Northern Bear Spirit

気づいたこと 哲学 宗教 スピリチュアル

何もする必要はない。 ケネス・ワプニック Ph.D.

2025-01-30 09:49:49 | 奇跡講座

何もする必要はない。 ケネス・ワプニック Ph.D.

I Need Do Nothing
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=ehGwCwjja6A

奇跡講座の中で、イエスは、私たちが世界で何をするかは重要ではなく、どのようにするか、あるいはもっと良いのは誰と共にするか、つまりエゴと共にするか、それとも彼(イエス)や聖霊と共にするかということを明確にしています。それにもかかわらず、私たちは皆、自分は肉体であると信じています。そうでなければ、ここにいないでしょう。私たちのここでの経験は明らかに、他の肉体と関係する肉体としての経験であり、私たちには肉体的なものも心理的なものも含めて、肉体的なニーズがあり、世界に存在し、世界で何かをする必要があります。

それにもかかわらず、講座での私たちの取り組みは、何をするかを具体的に示すことではなく、どちらの教師を選ぶか、どちらの思考システムを同一視するかという点において、私たちの心の中の決断がより重要なのです。そして、私たちが同一視する思考システムは、私たちを通して拡張され、それが世界に現れるのです。

テキストには、「私は何もする必要がない*」というセクションがありますが、それはもともとヘレンが世界で決断を迫られていた時に、彼女への個人的なメッセージでした。そして、そのメッセージのポイントは、私は何もする必要がない、つまり、私たちは世界で問題を定義して、それについて何かをする必要はない、ということです。私たちが認識すべきことは、唯一の本当の問題は私たちの心の中にあり、それこそが、私たちが再び選択することで対処すべきことなのです。

---------------------------------------------------
*訳注: 「私は何もする必要がない」 T.18.Ⅶ
---------------------------------------------------

「私は何もする必要がない」という言葉は、私が自分だけで何もする必要はない、つまり、私が行うことは、自分のエゴと一緒に行うべきではない、つまり、自分だけで何かをするという意味ではなく、むしろ、イエスを教師として行うという意味にも解釈できます。そして、彼が私たちを導くのは、赦しを学び、誰もが本質的に同じであり、私たちを分裂させる対立的な利害ではなく、共通の利害を持っていると見ることです。

つまり、私たちが人生を送るとき、明らかに世界で何かをする必要があるとしても、別の教師とそれを行う必要があるということです。これは、レッスン155の冒頭*で言われているように、一方で世界で普通であるという姿勢、つまり、他の皆と同じように見えるという姿勢を採用するのに役立ちます。


---------------------------------------------------
*訳注: W.155.1
私は一歩退いて神に導いてもらう。 
存在するように見えるが実は存在していないこの世界の中で生きるための一つの生き方がある。 あなたの外見が変わることはないが、あなたはもっと度々微笑むようになる。 あなたの額は穏やかで、瞳は静かである。 そしてこの世界であなたと同じように歩む者たちは、自分と同じものたちを認識する。 だがその生き方をまだ知覚していない者たちも、あなたを認識し、あなたが以前と変わらず自分たちと同じだと信じるだろう。 世界は幻想である。 そこに来ることを選ぶ者たちは 彼ら自身が幻想となり、自分の実相を回避できる場所を求めている。 しかしここにも自分の実相があると発見した時には、彼らは一歩退き、その実相に導いてもらおうとする。 実際それ以外に、彼らにどんな選択肢があるだろう。 幻想に真理を先導させるのは狂気である。 
---------------------------------------------------

私たちは皆と同じように服を着て、皆と同じように話し、皆と同じように食べ物を食べます。皆と同じようにセックスをし、皆と同じようにお金を蓄えます。それらのどれにも本質的に良いも悪いもありません。重要なのは、繰り返しますが、そのレッスンが述べているように、私たちの額が穏やかで、より頻繁に微笑むということです。

