SH快特みやっち

旅する鉄ちゃんが気が向いた時に作品を上げるページ。

7ヶ月後の被災地・じっくり沿岸編~ちょっとプロローグ~

2012-03-07 02:30:00 | 長編
年も明けてまって、一年の節目ももうすぐだって言うのに、ようやく10月の半年編が書き上がりましたよ。

半年訪問は夏のごあいさつで一月先延ばしで7ヶ月目だけど、初めて被災地へ行ったのは震災から一ヶ月後の4月だったからね、それから考えれば半年だわね。
4月はね、今思い返してもあの時よく行ったと思うわ。
お金もない、時間もない。
お金も時間も無理矢理捻出したからね。

ほんと無理矢理だったわ。
誰にも行き先を言わずに、ブログも書かんかったからね。
親にすらただ出かけるとしか言わんかったし。
今だから余裕ぶっこいてこんな風に言っとれるけど、あの時はなんもできんのがもどかしかったし、いてもたってもおれんてのはそう言うことだね。
でも実際に自分の目で見て確かめておきたかったのが一番だね。

でもって半年訪問は10月16日~22日で、そのあとについでの教授の写真展と恒例のキャナルハロウィンをくっ付けて行ってきました。
今回はね、出かける前日におかあが入院して大騒ぎでね、もうてんやわんやですわ。
それでもまあ大事には至らないからってことで行ってきたんですよ。
まあね、大して病気もしたことない人がね、しかも入院てなるとね、そりゃダメですわ、じいちゃんはその手でガンが見つかって、退院することなく逝っちゃったからね。
そりゃあね、人間いつかは死ぬけどさ、病気持ちで入退院を繰り返しとったばあちゃんより、病気すらもしたことがなかったじいちゃんの方が早く逝った時はあり得んぐらい動揺したのよ、元気だった人が突然いなくなるとね心の中にポッカリと大きな穴が開くんですよ。
ばあちゃんの時はずっといつ逝っても仕方がないって言われてたからね、人が死ぬことは悲しいことだけど、じいちゃんの時ほどではなかった。
じいちゃんの時は今思い返してもあの穴は大きかった。

そんなこともあっただけにね、みやっちも震災によって開けられた心の穴はとてつもなく大きかったわけですよ。

だからと言うわけではないけどね、震災で、特に津波で大切な人を失った人の気持ちは分かるつもりでいます。


・・・。
余分な話長いわ。

とりあえずそんなこんなで半年編いってみよー!


あ、いつもの如くPCで見てね。


7ヶ月後の被災地・じっくり沿岸編~1日目新地編~

2012-03-07 02:25:00 | 長編
さあさあ、いよいよ本編ですよ~。
今回の往路は、9月25日に全面復旧した仙台空港へぶっ飛びました。


10月16日
いつものように軽子ちゃんは稲沢でお留守番で、名古屋からミューでセントレアへ。

やけにデデが多い。

空港に着いたら、手荷物カウンターは長蛇の列。

セントレアでこんな並んだの初めてだべ。

荷物を預けたらそそくさと搭乗口へ。

鹿児島線じゃないのに3番てあんた。
この日は北向に飛んだけど、座席はF列だったから家は見れんわね。
その代わりに飛行機から初めて富士山が見れた。




磐梯山の辺りを飛んでって、4月の時と同じく海側から仙台空港へ着陸。
あの時は一面瓦礫だったけど、今回は空港の周辺も、滑走路脇も、きれいに片付けられた中に降りていきました。

画像はJ-Airだけどね。

もう30年ぐらい前の話だけどね、仙台は小牧から初めて飛行機に乗った区間です。
そういうこともあって、仙台空港、ひいては仙台に対する思いも強いわけで。
4月は他の交通機関の復旧もままならない中、とりあえず再開した仙台空港へ飛びました。
映像で見ていた以上に被害が大きかったのと、思い出の地がこんなことになってしまったと言う思いとで、案の定泣いた、まさかとは思ったけど泣いた。
今でも思い出すと涙が出る、この記事書いとるだけで泣けてくる。
ヤバイヤバイ。

