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安心について

2024-10-02 19:37:51 | 日記
昨晩のzoomで堀田さんが云われたことを反芻していたら、下記の文章が想起されました。  2024年8月17日
 
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「安心について」 (『柳宗悦宗教選集5』
我々人間には苦しみや悲しみや悶えや色々不安が襲いかかる。一生苦の連続だとも言える。これがために心に平静が保たれない。
不幸が次から次に続いてくる。つまり安心が決定されない。なぜこんなことになるのか。この不安が高じると病気になる。神経が衰弱しこれが甚だしくなれば気が狂い自殺もしかねない。
なぜこんな悲劇が人間につきまとうのか。 それは詮ずるに二元の巷に彷徨うから起こる。 都合の悪いことに、二元は、常に相対し、相争う間柄である。 争わぬ二元とてはない。 その中に沈むから平静がないのである。 しかもさらに厄介なことにはは人間はその二元のいずれかに加担する。 いずれかを選びいずれかを避ける。 
つまり貧富の二元界では人は富を取り、貧を棄てる。 強弱では強を好み、弱を嫌う。 だが我々の生活は貧や弱を恐れると、絶えずそれに脅かされて不安を感じる。 人間は是か彼か好悪の間に彷徨う。
我々の判断とは、要するに是か彼かであり、然りと否の二元を出でず、しかもそのうちの1つを取り、他を棄てることである。 かかる二元の巷に彷徨うので、心に平和が保てぬ。
ではどうしたら安心できるか。 心を安らかにできるか。 
要するに二元を断ち切れば良いのであるが、どうしたら断ち切ることができるか。 仏法が教えるのは二元的な考え、それ自身が夢幻にすぎぬことを見抜けというのである。 言い換えれば高低、遠近、上下、左右のごときは人間が身勝手に作為した考え方に過ぎず、元来そんな区別はなく、したがってその各々に自性がないと知り抜けば、二元に迷わされぬと云うのである。 
例えば上下という、ここに坂があって、これを登り坂とも言えば下り坂とも言える。 坂自身に何も上下の自性はない。 ただ麓から見る人には登り坂となり、頂きから見る人には下り坂と見えるにすぎぬ。 その区別は人間が勝手に自分の立場からしか呼ぶにすぎない。 ある立場を固守するから、同じ坂が登り坂とも下り坂とも見えるのである。 つまり麓か頂きか、その1つを選んで、離さぬ故、一方は下り坂、一方は登り坂と決定してしまう。 しかし坂それ自身にそんな固定性はない。 人間の選ぶ立場からの身勝手な見方による争いにすぎない。 
だから、この争いから離れるには、自分の身勝手な立場を捨てれば良い。 つまり自分を固守しなければよい。 単に自分を棄てろと云ってもよい。 これができると争いは無くなる。 人間の争いがなければ心に波風は立たなくなる。 自分の立場への執着を棄ててしまい、その繋縛をほぐしてしまうことである。 心が一切の悩み悲しみ苦しみの因であることが分かる。
ある考えを固定させて、それに自分を縛ってはいけない。 自ら足掻きが取れなくなるからである。 人間は自縄自縛に苦しんでいるにすぎない。 仏教は「無住心」を説くが、固定させた箇所に住むなということである。 つまり二元界を心の住所とするなということである。 その根源をなす自我を捨てることが「無住心」となる所以にもなる。 ここに達せぬと永遠に不安は去らない。 つまり人間は自我の故に自由になれない。 自由は他人から自由になることを意味するよりも、何よりまず自我から自由になることである。 不自由とは他人の奴隷になることよりも、自分自身の奴隷になることを意味する。 
常に自分の主人であればよい。 これが禅でいう随所作主(随所に主となる)ことである。 一切の悲しみ、苦しみは、自分が自分の奴隷になっている時に起る悩みである。
ではどうしたらいつも自分の主人になれるか。
例えば、人間には何事につけ、自分が負けたくないという悩みがある。 それゆえ、負ければ苦しみや悲しみを感じる。 だから負けることに怯えて心が沈まぬ。 どうしたらこの悩みから抜けることができるか。 それには勝ち負けという二元の巷を抜けてしまうことである。 つまり勝負ということが行われない世界に出てしまうことである。 そうすると負けるということが絶対に無くなる。 
適当な例を引こう。 
仮に激しい風が吹いてきたとする。 この風に負けないようにするには、何かこれに抗しうる丈夫なものにすれば良いと誰も思うが、風に抗すれば、抗するほど、それに比例して、大きな抵抗を受ける。 だがどうしても負けない道が1つある。 風にとって1番の苦手は、暖簾で風を受け流して、少しも逆らわぬので風がいくらいきり立っても無駄になる。 つまり強い風も暖簾には歯が立たぬ。 それは勝負を争わず、風と争う心を棄ててしまっているからである。 風の吹くまま、吹かぬままに任せて、全てを受け流してしまうからである。 「暖簾と腕押し」などという言葉は面白い。 インドはこれで英国に負けずに済んだ。 言葉を変えれば英国はインドに勝つことができなくなった。 強い松の大木は、自らの力に任せて、風に抗するから、時として枝を折られたり幹を倒されたりする。 しかし弱い柳は、風を受け流してしまうので強い風にもなかなか折れぬ。 つまり柳は勝負のない世界に出てしまうからである。 これは大した解決ではないか。 