私たちが何をするにしても、平和的に行うということです。それは、私たちが世界に背を向けるという意味ではありません。それは、私たちが仕事を辞めたり、家族を離れたりするという意味ではありません。結局、これらすべては幻想であり、私たちは特別な関係にふけり、肝心な点を見失いたくはないからです。問題は、世界で何をするかではありません。

問題は、人間関係や肉体関係の何が悪いかではありません。問題は、繰り返しますが、私たちが罪悪感のもとに行動するか、それとも赦しのもとに行動するかということです。したがって、この講座の焦点は、私たちが行うことではなく、繰り返しますが、誰と共に行うかということに常にあります。したがって、私たちは他の皆と同じように人生を送ります。

私たちは普通に人生を送ります。私たちは世界で他の皆がすることを行いますが、それを異なる方法で行います。繰り返しますが、私たちはより頻繁に微笑み、額は穏やかです。そして、それが、私たちが肉体から心へと焦点を移すことで、この講座が何を言っているのかを学び、また教える方法です。なぜなら、私たちが正しい心を持つことで、私たちが接触するすべての人に、私がしたのと同じ正しい心による選択をあなたもできる、なぜなら私たちは同じだからだ、と伝えているからです。

あなたは、これの代わりに平和を見ることを選ぶことができます。あなたは、不満の代わりに奇跡を選ぶことができます。あなたは、攻撃しないこと、違いを強調しないこと、私たちを隔てる特別なものにふけらないこと、代わりに、誰もが同じだと見なすことを選ぶことができます。したがって、奇跡講座の生徒として、私たちは普通であることをやめないという事実を、もう一度強調しておきます。

レッスン194*で言われているように、未来を神の手に委ねるように求められているからといって、すべての保険契約を解除するという意味ではありません。私たちが何らかの保険を必要とする世界に住んでいる場合、それは意味をなしません。それは、あなたが車に鍵をかけず、街路に駐車して、人に盗むように誘うということではありません。

これはあなたにとって役に立たず、あなたの車を盗む人にとっても役に立ちません。それは、あなたが他の皆がすることをしますが、異なる方法で、異なる目的のために行うということです。夢に根ざし続けるという目的を果たすのではなく、今や夢から私たちを目覚めさせるという目的を果たすのです。

私たちをここに留めているのは分離であり、それが世界を現実にしているのです。この世界、またはこの世界を作った思考システムから離れるのに役立つのは、この世界には神の愛と平和を私たちから奪う力を持つものは何もないことを認識することです。そして、その愛と平和は私たちの心の中にありますが、私たちは肉体を作り、この世界で肉体として生きているので、世界は私たちが再び選択できる心に戻るように教えられる教室になります。

---------------------------------------------------
*訳注 W.194  私は未来を神の手に委ねる。 
今日の主題概念はすみやかな救済へ向けて、もう一歩踏み出す。 それは実に大きな一歩である! この一歩が跨ぐ距離は、あなたを天国のすぐ手前まで連れていくほどに大きい。 そこでゴールが間近に見え、障害物は後方に過ぎ去っている。 今やあなたは天国の門の手前で、あなたを歓迎する緑の芝生へと足を踏み入れた 。

 それは 神による最後の一歩を確信して待つしずかな平安の場所である 。 私たちは地上からなんと遠くまで進んできたことだろう。 ゴールまでなんと近づいたことだろう。残る旅路はなんと短いことだろう。 