でもって、全面復旧したらまず名古屋から飛ぶべって決めとったから、夏ぐらいにそのニュースが出た時に「10月は仙台!」って決めてました。
いざ飛んだはいいけど、そんな思いがあるわけだからね、我慢できるわけないがね。
うん、そりゃ泣くわね。
あれね、他にお客さんいなかったらわんわん泣いとったよ、絶対。
泣くを通り越して嗚咽?
多分CAさんも引くぐらいの嗚咽。
でらくそ我慢したもん、我ながらよく我慢できたなぁってぐらい我慢したからね。
あ、でもしっかり泣いとるんだよ。
5月にね、仙台駅で新幹線の乗換改札が開いとるの見ただけで安心したけど、この日の仙台空港も空港の設備がすべて普段通りに機能しとるのを見て改めて安心したね。

でもって改めて泣いた(笑)


手荷物の受け取りもターンテーブルです。
↓4月は床置きだったね。


こちらは10月1日に全線復旧した仙台空港アクセス線。

夏からは美田園まで再開したけど、滑走路下のトンネルの冠水等もあって空港までの再開は少し遅れました。


でもって名取で常磐線に乗り換えて新地へ向かいました。


4月の時は崩れたままだった法面は修復中です。
国道のデコボコもほとんどきれいになっていました。


新地役場に着いてまず見たのは歩道。
↓4月の時はこうね。

↓今は

きれいになりました。

でもって4月の時と同じ道順で新地駅へ向かいました。

↑↓同じ場所ね。

4月はあちこちで重機が動いていましたね。


4月は車やら瓦礫やらがたくさんあったけど、今はきれいに片付いています。

でも、裏を返せば復興計画が遅々として進まず、荒廃した印象を受けました。


草が生い茂った中には、倒れた電柱や瓦が埋もれています。

駅に着くと駅舎も車両もきれいさっぱり片付けられていました。

タクシーの駐車場所が、辛うじて駅前広場の存在を示しています。

駅舎の入口だった辺りには、真っ二つになった新地町の観光案内板がありました。

4月に見た陸前高田駅の駅名板を思い出させます。

駅舎の基礎はしっかり残っています。
真ん中の線は改札の戸のレール。
右手前が待合所で、点字ブロックの左側が駅事務室。
震災以前を知らなくても、これぐらいは分かります。




構内は、4月の時にはあった跨線橋は撤去され、駅舎側のホームは笠石もろとも流されています。


構内の線路は所々はがされて、残っている部分も草に埋もれています。


相馬方の線路の途切れる場所、4月はここから駅へ行きました。
ポイントと転轍機は撤去されていますが、ホームの途中まで線路は残っています。

そのまま軌道のあとを歩いていくと、小さい川がありました。
流されたのか、外したのか、桁がないので渡れず大回りしていきました。
その先も軌道は路盤だけの状態です。


線路より少し海側へ行ったところには、未だに道路標識が倒れたまま放置されていました。

役場へ戻る途中には、半年経つのに解体も修繕もされずにいる家が何軒かありました。




この日はこのあと原ノ町まで行くつもりだったけど、行きの代行バスからチラ見した浜吉田のコスモスが気になって仕方なかったから、浜吉田へ寄ることにしました。


浜吉田も津波が来てるはずだけど、あまり被害を感じさせません。

で、気になったコスモスは。



こんな感じ。
これが被災地じゃなくて廃線跡とかだったらね作品として出せるんだけどねぇ・・・。
ちょうど西日だからねえ、寂しい感じだねぇ。
早く復旧できるといいなぁ。


駅は営業してないけど、暗くなってくると駅名板は電気が点きます。
電車は走ってなくても、駅名板に電気が点いてるだけで不思議とホッとします。


次のバスで亘理へ戻りました。

亘理で浜吉田から釜石までのきっぷを買って、仙台へ行きます。

仙台で使わなかった新地から原ノ町のきっぷを払い戻し。

普通に損した気分。


ほいで、この日は東横インの仙台東口Ⅰで泊まりました。


4月・5月辺りの写真と今回の写真、見比べるといかに被害が甚大だったかが分かりますね。
それでも、当時も今も現場の空気は伝わらんなぁ。

よし、とりあえず2日目へつづく。



7ヶ月後の被災地・じっくり沿岸編~2日目東松島市・女川町編~

2012-03-07 02:20:00 | 長編
2日目は仙石線・女川方面です。
東松島市野蒜地区と女川町。
野蒜へ初めて行ったのは、5月に仙石線キャノンボールした時です。
4月も5月も女川は計画段階では予定に入っていたものの、うまく予定の調整ができず先延ばしになっていました。
そうして、今回ようやく行くことができました。

10月17日
朝は8:21の仙石線に乗らないかんのに、7:45に朝食食べに行ってます。

おいおい、間に合うんか?




