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身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

ヘルメット、懐中電灯を受け取り…「南風原病院壕跡」

2012-10-23 | 平和

 「南風原文化センター」駐車場から、「飯あげの道」を登っていくと、「南風原陸軍病院壕跡」碑「悲風の丘」塔がありました。崩落危険防止のため、ここから壕内に入ることはできません。

 壕跡から細道を登ると、「仏ぬ前」碑がありました。さらに登り続けると、道路整備のための資材やミニユンボ2台が置かれています。「黄金森(85m)」頂の広場から、那覇・首里・与那原方面がよく見通せました。写真は、首里方面の様子です。

 「仏ぬ前」まで戻って、東側の階段を下り、整備された道路に抜けました。広場には、「憲法九条の碑」「歌碑」等があります。

 「20号入り口(受付)」で入場料を払い、ヘルメット、懐中電灯を受け取り、説明を聞いて、中に入りました。ドアを閉め、電灯を消すと真っ暗で何も見えません。「夏でもひんやりしていますよ」とガイド。電灯をつけて、「埋められた医薬品類」「ツルハシ」を見ました。ガイド(Mさん、新潟出身、本部で絣織り)によると、20号は、「真っ黒な壁」「焼けこげた坑木」「通路が曲線を描いている」等の特徴があるそうです。「鉄砲の弾はまっすぐにしか飛ばないので、少し先に行けば逃げ延びることができます。それで命拾いをした人がいますよ。」と話してくれました。

……沖縄陸軍病院は那覇市内にありました。10月10日の空襲で施設消失後「南風原国民学校」に移転し、字喜屋武と字喜屋武に約30の横穴壕を造りました。米軍の艦砲射撃が始まった1945年3月下旬に各壕に移ります。軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月24日には、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員されました。5月下旬、第32軍司令部は摩文仁(糸満市)へ撤退を決定し、陸軍病院に撤去命令が出されました。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強要が行われました。20号は、長さ約70mの人工の横穴で、高さは約1.8m、床幅1.8mです。第二外科の中心的な壕で、東側が患者の病室、西側が勤務者質として使用されていました。……(資料:沖縄陸軍病院「南風原壕群20号」、南風原文化センター)

「月桃」(仏ぬ前から階段を下りている途中)

「ススキ」(飯あげの道)



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