今日の主題概念を受け入れなさい。 そうすればあなたはあらゆる不安や地獄や絶望の闇も罪の想念も罪悪感がもたらす荒廃もすべて通り抜けたことになる 。 

今日の主題概念を受け入れなさい。そうすればあなたは世界に対し自由への扉を固く閉ざしていた重い鎖を外し、世界をあらゆる牢獄から解放したことになる。 あなたは救われている。そしてあなたの救済はあなたがそれを受け取った今、あなたが世界に与える贈り物となる。 
もはや一瞬たりとも落胆を感じたり、苦痛が再建されたり、損失が知覚されることはない。一瞬でも悲しみが王座に据えられて崇拝されることはありえない 。 
一瞬で人が死ぬことはありえない。 
そうして過ぎてゆく一瞬一瞬が神に差し出され、次の瞬間もすでに神に差し出されている時、すべての瞬間はあなたが悲しみや苦痛や死そのものから解放されるときとなる。

あなたの過去や現在と同じく、あなたの未来も神の中にある。 それらは神にとって一つであり、だからあなたにとっても一つとならなければならない。 しかしこの世界では依然として時間の進行に実在性があるかのように見える。だからあなたは実際には時間の中に順序というものはないということを理解するよう求められているわけではない。ただ未来を手放し、神の手に委ねることだけが求められている。

そうすると過去があなたを罰することはなくなり、未来への恐れは無意味となるので、あなたは自分の体験を通して自分が過去と現在も共に神の手に委ねたことを理解するだろう。

未来を解放しなさい。過去はすでに過ぎ去っている。悲哀や不幸や苦痛や損失という過去の遺物から自由になった現在は、幻想の呪縛を解かれた時間が、それまでたどっていた無慈悲で回避不可能な経路から脱する瞬間となる 。 そうなると時間の奴隷だったそれぞれの瞬間は、聖なる瞬間へと変貌し、神の子の中に隠されてきた光が解放されて世界を祝福する。 

今や彼は自由であり、彼の栄光は、彼と共に自由となった世界の上に輝き、世界は彼の聖性を共有する。 もし今日のレッスンをその実体の通りに開放として捉えることができるなら、あなたはそれを自分の一部とするために、ためらうことなくできる限り、一貫した努力をするだろう。それがあなたの心を統率する想念の一つとなり、習慣的に用いる問題解決の方策となり、誘惑に対する素早い反応の仕方となるとき、あなたは自分が学んだことを世界へと延長して行く。 そしてあなたがすべての者の中に救済を見ることを習得するにつれて世界は自らが救済されると知覚するようになるだろう。

自分の未来を神の愛の手に委ねるものがどんな悩みに付きまとわれるだろう。何に苦しむことがあるだろう。何が彼に苦痛を引き起こし、損失の体験を与えられるだろう。彼が何を恐れたりするだろう。愛を持たずに何を見ることができるだろう。未来の苦痛に対するあらゆる恐れから出した彼は現在の平安に至る道、この世界に脅かされることのない擁護とを確信する道を見出した。彼は自分の知覚は間違うかもしれないが、それらは必ず訂正されると確信している。彼には欺かれたら、選び直し、間違えたら心を変える自由がある。

 だからあなたの未来を神の手に委ねなさい。 そのようにして、あなたは神についての記憶が再び自分に戻るよう呼びかけ、自分が抱いた罪や悪の想念を愛の真理に置き換える。

それによって世界が恩恵を得らないと、あなたは思うだろうか。また全ての命ある被造物が癒された知覚に呼応しないと思うのだろうか。 神に自分をゆだねるのは 自らは慰めと安全を求めた、その手のうちにこの世界も委ねたのである。 彼は自らの病んだ幻想ともに、この世界の病んだ幻想も脇に置き、自分と世界の両方に平安を差し出す。 今や私たちは本当に救われている。御手の中で良きことのみがもたらせるのを確信し、思いわずらうことなく安らぐからである。 もし私たちが忘れてたら、再び優しく元気づけられる。もし私たちが赦せない想念を受け入れても、それはすぐに愛の反映と入れ替えられる。

攻撃したくなるときは、私たちの休息を守る聖霊に助けを求め、 私達に代わって誘惑をはるか後ろに遠ざける選択をしてもらう。 わたしたちは世界の友であることを選択したのでもはや世界は私たちの敵ではない 。