おー、間に合った間に合った。
これに乗れんとまた女川が飛んでまうでねぇ。


電車代行は松島海岸で乗換だけど、電車の再開区間は高城町までだから高城町まで乗りました。

5月の時は再開に向けた工事が進んでいましたが、まだ列車の姿はありませんでした。

レールも錆びたまま。
でも、今日はちゃんと列車がいます。



ラッチの向こうに列車の姿があるのってやっぱいいね。
どんなに大赤字のローカル線でも、列車は地域に安心感を与えてくれるものだと思います。
こと被災地ではその鉄道までもが甚大な被害を受けたけど、それでも地域のために少しずつ走り始めました。
道路さえあれば、徒歩でも自転車でも車でもバスでも、なんでも移動手段・輸送手段はあるかもしれん。
単なる輸送手段・移動手段ではなく、鉄道には地域の安心感と言う不思議な空気も運んでいる。
鉄道を失った地域は、ほとんどが活気と一緒に安心感も失っていると思います。
鉄道とはそう言う不思議な乗り物なのですよ。
特にね、過疎地域においてはね、それはもう大切なものですよ。
だからね、気仙沼線のBRT転換は絶対ダメですよ。

さてさて、ひと安心したとこでね、代行バス乗り場の公民館まで歩いていきます。

公民館横のグラウンド。

5月に来た時は瓦礫がうず高く積まれていました。
今はその瓦礫も搬出されて、土の入れ替えをしていました。

その後ろを仙石線の電車が通過していきます。

でもって、代行バスで東名へ行きます。

3分もはよ来たで。
しかも満席。

東名に着いてまずは駅へ。



両方向とも線路は剥がされていました。
仙台方は廃線跡みたい。

踏切の傍らには白いコスモスが。

だからこう言う画はね・・・。

跨線橋の上から。
駅周辺


宮戸島方向

訪問直前の台風の影響もあると思うけど、運河の向こうは未だ水が引かず。


5月とほぼ同じ場所。
↓5月はこんな感じ。


野蒜方

こちらもスッキリ片付いて草が生えてます。
5月の時は↓こんな感じだったもね。




ぼちぼち野蒜方向へ歩いていくことに。


5月の時に屋根の剥がれた車があったアパート。
車も撤去されて、アパートの室内も片付いていました。


散乱していた瓦礫は撤去されたけど、軌道はずれたまま。

付近の住宅街の道路は、至るところで路面が凹んでいます。

白くペイントされてるとこが凹んでるとこね。
石巻や気仙沼みたく、目に見えて沈下してるわけじゃなくて、さりげなく凹んでるみたいな感じです。

一見なんの被害もなさそうな民家。

でも、倒壊の危険があるのか、立入禁止です。

以前はサンクスとセブンがありました。

サンクスはそのままだけど、向こう側ではセブンが取り壊されています。

野蒜方面へしばらく歩いていると、津波で打ち上げられた船がありました。

5月ん時もあったのか記憶が定かではなかったけど、あとから思い返せば確かに5月もありました。
庭先に瓦礫が集められてた民家のすぐ近く、たしか美容室か薬局かの近くだった気がするけど。
でも5月は写真撮った記憶が無いぞ?

野蒜小学校へ行く途中の踏切。

線路脇にあった黒板はありません。


未だ物が散乱したままの家がありました。


遠くには作業をしているボランティアの人たちが。
こんな撮り方をすれば当時の様な感じに見えてしまいます。
写真を撮るって時には酷なものです。


校舎に掛かっている時計は、地震発生時刻を指したままです。
校庭の仮設はボランティアセンター。
道路沿いにあった郵便局も、ここにあります。
当時、野蒜小学校も避難所になっていましたが、ここにも津波は押し寄せ、体育館に避難した人の多くが犠牲になってしまいました。