それで不安を去るには
1 二元を幻と悟ること
2 自分を棄てること
3 二元の争いのない世界に入ること
この他にもう1つある。 例を引こう。 
夜眠られぬので苦しむ場合、寝よう眠ろうとすれば、ますます目が冷めて、寝られぬ。 この場合、寝る寝られぬの二元の争いに身を入れているのでいよいよ苦しむのである。 仮に寝てよく、寝られなくともよいという道に出ると直に静かになる。 つまり二元の取捨をせぬのであり、両方を共に肯定してしまうのである。 仮に寝られぬ場合、これは自分に考える時間を与えてくれるためだと思うと、寝られぬことにありがみさえ感じ始める。 そうなるとどちらに転んでも良いことになり、心に安心が得られる。 
妙好人と言われる人々の生活を見るとこういう考え方が大変に目立つ。 例えば人から蹴られるとする普通なら腹を立てるのだが、別に腹を立てぬ。なぜか。蹴られることで、自分の犯した罪業の借金が少しでも減るのでありがたいと考えしまう。 こうなると腹を立てる心は消えてしまう。 つまり感謝で、何もかも受け取る生活をすると、心に安心が熟する。 
他人が自分に冷淡であったら、自分の徳の不足に由来すると思えば、他人を恨まずに済む。 かえって冷淡にしてくれたおかげで、自分を責めることができたと思えば、二重の感謝になる。 
二元の相克から脱するには、取捨をせず双方を肯定すればよい。 妙好人源佐はかつて時候の挨拶をしたことがなかったという。 「今日はお寒くて」とか「雨が続いて困ります」とかそんなことを言ったことがなかった。 なぜなら源佐には、寒くてもよし、暑くてもよし、晴れてもありがたく、雨でありがたい心の暮らしがあったからである。 食物の不平などはなかった。 人が、「今日のは辛くはなかったか」と問えば、「塩気はありがたいものだ」と云う。 「甘くはなかったか」と問えば、「たくさん食べられてありがたい」と云う。 それでどんなこともそのままで、源佐には最上であった。 こういう信者には、二元も歯が立たぬ。だから二元の争いから去って、自在な暮らしをすることができた。 それで口癖のように、「ようこそ、ようこそ」と言った。 この「ようこそ」で凡てを受け取るところに、妙好人の大した暮らしがある。 
かつて良寛和尚は不在中、盗人に入られて何もかも取られた。 しかしこのことを知った時、すぐ月見をして喜んだ。 
「盗人の取り残したる窓の月」 
これで盗人への恨みもなく、怒りもなく、恐れもなく、悠々自適の暮らしをした。 貧乏して飯を炊く薪もない時、
「炊くほどは風のもてくる落ちばかな」
で、静かなものである。 貧乏の悲しみも、苦しみも、良寛の心には近づかない。 何もかもそのままで肯定される。 こういう自在な人となることが安心を得る道である。 
色々ある二元の対立の中で、人間に一番切実に迫ってくるものは、生死のニである。 誰も死を嫌い、生を愛する。 これには当然な本能が働くとも思えるが、しかしこの対立のために異常な悩みや苦しみが伴うのは物の考え方に由来するとも言える。 悟り終われば、心経のいうように、罣礙はなくなるから、恐れる死もなくなる。 
禅僧は「這裏(シャリ、禅境)に生死無し」と云った。 まさにそうあるはずである。 親鸞上人は、「極楽に生まれるか、地獄に落ちるか、一向そんなことは存ぜぬ」 と言われた。 どう転んでも安心を得ているからである。 妙好人源佐の言葉は、度々他にも引用したが、友人からどうしたら安心して死ねるかと聞かれた時、「只、死ねばよいのだ」と答えた。 この「只、死ぬ」が大した答えではないか。 何もかも、弥陀如来のお慈悲に任せきった身、今後どうなるかそんな心配はいらない。 ただ死んでいけばそれで全くよい。 これは弥陀のお慈悲への信頼で生死のニを消しているためである。 
仏とも鬼とも蛇ともわからねど、何になろうと南無阿弥陀仏
これは木喰五行上人の歌であるが、称名にこれだけ積極的な信頼をすれば、何の恐れもなく自在の身になる。 死も悩みの種とはならなくなる。 六字にはどんなことも歯が立たないからである。 六字の前に生死のニはその差別を失う。 禅僧は「未生以前の面目」などという言葉をよく持ちいるが、悟りとはニが、未だ別れない以前の面目に帰ることだと云ってもよい。 
ニに別れた巷にあれば、いつまでも苦しみは去らぬ。 ニを越えずして、安心は保たれぬ。 しかし安心が何か苦悩の他に別にあるように思えば、再び二相に陥いる。 暗さの無くなるところが、直ちに光のあるところで、暗さと別に光があると思うと、再び明暗のニに分かれる。
先にも述べたが心を固定させて、そこを住居とするなというのである。 だがこれは決して無住所を住所としろというのではない。 囚われた心がほぐれば、それが無住心で、それが自在心、すなわち安心である。親鸞上人は「煩悩を断ぜずして涅槃を得」と言われた。 難しい言葉ではあるが二元に囚われないと二元にありながらも、そのまま二元にいないその風向を見得るであろう。
ここに安心が現成される。

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