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身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

松尾山跡、沖縄県立沖縄病院跡、ユーナヌカー跡、白梅の乙女たち、久米村發地…那覇市松山公園

2014-05-22 | 歴史

 那覇市松山1丁目「松山公園」には、広々とした緑地に、「運動広場」「遊具」「休憩所」などがあり、市民の憩いの場として利用されています。この地は、かつて、那覇の中核をなす丘陵地で、松が生い茂る「松尾山」がありました。その後、区画整理により、「那覇尋常高等小学校」「那覇地方裁判所」「知事官舎」「沖縄県立第二高等女学校」「松山尋常小学校」「沖縄県立沖縄病院」「裁判所官舎」「連隊区司令部及び官舎」等の公的施設が建てられました。

 それらの施設は、沖縄戦により消失し、小学校・病院跡地には、「沖縄県立那覇商業高等学校」が開校しました。現在は、「松山公園」と「福州園」が整備され、松山公園内の施設跡には、記念碑や説明板が建てられています。

01-0517 那覇商業高校

参照(沖縄県立那覇商業高等学校 http://www.naha-ch.open.ed.jp/

02-0514 松山公園

03-0514 松尾山跡

04-0514 松尾山跡

05-0514 松尾山跡

「松尾山跡(マーチュウヤマアト)那覇市松山1丁目松山公園内…浮島(うきしま)と呼ばれた那覇(なは)の中核をなした丘陵跡。久米村(くめむら)と若狭町村(わかさまちむら)の間にあったことから『久米村松尾(クニンダマーチュー)』・『若桜町松尾(ワカサマチマーチュー)』とも呼ばれた。松が生い茂る山林は、総じて松尾山と呼ばれ、かつては、松尾と呼ばれる多くの場所があった。 琉球王国時代、松尾山は久米村の所有地であったとされるが、1899年(明治32)から実施された土地整理事業(土地・租税の制度改革:~1903年)により、県有地となった。その前後から松尾山の開発が始まり、1945年(昭和20)の沖縄戦以前は、西側から中央部にかけて那覇尋常高等小学校(1888年開校)、那覇地方裁判所(1893年移転開所)、知事官舎(1916年開設)、沖縄県立第二高等女学校(1923年移転開校)、松山(まつやま)尋常小学校(1902年開校)があり、小学校の南側に沖縄県立沖縄病院(1901年移転開院)が置かれた。中央部から北側にかけては、裁判所官舎、連隊区司令部及び官舎(1910年設置)等と、公的施設が集中した。 一方、東側の『東郷松尾(トウゴウマーチュー)』・『仲地小の丘(ナカチグヮーヌウカ)』等と呼ばれた丘陵には、念仏者(ニンブチャー)の屋敷や長寿の宮(ちょうじゅのみや)があり、一帯は、戦前まで松尾山の面影を残していたという。 1944年(昭和19)の10・10空襲や、その後の地上戦により、松尾山一帯の施設は焼失した。終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校した。その他の場所は、米国マニング社管理の外人住宅地となっていたが、1977年(昭和52)からは公園整備事業が開始され、現在、松山公園・福州園(ふくしゅうえん)が整備されている。 なお、1603年に来琉して、浄土宗(じょうどしゅう)を伝えた袋中上人(たいちゅうしょうにん)の事績を記した『袋中上人行化碑』(ぎょうけひ、1924年建立)が住持した桂林寺(けいりんじ)跡とされる場所に残されている。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

