「心海上人の墓」は、奥武山公園内、「沖縄護国神社」入口手前右手にあります。墓石に「心海上人の墓」と記されていますが、入口には表示や案内板がないので、気付かないことが多いだろうと思います。墓域にある墓などについても、由来などがよくわかりません。
01-0311-心海上人の墓
「心海上人の墓…心海上人(しんかいしょうにん)は、その生い立ちなどよく分かっていません。波上護国(ごこく)寺の住職(じゅうしょく)として務(つと)めたあと、奥武山に龍洞寺(りゅうどうじ)を建て隠居(いんきょ)し、最期(さいご)は自分でお墓(はか)に入りお経(きょう)を唱(とな)えながら亡(な)くなったと伝えられています。また、『龍洞松濤(りゅうどうしょうとう)』として球陽八景(きゅうようはっけい)の一つに数えられ、山上にかなでる松風の音は遊行を楽しませる風景の優(すぐ)れた所であるとされていました。」
02-0405 沖縄護国神社
03-0407 心海上人之墓
04-0407 心海上人之墓
05-0407 心海上人之墓
06-0405 ??
07-0407 ??
08-0407 ??
「世持神社」は、奥武山公園「県立武道館錬成棟」向かいの丘の上にあります。「鳥居」の右手に「世持神社」の石碑があり、左手には、「みなと村役場跡」の案内板があります。石段の「参道」を上って行くと、雌雄の「シーサー」が鎮座し、右手に、「産業恩人記念碑」があります。記念碑は、沖縄の産業界に貢献した「野国総管、儀間親方真常、蔡温・具志頭親方文若」の三人の功績を称えるために建立されたものです。
09-0407 世持神社
10-0407 世持神社鳥居
11-0407 参道
12-0407 シーサー
13-0407 シーサー
14-0407 産業恩人記念碑
15-0407 産業恩人記念碑
参照(世持神社 http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/okinawa/nahasi/yoji/yoji.html)
参照(石碑にきざまれた野國總管 http://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/42.html)
境内には、二つの社殿があり、右側には、「恵比寿神・大黒神」が祀られていました。社殿右手奥に、「恵比須大明神、混比羅大明神、大國大明神」の石碑がありました。「世持神社」の側には、「遊具広場」があり、広場の上から、ゆいレール「奥武山公園駅」が見えました。
16-0407 世持神社社殿
17-0407 恵比寿神・大黒神
18-0407 恵比寿神・大黒神
19-0407 世持神社
20-0407 世持神社
21-0407 世持神社
22-0407 舎利禮
23-0407
24-0407 恵比須大明神、混比羅大明神、大國大明神
25-0407
26-0407 みなと村役場跡
27-0407 みなと村役場跡
「みなと村役場跡(ミナトソンヤクバアト)…沖縄戦の後、特別に設置された行政区みなと村の役場跡。 1945年(昭和20)の沖縄戦の後、米軍専用となった那覇港での米軍需物資や民間の食料品等の荷役作業は、当初日本軍捕虜によって行われていたが、捕虜の解放、本土への引き上げにより、沖縄県民約2千人の那覇港湾作業隊(なはこうわんさぎょうたい)が組織された。この作業隊及びその家族を含めて約1万人の生活・労務管理等を円滑に行うため、1947年(昭和22)5月1日、当時の沖縄民政府によりみなと村か設置された。初代村長には港湾作業隊の指揮を執っていた国場幸太郎(こくばこうたろう)氏が就任。役場庁舎には奥武山(おうのやま)の世持(よもち)神社の建物が使用された。 村の行政区域は、奥武山を中心に戦前の那覇市山下町、真和志(まわし)村の楚辺(そべ)・松尾(まつお)・坪川(つぼがわ)など約23万坪にも及んだ。また米軍のテントカバーで作られた規格住宅が1世帯に1棟ずつ割り当てられ、奥武山など区域ないには規格住宅が立ち並んだ。 1950年(昭和25)、港湾作業が民間の業者による請負制になったため、村存続の意義がなくなり、同年8月1日那覇市に合併し、みなと村は解消された。 設置2002年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」
28-0407 遊具広場から見た奥武山公園駅
戦争で焼失しました。上の写真にある建物は、何者かが勝手に設置した不法建築物です。現在の世持神社は波之上宮の正殿左側にあり、そのご神体は年に1度、奥武山の元のあった場所に運はれ、例祭をとりおこないます。
その際、この見苦しい建物は大きなカーテンで覆い隠されます、。