べりゃ、自分もまともになったなぁ~!と思う。(笑) これも、人生の各ステージで僕の前に現れてくれた人達(家族や先生や友人やパートナー)の我慢強い教育のお陰だと感謝するほかない。

プロ・ミュ-ジシャンを志して、バークリー音大に入った時から何となく気づいてたし、学生ではなくなり職業として音楽をやり始めて確信した事なんだけど、やはりミュージシャンには自分に似てエキセントリックな人が多い。最初は、周りがガイジンばかりだったので、「文化が違うからこうなんだ。」と思い込んでいたけれど、まともなガイジンに出会う度に「日本人の様なガイジン」と自分の中で分類していたことを思い出すと、自分の方がやはりエキセントリックで、多くの同じ様な仲間に囲まれてアメリカ生活を過ごして来たとも考えられる。それは、今東京で暮らしていて周りにガイジンが居ないのに、状況がほぼ変わらないから感じる事である。

今僕の周りにいる、ちょいとエキセントリックな人達は学生時代に苦労しなかったのだろうか?

母はたいそう僕を育てるのに苦労したのではないかと思う。興味を持ったものにはとことんのめり込み、興味の無い事には全く見向きもしない。学校のテストも良い点数を取ったかと思えば、最低の点数を取って来る。教科書は常に落書きだらけ。母が評判を聞きつけて遠くの街まで行って買って来た算数のテキストも散々落書きした挙句に破り捨て、母を「教育ババァ」と罵り、その言葉を家の柱に殴り書きした。学校は僕にとってギャグを言うためのパフォーマンス・ステージでしかなく、授業中はほぼ上の空。空想の世界を漂っているか、面白い事をやってやろう...とギャグのネタを繰ってるばかり。

とにかく学校の椅子が座り心地悪かったし、押さえつけられて興味の無い事を学ばされる事も苦痛でしかなかった。時計ばかり眺めて休み時間や給食を待ってばかりいたのを思い出す。今で言う学級崩壊を生み出すADHD児童だったのかなぁとさえ思う。夏休み前になると校外児童会といって、当時あまりにも多かった児童を地区ごとにまとめて注意事項を伝える行事が小学校に有った。校内放送で「松が丘1丁目の人は〇年〇組へ」というアナウンスがかかるが、必ずよそ事を考えてる僕は毎年それを聞き逃して、流浪の民と化し廊下を彷徨い続けて、ほぼ児童会に出席した記憶が無い。人の言ってる事をちゃんと聞けない注意力散漫による損失は、その後の人生でも大きく影響し、僕をすんなりとレールの上に乗っける事はしてくれなかった。

しかし、友達には恵まれていたと思う。「そういう事をすると友達無くすぞ」とピンポイントで注意してくれる友達が常に近くにいた。無軌道な僕を止めてくれる友達も常にいた。子供の頃の僕は衝動的で、なんでも実際にやってみないと気が済まなかった。(まぁ、これは今もあまり変わらないけれど。笑) 振り返ると、時々ぞっとして今生きている事さえ奇跡の様な気がする。それ程危険な事ばかりしたくなったものだ。実際に骨折ったりして、痛い目に遭った事も沢山有ったが、そういう事を繰り返してようやく「想像力」が身に付いた気がする。

そばに居る友達ってのが大体、恐ろしいほど頭脳明晰でギャグも面白い奴。或いは僕の想像を遥かに超える様な突拍子もない言動をするけどメチャクチャ仲間思いな奴。結局、この2種類の友人が僕の人生のありとあらゆるシーンで異なる人物として現れては僕を救ってくれたと思う。

僕にとって学校生活は本当に困難で、勉強のみならず、当時は体罰も当たり前だったため、よく先生にはボコボコにされた。まぁ、それを今となっては恨んでおらず、こんな生徒なら仕方ないのかなぁ...とも思う。なんせ授業をメチャクチャにする事だって有るんだから。先日も中学の同窓生とFBで話題になったのだが皆の前で先生にボコボコにされた事件(笑)。それにも原因が有って、よく覚えている。

それは中学の道徳の授業だった。いわゆる地区の話で、差別はどうすれば無くなるか?という事をクラスで議論していた。しかし授業中、僕はこの授業の意味をずっと考えていた。自分達の住む街は新興住宅街である。そういうが古くから有るわけでもない。こんな授業は逆効果ではないのか?と。そしてまた空想の世界に浸っていると、先生にあてられた。意見を言えと言う。他のクラスメイトの意見も正直ピンと来てない様子。そこで僕は言ったのだ。「この街に差別が無いのに、どうやって無くすかって話自体が意味無いじゃないですか。差別を知らない人に差別の存在を知らしめる事は逆効果になりませんか?こんな授業は止めた方が良い。」...と。

この上下の見境も無く、自分の「正しい」と思った事をズバッと言っちゃう癖。コイツのせいでも人生で何度も痛い目に遭っている。(笑)

この後、先生の僕の見る目が変わったのを覚えている。今の時代では有りえない話だが、時は「金八先生2」の時代である。実際に暴走族が中学校の校庭にバイクで爆音と共に乗り込んで来た時代である。先生が暴力でもって生徒をビシッと締めなければ、即、学校崩壊を招いていた。そこで、その非常に体格の良い先生が、それぞれのクラスの反抗的な一番ヤンチャな生徒を順番にピック・アップしてはボコボコにして行くというキャンペーンが始まった。僕のクラスではヤンチャでも何でもなかった僕が何故か目出度くピックアップされた...という話である。まぁ、道徳の授業の一件だけで決まったとは思えない(授業中によく騒いでいたので)が、間違いなくあれがトレガーになったと確信している。