小学校をあとにして駅へ向かって歩いていると、道路沿いのある民家の庭先にこんな旗が。

こんなに被害を受けても、地元が好きだと言うことでしょうか?
みやっちも地元が大好きです。

さらに歩いて行くと。

運河もきれいになったなぁ。
↓5月はこうだよ。

でも、台風の影響で増水しとるなら、水量が下がったら・・・。
なことは無いわな。

近くには野蒜郵便局。

多分3月に行く時には取り壊されとるんだろうなぁ。

ちょっと行ったところの踏切。

片方は倒れて埋もれたまま。

踏切の近くには、土地の所有者を証明する立て札がありました。

4月にも陸前高田で立て札があったけど、あれは安否と避難先を伝えるものでした。

ほいで、ふと線路の向こう側を見て目ん玉飛び出ました。
いやいや、飛び出しはしんけど、漫画張りに飛び出した気分だった。

5月ん時にあった柱が一本無い家ね、まだあった。
↓5月はこんな感じよ。

やっぱりちと傾いとるね。
流石に3月には無いだろうなぁ、乞うご期待。

駅構内は相変わらずでした。

制限標識は倒れたまま。


軌道内は土砂が堆積したままで、架線も垂れたまま。


ホームも相変わらず。

これ、5月の時は見落としとったなぁ。

軒下の駅名板に津波の浸水の跡がはっきりと残っていました。
4メートルぐらいか?

石巻方はすっかりきれいになってました。

ここも5月はこんな感じだったもね。


駅事務室はベニヤで目隠しされていました。

でも、改札の外は物が散乱したまま。

駅の周辺では、仙石線の復旧を望む幟が立っていました。


駅舎の窓にはこんなスローガンも。


気仙沼線にしてもそうだけど、ここもさあJRの復旧させようと言う気合いが見えんのだよねぇ。
八戸線はねぇ運が良かったんだよ。

そうこうしているうちにバスが来ました。


石巻方では相変わらず1編成が佇んでいます。
陸前小野まで再開したら救出してもらえるんやろか?

矢本で列車に乗り換えて石巻へ。

矢本~石巻間は陸羽東線のキハ110が走っていました。
しかも、併合閉塞でスタフを使ってます。

石巻で女川行きの代行バスに乗換。


5月の時、仙石線のホームに留置してあった編成は、一番奥の留置線に移動してました。


途中、渡波の駅舎は交番として利用されてました。


バスが女川の市街地へ下りていくと、最初に飛び込んでくる光景は4月の陸前高田となんら変わらん。
根こそぎってこういうことを言うんだと思います。
他の地域でもそうだけど、やっぱりいつ見ても、何回見ても、思い出すだけでもゾッとする。

バスは駅の裏っかわの高台にある、女川運動公園に発着します。

すぐ近くに役場の仮設庁舎もあります。
バスはすぐ折り返していくから、1本落として2時間後のバスで帰ります。

とりあえず駅へ。

駅舎も線路もありません。
来たことがない、正確には来るはずだったのに来れなかったから、日常風景が全く分からん。

女川駅を出るとすぐにトンネルがあるから、そこまで路盤を歩いていきました。

陸前高田の竹駒トンネルと同じく、ここもトンネル内まで浸水したみたいです。
当時、駅に停車していた列車は、線路脇の少し高いところにある墓地に打ち上げられました。


線路脇の木の枝には流されてきた漂流物が、未だ残っていました。
奥の建物の3階にも木が刺さっていたけど、この漂流物の高さも大体それぐらいです。


駅の横にある教育センターには、車が突っ込んでいます。
バランスが悪いのか、ロープで固定されていました。
教育センターの玄関脇には町民憲章がありました。

書いてあることは陸前高田と同じなんだけど、東北地方の人柄ってこう言うとこから来てるんだね、多分。

憲章にも映ってるけど、向かいっかわの少し高いところに役場がありました。



ほんとに一段だけ高いとこだから、まるごと飲み込まれました。


駅から海へ行く途中にあるこの建物は、銀行だったみたいです。
家もビルも多くが解体されたけど、未だこんな状態の建物が残っているのも現状です。


海を挟んで奥は女川漁港。
画面真ん中はこっち側の岸壁なんだけどね、手前の海みたいに見えるとこはね、海じゃないのよ。
↓引いてみるとね、

地盤沈下で大きな水溜まりになっちゃったのね。
前の画像みたいに撮ったら完璧海だよね。
写真て嘘の固まり・・・。

そろそろいい時間になってきたから、運動公園に戻りながら見ていきました。


最初は壁かと思ったんだけどね、反対側を見てみると・・・。

建物が基礎ごと横倒しになってたんです。
ほんとこれにはビックリした。
ちなみに、この建物は交番です。


こちらは消防署。
これまで見てきた海沿いの地域は、だいたいどこもそうなんだけど、本来防災の拠点となるべき場所がことごとく津波でやられていました。
あとで出てくる鵜住居もそうだけど、防災センターへ避難して、そこで津波に呑まれて亡くなった人も多くいたみたいです。

