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身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

「吉屋チルー歌碑」「比謝橋碑文」「比謝矼友竹亭顕彰碑」

2014-02-21 | 文化

 嘉手納町と読谷村の間を流れる「比謝川」に架かる、「比謝橋」関連の石碑を訪ねました。国道58号線、「嘉手納町中央公民館」を過ぎ、町村境界の読谷村側、右手にあります。

 「吉屋チルー」は「恩納ナビー」と並んで、琉球王朝時代の代表的な女流歌人で、石碑の碑文「恨む比謝橋や 情け無いぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」で知られています。

「吉屋チルー…『吉屋』は遊郭の屋号、チルーは『鶴』の方言とされるが、吉屋チルーの伝記である平敷屋朝敏『苔の下』では、『遊女よしや君』とあるように、『吉屋チルー』は近世の呼称で、古くはただ『よしや』とだけ表記されていたとの指摘もある。伝承では、よしやは遊女で某按司と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされる。悲嘆にくれたよしやは、食を絶ち、亡くなったという。8歳のとき、那覇の仲島遊郭へ売られていく途中、比謝橋(嘉手納町と読谷村の間に架かる橋)で詠んだとされる以下の歌が伝わっている。 うらむ比謝橋や 情け無いぬ人の 我身(わみ)渡さともて 架けて置きやら よしやは、真境名安興の『沖縄一千年史』に、恩納なべと双璧をなす女流歌人として紹介されている。 引用(吉屋チルー - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B1%8B%E3%83%81%E3%83%AB%E3%83%BC

01-0204 吉屋チルー歌碑

02-0204 吉屋チルー歌碑

「吉屋チルー歌碑…この歌は、女流歌人吉屋チルー(一六五〇~一六六八)の作品で、八歳に那覇仲島の遊郭に身売りされる際、詠んだといわれる。チルーが詠んだと思われる歌は二〇首余あるが、その作品のほとんどは抒情的である。 生地などまだ謎の部分が多いが、『苔の下』を表した平敷屋朝敏をはじめ後世の人々は、チルーの生涯や作品に心を寄せ、歌劇、映画、民謡、歌曲の世界に登場させている。 恨めしい比謝橋は 情けのない人が 私を渡そうと思って かけたのでしょうか 身売りという不条理を背負ったチルーのやり場のない気持ちが、比謝橋や橋をかけた人に向けられ、絶望的な悲しみが伝わってくる。 平成十七年七月二日 読谷村文化協会」

03-0204 比謝橋碑文

04-0204 比謝橋碑文

「比謝橋碑文…比謝橋は、1716(康熙55)年から1717(康熙56)年に木橋から石橋に改築された。比謝橋碑文は、その際に建立された石碑である。石碑には漢文で、比謝橋一帯の地誌や比謝橋架橋の歴史等が記されている。それによると、当初の木造橋は風雨や虫害で傷んでいたことから1667(康熙6)年と1689(康熙28)年に修理を行ったが、修理のたびに人民は工事に駆り出され、多大な負担を負わされてきた。そこで琉球王府は南風原親方等に命じて石橋に改築したところ、人民に大変喜ばれたと記されている。読谷村教育委員会は、比謝橋碑文が比謝橋架橋やせき石造建造物の歴史及び交通史を知る上で重要なものであることから、読谷村指定文化財(有形文化財)として2012(平成24)年5月23日に指定した。2013(平成25)年3月 読谷村教育委員会」

05-0204 比謝橋碑文

06-0204 比謝橋碑文

「比謝橋碑文…比謝橋(ひじゃばし)は、1716(康熙55)年~1717(康熙56)年に木橋から石橋へと改良されました。比謝橋碑文(ひじゃばしひもん)にはこの改良工事を記念し、比謝橋にまつわる話が記(しる)されています。碑文は漢文(かんぶん)で刻(きざ)まれ、工事が終わった1717年に建てられています。碑文には、主に次のことが記されています。①比謝川周辺が風光明媚(ふうこうめいび)なこと。②比謝橋は昔、小さな木橋で、1667年(康熙6)年と1689年(康熙28)年に木橋修理をおこなったこと。③石橋工事は6ヵ月余(あま)り要(よう)し、工事後、人々に喜ばれたこと。 この碑文は沖縄戦で倒れていましたが、昭和39年に現在地に建て直してあります。ちなみに、石橋は終戦後の昭和28年まで残っていましたが、米軍の道路工事でその姿は失われてしまいました。」

07-0204 比謝矼友竹亭顕彰碑

08-0204 比謝矼友竹亭

「比謝矼友竹亭…比謝矼友竹亭とは、廃藩置県後、首里から旧王府所領の牧原・久得・御殿敷あたりに移住してきた旧士族同好者たちの琉歌創作サークルである。 その活動は、越来村在住の山内盛熹を点者に迎え、比謝川河畔のこの地に店舗を構えていた黒糖仲買商人「全通店」の広間で行われた。 活動成果は明治40年から大正5年にかけて、再々琉球新報や沖縄毎日新聞等の文芸欄に発表され、その数実に700余首にも及び、県琉歌界隆盛の一翼を担ってきた。またこのサークル活動は実に本村記録文学の嚆矢で、その影響は本村の琉歌ならびに三線音楽の発展に大いに寄与し今日に及んでいる。 ここに本協会は先人の遺徳をしのび、その功績を称えて顕彰碑を建立する。平成17年7月2日 読谷村文化協会」

09-0204 比謝橋

10-0204 比謝橋復元模型

11-0204 比謝川

12-0204 交通安全之塔

13-0204 比謝川流域図

14-0204 比謝川流域図


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