06-0514 松尾山跡

07-0514 松山公園

08-0412 那覇市立松山尋常小学校・国区民学校跡

09-0514 沖縄県立沖縄病院跡

10-0514 沖縄県立沖縄病院跡

11-0514 沖縄県立沖縄病院跡

12-0514 沖縄県立沖縄病院跡

「沖縄県立沖縄病院跡(オキナワケンリツオキナワビョゥインアト)…『県病院』『県立病院』と呼ばれ、当時、県内唯一の総合病院であった『沖縄県立沖縄病院』の跡地。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)に先立ち、西村(にしむら、現那覇市西)に置かれていた旧薩摩藩在藩奉行所(さつまはんざいはんぶぎょうしょ)は、明治政府の外務省出張所、次いで内務省出張所となり、1876年8月には医局を設け、内務省官吏や一般住民に医療を施していた。 1878年8月、出張所は西村の個人宅を間借りし、改めて医局を置き、翌年の沖縄県設置により、沖縄県医局(後に病院)と改称した。1885年(明治18)6月には、『下の天妃宮(シムヌテンピグウ)』跡に移転し、橋せめて病室を設け、入院患者を収容したという。1889年(明治22)4月に沖縄県病院と改称。その後、老朽(ろうきゅう)化と狭隘(きょうあい)化により、1901年(明治34)年6月、那覇区字久茂地(くもじ)の松尾山(マーチューヤマ、現那覇市松山)に移転し、1909年(明治42)4月に沖縄県立沖縄病院と改称された。 病院の敷地は約3,226坪。一部2楷建ての瓦葺き木造平屋建てで、南側に正門玄関、外科・内科などの他に、売店・食堂が入った棟があり、長い渡り廊下を上がって、東・北病棟へ続いた。北病棟の奥に遺体安置所があり、遺体の引き取りは、近くの裏門からなされたため、裏門は俗に『死に門(しにもん)』と呼ばれた。 1944年(昭和19)10月10日の空襲で、建物は焼失し、その後は宜野湾(ぎのわん)の出張診療所で診察を続けたという。1945年(昭和20)の沖縄戦により自然閉院した。跡地は、1953年(昭和28)に那覇商業高等学校の敷地の一部となった。 なお、県立沖縄病院には、医生(いせい)教習所(1885年創設)、産婆(さんば)養成所(1890年創設)が併設され、他に付属施設として、伝染病隔離(かくり)のための台瀬(だいのせ)病院(1896年創設)や性病対策の若狭(わかさ)病院(1900年創設)が設置されていた。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

13-0514 沖縄県立沖縄病院跡

14-0517 ユーナヌカー跡

15-0517 ユーナヌカー跡

16-0517 ユーナヌカー跡

「ユーナヌカー跡(ユウナヌカーアト)那覇市松山1丁目松山公園内…この地にあった村ガー(共同井戸)の跡。近くにゆうなの木があったことから、『ゆうなの井戸(カー)』と呼ばれたという。 浮島と呼ばれた那覇(なは)は、周りを海に囲まれているため、多くの井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかった。そのため、那覇港南岸の『落平(ウティンダ)』の水が、那覇市中や入港する船舶に向けて販売されていた。このような中、松尾山(マーチュウヤマ、現松山公園一帯)周辺の井戸の水は、飲み水として利用されたという。ユウナヌカーもその一つで、周辺住民の産湯などに使われる貴重な村ガーとなっていた。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、県庁所在地として人口が増加した那覇では、水問題が一層深刻となった。水道敷設計画は何度も持ち上がり、1933年(昭和8)に念願の水道が敷かれた。水道普及により、ユウナヌカーは使われなくなったが、その後も水への感謝として、周辺住民から拝まれた。 ユウナヌカーは、この地にあった沖縄県立第二高等女学校の運動場の一角にあったが、現在、1986年(昭和61)に整備された松山公園の池として、憩いの場所となっている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

17-0517 ユーナヌカー跡

18-0517 ユーナヌカー跡

19-0517 ユーナヌカー跡

20-0517 ガジュマル

21-0517 白梅の乙女たち

22-0517 白梅の乙女たち

23-0517 白梅の乙女たち

「白梅の乙女たち…沖縄県立第二高等女学校は、太平洋戦争の戦渦によって昭和19年(1944)10月10日に校舎全焼し、暫時民家等で分散授業が行われたが、沖縄戦の激化によって学校の機能は消滅、戦後も復興されることなく自然廃校となった。 創立80年の節目にあたり、元職員と同窓生及び篤志家の協力を得て、母校が存在した証のモニュメントとして、また、人類共通の願いである平和のシンボルとして、永遠の乙女像『白梅の乙女たち』をここ母校跡地に建立する。 昭和59年(1984)9月10日 白梅同窓会」

24-0412 久米村發地

25-0412 久米村發地

26-0412 建立趣意書

「建立趣意書…今から六〇〇年前、中国の福建から閩人三十六姓と呼ばれる人々が渡来し、この地に居を定め久米村(唐栄)を築きました。 以来、久米村の人々は、外交文書の作成などを通して、王国の国際交流・交易を促進し、また中国の文化・文物を導入して、沖縄の政治・経済・文化の発展に大きく寄与しました。 ここに、久米村が、沖縄の歴史と国際交流に果たしてきた役割を顕彰し、今後の友好・交流の発展を祈念して、記念碑を建立いたします。一九九二年十二月吉日 久米村六〇〇年記念事業期成会」

27-0412


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