消防署の近くで、ここにも日の丸が。

今まで載せてきた鯉のぼりや日の丸は、自然に風でなびくとこを撮ってたけど、これはやらせ(爆)
風が吹くとさあ、反対になびくんだもん。
仕方ないわね。


山の方にはたくさんの瓦礫が集められていました。

そろそろバスが来る頃だから運動公園へ戻りました。

運動公園へ行く坂道には桜並木があります。
ちょうど紅葉し始めだったから、着止めのバスを一枚。

列車代行バスだから、これも立派な鉄道写真だぞ。

帰りの便は、5月に渡波から乗った超満で渋滞にはまる便です。

それを見越してか、今回は2台運行です。
1号車は4列夜行仕様でした。

でもって、案の定浦宿から学校帰りの高校生で2台ともほぼ満席。
5月もこういう状態だったんだね。

5月の時ほどではないけど、とりあえず渋滞にはまりました。
やっぱりね。

んでも1号車はちょっとはよ着いて、2号車は5分ぐらい遅れてきました。

5分ぐらいだから小牛田行きも待ってて、6分延で発車です。

小牛田で40分も待たされるから、ちょっと1枚。



一ノ関行きに乗り換えて、この日は一ノ関の東横イン泊まりです。


でもってこの日の夜ごはんは、ほっかほっか亭のお弁当・・・。
って、画像が無い。
駅前はローソンしかないからね、検索したらほっかほっか亭があったの。

てなところで3日目へつづく。




7ヶ月後の被災地・じっくり沿岸編~3日目気仙沼→志津川編~

2012-03-07 02:15:00 | 長編
10月18日
この日は大船渡線の快速スーパードラゴンに乗るからゆっくり朝食。

やっぱり朝ごはんはのんびり食べたいね。

今日もいい天気です。



それじゃあ大船渡線で気仙沼へ。




震災以来初めて、リアスシーライナー以来1年3ヶ月ぶりの気仙沼です。



やっぱり港町には大漁旗が似合いますな。


千羽鶴はあの時もありました。



なぜか被災地で見る青空は今でも心が痛むけど、4月は今以上に痛かった。
やっぱり被災地での青空には慣れん。

本吉行きのバスまでは2時間あるから港の方へ行ってみることに。

駅周辺は少し高台にあるのか、津波の痕跡は見られませんでした。
でも、市役所の先の角を曲がると、周囲の状況は一変します。


まず手始めに、街灯が建物に寄りかかっています。
この辺りが津波の境目みたいです。

その先の交差点ではお巡りさんが交通整理しています。

たしか、警視庁だったはず。
正面に写ってる建物はすごい状態でした。

野蒜のあの家並みにすごいです。


信号があっち向いてほい。
この辺りは港のすぐ近くだからなす術もないのですね。

大島への船が発着する、港ふれあい公園。

桟橋は水没。


気仙沼の街を北鉄バスが走ってます。
宮交や県交は、沿岸地区の営業所で多くのバスが被災しました。
県交は国際興業グループから、宮交は名鉄グループからそれぞれバスを譲受しています。
国際興業グループはみんな同じ塗装だけど、名鉄グループは名鉄を基本としつつもみんな違うから、宮交の沿岸地区はかなりカラフルです。
女川には北恵那交通がいましたな。

エスポートのすぐ近くには男山酒造があります。

でも、今はこの有り様。
二階建てじゃなくて二階だけ。

地球の裏側で起こったチリ地震。

M9.6を記録したこの地震でも、地球の裏側では浸水高は3m。
今回の震災では、チリ津波で3mだったのを過信して、避難しなかったり逃げ遅れたりして津波に呑まれた人が多かったそうです。
やっぱりね、沖合いが震源の地震の時はね、たとえ津波が来なかったとしても、まず高い場所へ逃げることが最優先だね。
他人の命よりまず自分の命。
自己中人間は嫌われるけど、そういう時だけは自己中でいいと思います。
緊急避難は仕方の無いこと。
たげど、時が経つにつれて辛くなるんだよね、きっと。

しかし、気仙沼も沈下が激しいね。
道路は盛った高さが本来の高さで、盛ってある下が沈下した本来の路面。


看板は残ってるけど、店は見る影もない。


エスポートの裏。
かなり長い期間水に浸かっていたのか、地面は苔むしていました。

そのすぐ隣。

大漁旗と浮きで飾られた風の広場があります。
大漁旗がロープに巻き付いてうまくなびいてくれないの。

その中にはこんなオブジェが。

グラウンドゼロ。
普通は爆心地など被害の中心を指すけど、この場合は気仙沼の復興に向けての中心にしようみたいな意味合いで捉えたけど、合っとるか?


