9月3日(金)、栗東市出身の「木村敬一選手」(東京ガス)は、東京パラリンピック競泳男子100mバタフライで1分2秒57で待望の「金メダル」を獲得した。銀メダルは富田宇宙が獲得している。
木村は今大会100m平「銀」に続いて2個目のメダルである。
↑写真:京都新聞より(左:木村、右:富田)
木村選手はパラリンピック4大会連続出場となる木村にとってパラのメダルは通算8個目となるが金は初めて。過去3大会で6個のメダルを獲得していた。
この快挙、待ちわびた瞬間だった。初めてメダルを手にした2012年ロンドン・パラリンピック以降、9年にわたって続いた木村の挑戦は、リオデジャネイロでの挫折を経て、東京での金メダルという最高の形で報われた。
先頭争いをしながら1位で折り返し、残り25メートルで前に出て真っ先にゴール板にタッチ。「バテたなと感じたのでもしかしたらダメかも……」と覚悟はしたが、「金メダル、おめでとう」。タッピング棒で木村をたたいてゴールを知らせるタッパーの寺西真人氏が言った。その瞬間、満面の笑みに。「ひとつのチャレンジが終わったんだな」
プールから上がると一転して大泣きだ。表彰台の真ん中で君が代を聞いて、また涙。「(目が見えない)僕が唯一、金メダルを取ったんだと認識できる時間。我慢しなくていいんだ」。周りをはばからず、今までの苦労、支えてもらった感謝、やっとたどり着いたうれしさを表現した。
金メダルに届かなかった5年前のリオデジャネイロ大会と今の泳ぎの違いを、木村自身は「ストロークのコントロールがうまくできている」と説明する。拠点の米国では25ヤードの短めのプールを使い、休憩が短い中でスピードを出す練習を積んだ。泳ぎが崩れる前に壁につくことで「体幹が安定して、キックで(軸が)動きすぎないようになった」。
この日、隣を泳いだ富田の存在も大きかった。富田が2017年にクラス変更で同じ全盲のS11に移ってきて以来、しのぎを削ってきた。「国内大会でも(パラで)金メダルを争うレベルで戦えたからこそ、きょうの決勝でもプレッシャーに潰されることなく戦い切れた」と感謝した。
「時間がかかったな。誰のメダルよりも重いと思う」。2歳で視力を失った木村が金色の輝きを知ることはない。だが「今日という日に僕より強い人がいないという事実で十分」と言い切り、そんな木村を「よくやった。応援し続けてよかった」と中学・高校の恩師でもある寺西氏が祝福する。
目指し続けた頂についに登った。「これからもっと木村敬一という人間が強く大きくなるためのスタートラインに立てたかな」。涙を拭い、笑顔で前を見据えた。
先頭争いをしながら1位で折り返し、残り25メートルで前に出て真っ先にゴール板にタッチ。「バテたなと感じたのでもしかしたらダメかも……」と覚悟はしたが、「金メダル、おめでとう」。タッピング棒で木村をたたいてゴールを知らせるタッパーの寺西真人氏が言った。その瞬間、満面の笑みに。「ひとつのチャレンジが終わったんだな」
プールから上がると一転して大泣きだ。表彰台の真ん中で君が代を聞いて、また涙。「(目が見えない)僕が唯一、金メダルを取ったんだと認識できる時間。我慢しなくていいんだ」。周りをはばからず、今までの苦労、支えてもらった感謝、やっとたどり着いたうれしさを表現した。
金メダルに届かなかった5年前のリオデジャネイロ大会と今の泳ぎの違いを、木村自身は「ストロークのコントロールがうまくできている」と説明する。拠点の米国では25ヤードの短めのプールを使い、休憩が短い中でスピードを出す練習を積んだ。泳ぎが崩れる前に壁につくことで「体幹が安定して、キックで(軸が)動きすぎないようになった」。
この日、隣を泳いだ富田の存在も大きかった。富田が2017年にクラス変更で同じ全盲のS11に移ってきて以来、しのぎを削ってきた。「国内大会でも(パラで)金メダルを争うレベルで戦えたからこそ、きょうの決勝でもプレッシャーに潰されることなく戦い切れた」と感謝した。
「時間がかかったな。誰のメダルよりも重いと思う」。2歳で視力を失った木村が金色の輝きを知ることはない。だが「今日という日に僕より強い人がいないという事実で十分」と言い切り、そんな木村を「よくやった。応援し続けてよかった」と中学・高校の恩師でもある寺西氏が祝福する。
目指し続けた頂についに登った。「これからもっと木村敬一という人間が強く大きくなるためのスタートラインに立てたかな」。涙を拭い、笑顔で前を見据えた。
<日経新聞より>
■きむら・けいいち
2歳の時に病気で視力を失い、小学4年で水泳を始めた。パラリンピックは北京大会から連続出場し、今回で通算7個目のメダルとなった。171cm、68kg。30歳。滋賀県栗東市出身。