「名護のひんぷんガジュマル(平成9年国指定天然記念物)」は、名護の移り変わりを見てきた『市民の木』として、親しまれています。名護市城2丁目の「ガジュマル緑地」には、「ひんぷんガジュマル」の説明板や「徳田球一記念碑」「宮城輿徳」生誕百年を記念する会の説明板、「2000年九州・沖縄サミット記念写真」などがありました。周辺には、「悪いことはしません」「ここは神様のいる場所ですよ」など、コメント付き・キジムナーのイラストがあちこちに隠れていました。
01-0301 名護市街案内図
02-0301 ひんぷんガジュマル
03-0301 ひんぷんガジュマル
04-0301 ひんぷんガジュマル
05-0301 ガジュマル緑地
06-0301 名護のひんぷんガジュマル
「名護のひんぷんガジュマル(通称:ひんぷんがじまる) 国指定天然記念物 平成9年9月2日指定…『ひんぷん』とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状(びょうぶじょう)の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温(ぐしちゃんおやかたさいおん)は、当時の運河開通論(うんがかいつうろん)と王府の名護移遷論議(なごいせんろんぎ)を鎮圧するため、三府龍脈碑(さんぷりゅうみゃくひ)を建てました。この石碑がひんぷんのように見えることから『ヒンプンシー』と名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしか『ひんぷんがじまる』と呼ばれるようになりました。 ガジュマル(Ficus microcarpa. L.f.)はクワ科の常緑高木で、屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林、緑陰樹(りょくいんじゅ)として広く植栽されています。漢名は榕樹(ようじゅ)で、幹はよく分岐して枝葉は四方に繁茂(はんも)し、垂下する気根は地上に降りて幹となり広く美しい樹冠(じゅかん)をつくっていきます。 ひんぷんがじまるは、推定樹齢(すいていじゅれい)280~300年、樹高(じゅこう)19m、胸の高さでの幹周囲は10m、樹冠(じゅかん)の広がりは長いところで直径30m、堂々とした市のシンボル、そして街のひんぷんの役割を担っています。ひんぷんがじまるの特異な景観は古くから衆目の的になり、写真におさまる周辺の様子で街の移り変わりを知ることもできます。名護の移り変わりを見てきたひんぷんがじまるは、まさに『市民の木』です。 ※文化財の現状を変更したり、保存に影響を及ぼす行為は、条例及び法律で禁じられています。平成12年(2000年)3月 名護市教育委員会」
07-0301 徳田球一記念碑
08-0301 徳田球一記念碑
09-0301 徳田球一記念碑
「徳田球一記念碑…徳田球一(1894.9.12~1953.10.14)は、名護・沖縄が生んだ偉大な思想家・政治家です。戦前・戦後の苦難の時代を、高い志をもって社会運動に奔走しました。大衆を心から愛した情熱の人、日本を変革することに情熱を注いだ人物です。 徳田球一は、1894年この名護の十字路近くに生まれました。沖縄で中学校を卒業後、鹿児島の第七高等学校に進みましたが、すぐ沖縄にもどりました。23歳の時上京し、日本大学で学んで弁護士になり、社会運動に参加し、1922年の日本共産党結成に働きました。1928年、3.15事件で検挙され、終戦までの18年間獄中にありました。戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、『徳球・とっきゅう』の愛称で国民的支持と人気を得ましたが、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命しました。その60年の生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現しています。 このような徳田球一の比類のない人物と業績を私たち郷里の者が評価し、永く讃えるため、この碑を建立しました。 1998年10月14日 徳田球一顕彰記念事業期成会」
参照(名護市役所-名護市の文化財と史跡_3 http://www.city.nago.okinawa.jp/1/143.html)
10-0301 宮城輿徳
11-0301 宮城輿徳
「宮城輿徳(みやぎよとく 1903.2.10~1943.8.2)…画家・宮城輿徳は1903年2月、名護間切(現名護市)東江に生まれた。16才のとき、父の呼び寄せで渡米。サンディエゴ官立美術学校などで絵を学ぶ。 移民社会の中で画家としての道を歩みながら、戦争と革命の激動する世界のなかで波乱の人生を送った。 アメリカで人種差別、移民労働者の悲惨な境遇を目の当たりにし、『働く者の食える社会』への道を社会運動に求めた。日中問題や東アジアの課題に強い関心を持っていた輿徳は日本に帰り、同志・尾崎秀実らとゾルゲ機関の活動に参加。 故郷沖縄の状況とアメリカ、東アジアのそれが相似の構図にみえ、沖縄の解放につながるとの思いから軍国主義一色の日本で、持病を抱えての情報・反戦活動を殉教者のごとく実践した。 絵の才能を期待され、愛する甥に『いつか君たちの時代がくる』と話していた宮城輿徳は逮捕され、1943年8月40才で獄死。 ここ名護の地に生まれ、心から名護を愛し、日本と世界の歴史に深く関わった人物・宮城輿徳を記憶するため、この碑を建立する。☆肖像は1927年、輿徳24才のときの写真より ☆月光像 1934~41年頃の作品 2006年1月25日 宮城輿徳生誕百年を記念する会」
12-0301 2000年九州・沖縄サミット記念写真
13-0301 ガジュマル緑地
14-0301 ガジュマル緑地
15-0301 ガジュマル緑地
16-0301 ガジュマル緑地
17-0301 悪いことはしません
18-0301 ここは神様のいる場所ですよ
19-0301 ここは神様のいる場所ですよ
20-0301 あなだばし
21-0301 あなだ橋
22-0301 幸地川ハッピーロード
23-0301 幸地川
24-0301 幸地川
25-0301
26-0301
27-0301
28-0301
29-0301
30-0301
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