風の広場の裏。
気仙沼だけじゃなく他の地域でも、瓦礫はなくなったけどいわゆる粗大ゴミで区分される物はまだまだ街中にたくさん残されていました。


気仙沼でも鯉のぼりが泳いでいました。
でも、よく考えたらこれ10月だで。


津波は漂流物と共にシャッターをも破って侵入するってことですね。

で、そろそろバスの時間だから、始発の市役所のバス停へ。

エアロスターのノーステが来た。

でもってなぜか本吉駅には15分も延着。

本吉駅からはエルガのちっちゃいやつ、MIOだっけか?

でもって運ちゃん頑張って3分回復して、志津川に着きました。

右側の鉄骨が例の建物。
1時間しか時間がないからサクサク行きましょう。

バス乗り場の近く。

ここでも山積み・・・。
この時ね、初めて口に出しました。
「もううんざりだ」
被災地に来て、行く先々で同じ光景ばっか見るのはもううんざりだって。
でも不思議と、いくらうんざりだって思っても、被災地へ行くのを止めようとは全く思わないのね。
それは、写真やニュースの映像では、被災地の生の空気感が伝わらないから。
伝えられないって言うのが正解か。
映像や写真ではあの空気は絶対に伝えられない。

まずは志津川の駅へ。

駅舎は跡形もなく。

築堤の上にあるホームもさらわれていました。

志津川病院

外観は保っているものの、津波に呑み込まれ建物の中はめちゃくちゃです。
二階の屋根には流されてきた漁船も見えます。


こうして花が供えられているのも何度見てきただろうか・・・。

バスの時間もあるから、そろそろ防災庁舎へ。

ここにもチリ津波の浸水高を示す標識があります。


ここも、陸前高田で見た雇用促進住宅と同じ空気を感じました。


玄関だった場所に作られた祭壇には、花や飲み物が供えられています。
あの日、あの声は自分の命を犠牲にしてまで多くの人の命を救いました。
でも、できることなら自分の命も犠牲にすることなく多くの命を助けてほしかった。
3月に来る時には、たぶん取り壊されとるんだろうなあ。
身内の人はこう言うのがいつまでも残っとるのは辛いのかもしれんけど、それは裏を返せば自分の家族の悲劇を、もっと大きく言えば街の惨劇をも風化させることになると思うんだけどねえ。
そう思うのは俺だけか?
他所の人間だからそう思うのかもしれんけど、なるべくなら津波の傷跡を残して、津波の怖さを後世に伝えていってほしいと思うのね。
全てを残す必要はないと思うのよ。
こんなこと書きたくはないけど、辛いからと言って全ての傷跡を消し去るのは被災者のエゴにしか聞こえんのよ。
風化してもいいなら全て消し去る、風化させたくないなら辛くても残す。
はっきり言って、自分の中では阪神も中越もほとんど風化しとるもん。
記憶から阪神も中越も消し去ろうとするぐらい、この震災は衝撃的だったってことですよ。

ま、あっちを立てればこっちが立たずってやつですわね。

そろそろ時間だから、バス停に戻ることに。

画面の右側からザバーっとやって来て、壊すだけ壊してサーっと引いてったんですかね?
上流側の欄干はなぎ倒されとるのに、何で下流側の欄干は普通なの?

バス停の近くで。
!!

イルカがおる!と思ったら柵だった。


柳津行きのバスは北恵那だった。


柳津で列車に乗換。


ちょうどいい時間。


前谷地で小牛田行きに乗り換えて、小牛田で30分待たされて一ノ関行きに乗換。



一ノ関で盛岡行きに乗り換えて北上へ。


一ノ関から北上に来るのにえらい遠回りだったなぁ。

ってことで、この日は北上の東横イン泊まり。

北上泊ってことは、明日の朝は・・・。




7ヶ月後の被災地・じっくり沿岸編~4日目山田線沿線編~

2012-03-07 02:10:00 | 長編
10月19日
はいはいそうですね、例によって朝食は食べれませんよ。

幕一ノ関になっとるで。




まあ、釜石までいつもの列車ですわね。

相変わらずガラガラです。
ガラガラだから3月の改正で1両減車になっちゃうね。

紅葉がベストだなぁって思いながら釜石到着。

大槌行きのバスに乗換。
ここまではいつもと一緒。
同じこと書くのもめんどい(笑)