そのボコボコ事件は僕がクラスの女の子をイジメた...という騒ぎが発端で起こったのだが、こんな性格なので、逆にクラスメイトからいじめられる事も多かった。高校でカツアゲ(恐喝)に会った時も、彼らの常套手段としてギリギリ恐喝にならないために「〇〇円、貸してくれ。」と言うのだが、臆する事無く「いつ返してくれんねん。」と言ってしまう俺。そりゃ、ターゲットになるわな。(笑)

中学でろくすっぽ勉強せず、母はしょっちゅう呼び出され三者面談にも「特別」という冠が付き始めた。「あんたは本当はやれば出来る子なのに...」と母と担任の先生がため息と共に深く嘆き悲しむ中、僕は当時夢中だったラジコンの組み立ての事に想いを馳せていた。結果、内申点なるものは最低で、3年の時の担任の先生からも一発逆転の入試本番に賭けるしかないとのアドバイスしか頂けなかった。当然、入試は失敗し、滑り止めの私立の男子高に行く事となった。

今の母校の高校の学力がどの程度のものか測りかねるが、当時は偏差値40くらいではないだろうか。体育会系が盛んで野球部は甲子園にも出場した事が有る。見た事も無いようなゴリラの様に体格の良い人種が、揃いも揃って剃り込みを入れている。クラス内でケンカや恐喝、先生による体罰が当たり前、入学した年には授業ボイコット事件(校則でパーマを認めさせるため)が発生し、新聞社の取材ヘリが校庭の上を飛んだりした。恐喝に会って「いつ返してくれんねん」と言った呑気な僕も、この動物園の様な高校でサバイバル術とサブカルチャーを叩きこまれた。そして何よりジャズと巡り合ったのが、この高校である。まぁ、このジャズとの出会いも一筋縄では行かないのだが、この話はまたの機会に。

この高校は当然、受験には向いておらず、卒業したら上京して働きながらプロミュージシャンを目指そうと思っていた。やっと、やりたい事が見つかったのだ。しかし、猛烈な両親の反対に会い、せめて何処か大学に行けと言われた。浪人して神戸の予備校に通ったが、目的も無いのに勉強できるわけがない。結局、授業をサボっては三宮のジャズ喫茶に通う毎日。しかしある日、両親が母校の関西学院大学の学園祭に行くと言うので何となく付いて行った。その学園祭で演奏していたのが我が軽音楽部のビッグ・バンド「K.G.スイング・チャリオティアーズ」である。チック・コリアの「ラ・フィエスタ」を演奏していたのを覚えている。上手い!衝撃だった。「親が通ったこの大学に入ればジャズを続ける事がきっと許される!上手い先輩も居る!」それしかなかった。しかし、受験はあと数か月。いくら馬鹿な僕でも偏差値40から当時偏差値70の大学をいきなり受験するのは無謀だと分っている。演奏を聴きながら両親に言った。「もう一浪させて下さい。」 その年は、この大学の文学部のみ受験し、見事敗れ去った。


今、「ビリギャル」というのが流行っているが、偏差値40から慶応だっけ? 僕も全く同じである。僕が受験勉強したのは実質1年間だけだ。それはそれは死にもの狂いだったけど、「ジャズ」というモチベーションが僕を突き動かしたのだ。結局、僕が感じたのは「受験とは情報戦とテクニック」という事である。これさえやれば勝てる...という情報と信念さえ持っていればクリア出来るゲームだ。こんな事に人生の大半を子供の頃から費やすなんて馬鹿げているし気の毒だ。

折角、苦労して(と言っても1年間だけだが)入った大学だったが、結局はジャズを続けるために入った大学。更に研究を推し進めたくなり、バークリー音大を目指し始め、大学1年の頃から親を説得し始め、留年が決まっていた4年の冬にようやく認めて貰い、奨学金を得て晴れてアメリカ留学となった。24歳。やっと自分の人生のスタート地点に立てたのだ。

学費の事など、今考えると親に甘えた所は沢山有る。親を悲しませた事も沢山有った。しかし、振り返ってみると、僕はずっと学校教育に疑問を感じ続け、自分が何者で、何をやりたいのかを模索し続けていた。でも両親と学校が求めたのは従順である事と非常に狭い選択枠である。つまり大学を出てサラリーマン...が目指すべきものとしか読み取れない世界だ。そのための意味の無い勉強に対する嫌悪感で物凄く反抗していた。小学校の時、将来の夢を授業で言わされ、試しに「ごく普通のサラリーマン」と言ってみた。シニカルなギャグである。すると校長室に呼び出され「宮地君、もっと夢を持ちなさい!」と校長直々に言われた。大人と付き合うのは本当に難しいな...と子供心に思った。

学校教育は僕にとって非常に不幸ではあったが、無駄だったとは思っていない。友人を始め、その時々で僕にとって重要な方向性を指し示す大切な人との出会いが有ったからである。子供の頃から幸運にも音楽に邁進していたら、もしかしたら会えなかったかも知れない人達である。この人達が今の僕を形成しているのだから、学生生活には感謝している。

エキセントリックな過去の自分に、今、僕自身が声を掛けるとしたら、「まだまだ、もっともっと興味の範囲を広げろ!!」だと思う。
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1 コメント

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失礼を承知で… (ネギ星人)
2015-03-16 01:34:56
スグルさま
環境も詳細も勿論能力も違うのですが、私の子供時代に似ております。
小学生の頃は学級委員で廊下に立たされておりました。
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