車内から両石駅を隠し撮り(笑)
3月に行きます。

でもって、今回は鵜住居で途中下車。

駅は当然跡形もなく。

ホームへ上がろうと地下道から行こうとしたら立禁のロープが。

なんでやねんと思いながらよく見たら地下道冠水。
そりゃいかんわってことで、法面を上がってホームへ。

土台だけ残して上っ面はなくなってました。


ホーム上には袋に入ったままの真新しい中学校のジャージが。


駅前の片隅には、流されてきたのか、和泉さんの表札が残っていました。


駅前のタクシー会社の前にはバンパーだけが置き去りに。
このバンパー、MOVEかプレオか?

一本入った消防署の裏手には、津波に流された廃車体が集められていました。



やっぱりここでもうんざりしました。


半年も経つと草も生えます。
ナウシカ?


旧型のシビック。
渋いなぁ。
昔の車ってこんなになっても原形をしっかり留めとるのは流石だね。

うんざりしながら撮っていたら、地元の方に声をかけられました。
「どっから来たの?こういうの珍しい?」って言われたので、
「名古屋から来て、かくかくしかじかで」って、4月に初めて被災地に来て愕然としたこと、各地で見る同じような光景にうんざりしていること。
感じたこと、思っていることをなぜか自然に話していました。
逆にその方は、当時のことをいろいろ話してくださいました。
「また明日っから後始末大変だなあ」って思いながら逃げたら、こんなことに。
鵜住居川は、4mある堤防に6mの津波が来たそうです。
釜石の市街地は、1,200億円かけた沖堤防のおかげで、津波の到達時間を6分遅らせ、被害を7割に抑えたそうです。
7割で済んであの映像だよ・・・。
釜石港に押し寄せた波高は約8m前後なので、沖堤防が無かったら15m近くの津波が来ていたことになります。
1,200億かけて7割で済んだと思うか、1,200億もかけたのにたった3割しか抑えることができなかったと思うか。
どちらも正しいね。
7割で済んだから、釜石駅は無事だったんだと思うし。

もう一つ、悲しい話も聞きました。

消防署に併設されている防災センター。
ここでは70人もの人が亡くなったそうです。
「平地にあるにもかかわらず、防災センターなんて言うからそんなことになるんだよ」っておっしゃっていました。
うん、その通り。
女川もそう、志津川もそう、このあと出てくる大槌も、消防署や防災センターが海に近かったり、平地にあったり、過去に何度も津波の被害にあっとるんだからそれはおかしい。
志津川だって高台に防庁があれば、命を落とさずに済んだかもしれんし。
名ばかり庁舎はただの税金の無駄遣い。

最後にしっかりと手を合わさせてもらいました。

鵜住居では片岸地区にも行きたかったから、バスを一本落として歩いていきました。

まだ室内に物が散乱している建物もありました。

柱に貼ってある家族の写真、無事ってことでいいですか?

歩道には幟が。

支援に対する感謝の気持ち。
ちょうどバスが来たから一緒に。

鵜住居川の左岸には、堤防より高く積まれた瓦礫が。

分かりにくいけど、堤防の上から見た自分の目線より高いです。
てことは、津波の高さはこれぐらいだったってことか。

目的地の近くにガソリンスタンドがありました。

ここはちゃんと建物が残ってました。

目的地に到着。

片岸地区にある片岸神社。
お社は鳥居をくぐって階段を登った上にあるので、当時はここにも多くの人が避難して難を逃れました。
押し寄せた津波で鳥居は倒れてしまいました。
今建っている白木の鳥居は、地区の人たちが建てたものです。


隣にはこちらも津波で倒れた石碑。


傍らには倒壊した元の鳥居が寄せ集めてあります。

大槌湾方向。

あの日の光景は想像もできんくらい穏やかだ。

バスまでちょっと時間があるから付近を徘徊。

山田線の築堤は、所々崩壊していて歯抜け状態。
バス停の向こうには、打ち上げられた船もありました。

バスに乗って次は大槌。



バス停の横の建物は郵便局だったんだね。
ATMは隣で移動車で営業中。

でも、看板の矢印逆でっせ。


大槌小学校の前にあった歩道橋の脚と階段。
まだ残ってた。

とりあえず駅へ。

線路は全部剥がされていました。


6月にも撮ったはまゆりの乗車位置。
周りも乗車位置もきれいになっとる。


大槌町は、12時になるとお昼のサイレンの代わりにひょっこりひょうたん島の音楽が流れます。
これは、大槌湾に浮かぶ蓬莱島がモデルになっているからです。
でも、その音源は津波で行方不明になってしまいました。
今は新たに寄贈されたジャズアレンジのひょっこりひょうたん島が流れています。
新しい音源もなかなか良いですよ。
今回の大槌はそれを聞くのが目的の半分でした。

でもって今回は、赤浜地区まで行くつもりだったから、役場の方へ行ってみました。


4月にもこんな状態の建物をたくさん見たけど、今の状態はあの時とは全く違います。
あの時はどの建物を見ても、周りは一面瓦礫で、むき出しになった鉄骨には漂流物がまとわりついとったもんなぁ。


でも、辺りには粗大ゴミがたくさんありました。
奥の消防車は粗大ゴミじゃないね。


水道管から水が垂れ流し。
水は大切な資源。

少し行くと消防署がありました。
・・・。

ね、大槌もこんなだよ。
川すぐ近くだしね。
やっぱダメだよね。

消防署の手前に役場があります。

確か大槌町は町長さんが亡くなったんだよね。

このあとは、赤浜へ行ってから山田へ寄って宮古で泊まって、翌朝田老へ行く前に津軽石へ行くつもりだったけど、この日に津軽石も寄ろうと思って次のバスで山田へ行くことにしました。
てことで、旧病院前バス停まで軽ダッシュ

途中、山の斜面に墓地があったからちょっと一枚。

津波がどこまで来たか一目瞭然。


お墓の面倒が見れなくなった人は、お寺で撤去してくれるそうです。

あ、最後にはちゃんと合掌です


ギリギリバスに間に合いました。


吉里吉里で再び隠し撮り。

今回は道の駅で乗継。

時間があるからお昼にしました。

三陸産ワカメのわかめラーメン。
ラーメンにアイスコーヒーの組み合わせはつっこむな!

でもって県北バスで山田へ。

4分も遅れて来よったで。

織笠は、織笠大橋で工事の片側通行の信号待ちの間に隠し撮り。
またか!


山田駅はきれいさっぱり無くなりました。
ロータリーの真ん中の木、黒焦げになったけどちゃんと生きてるんだって。


ホームは相変わらず無惨な姿をさらしていました。

今回は港の方を歩いてみることに。


家は土台しかないですけどね。
防潮堤も壊れてしまったので、土嚢で仮堤防が作られています。


堤防のすぐ向こうは港です。
この堤防って、押し寄せた波で破壊されたのか、引き波で破壊されたのかどっちだ?

バスまでそんなに時間が無いから、街中の方へ。

6月のとは違う蔵。
やっぱり蔵は頑丈だ。


仮設交番の裏。
この木は炭化しちゃってる。


泥棒はダメです。

そろそろバスの時間だから、バス停へ。

バス停の近くには、電柱がアタマが折れたまま建っていました。

ほんとはこのまま宮古へ行くんだったけど、津軽石へ寄りました。

この時はすでに車両は撤去済みだったけど、線路は微かに砂を被っていました。
でも、パッと見津波が来たことを感じさせません。


改札口や窓は、ベニヤで目隠ししてありました。


宮古方では線路内にコスモスが。
モロ廃線跡を思わせます。


暫くすると日が暮れてきれいな夕焼け空になりました。
あ、色はいじってないからね。
ほんとこんな感じ。

1時間弱で次のバスに乗って、やっとこ宮古に到着。



この日は宮古ステーション古窯に泊まりました。
4月は沿岸は久慈しか泊まれんかったけど、今は宮古でも釜石でも泊まれます。
でもって、ここに泊まった理由は↓コレね。

楽天トラベルで、宮古市商工会議所発行の、宮古の津波の記録の写真集付きのプランがあったから。
何回見ても当時の映像や写真はすさまじい。

あ、ホテルはね、みやっち的に気に入りました。
久慈と並んで宮古の定宿になると思います。

で、マックでビックマックセット食べて、5日目へつづく。