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【滋賀・近江の先人第232回】名門京極家出身/豊臣秀吉の側室・京極竜子(松の丸殿)(長浜市)

京極 竜子(きょうごく たつこ、生年不詳 - 寛永11年9月1日(1634年10月22日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。近江小谷城で生まれる。

初めは武田元明の正室となり、寡婦となった後に豊臣秀吉の側室(松の丸殿)となった。呼称は、大坂城の西の丸に屋敷を与えられたことから西の丸殿(西丸殿)、次いで伏見城に移ったことから松の丸殿(松丸殿)、あるいは京極殿(京極様)などと呼ばれた。秀吉の死後は出家して寿芳院(じゅほういん)と号した。

出自
父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。兄(弟という説もある)に京極高次、弟に京極高知。浅井長政は叔父、浅井三姉妹(淀殿・初・江)は従妹にあたる。京極氏は浅井氏の主家筋に当たり、近江の湖北地方の本来の領主であったため、血筋の上では同じく秀吉の側室で血縁関係もある淀殿よりも、竜子の方が名門の出身といえる。


生涯
初め若狭守護・武田元明に嫁ぎ、2男1女を生む。越前朝倉義景に攻められ一時、一乗谷に連行されたが帰還後、遠敷郡神宮寺を経て、大飯郡石山において3,000石の支配を織田信長から許されたので、竜子も若狭国大飯井郡(現福井県おおい町)の石山城において夫とともに暮らしていた

しかし、元明は本能寺の変後、若狭国の全域支配を望んで明智光秀の味方に就き、丹羽長秀・羽柴秀吉の連合軍に討たれた。秀吉の領国である北近江の旧守護家・京極氏出身の竜子は捕らえられた後、秀吉の側室(松の丸殿)となった。

竜子(松の丸殿)は、小田原城や名護屋城に秀吉が伴っていったり、醍醐の花見でも3番目の輿を使ったり、京極家旧家臣の浅井家出身である従姉の淀殿と杯の順番を争ったことが知られている。京都の誓願寺に肖像画が伝わっており、年齢40歳前後と見られる法体の像であるが、それによっても、容姿の端麗さを窺うことができる。

秀吉の死後、兄(弟という説もある)・京極高次の住む大津城に身を寄せた。関ヶ原合戦では京極高次は当初西軍に付くが大津に戻って来てしまい、逆に西軍に攻められた。ねね、淀殿の仲介により和議が成立し、高次は高野山に流された。.

竜子は、関ヶ原の戦い後、寿芳院と号して出家し、京都・西洞院に居を構えた。大坂夏の陣の後は、淀殿の侍女(菊)を保護し、また六条河原で処刑された秀頼の息子・国松の遺体を引き取り、京都・誓願寺に埋葬した。

竜子は寛永11年(1634年)に京都西洞院の邸で死去した。80歳。法名は寿芳院殿月晃盛久大禅定尼。竜子は秀吉との間には子はなかったが激動を生きた。墓所は誓願寺(京都市中京区)にあったが、明治に入って現在の墓所京都東山の豊国廟に移された。

生前、京極高次は秀吉の側室竜子や浅井3姉妹の七光りで出世した「蛍大名」などと揶揄する者もいたが高次の京極家は若狭国を経て出雲に、弟の高知は京丹後で領地を得て長く存続した。陰で近江の女たちが支えたお陰でもある。

浅井3姉妹の茶々は元和元年(1615年)、小督(江)は寛永3年(1626年)、初は寛永10年(1633年)に没し、竜子が寛永11年(1634年)と浅井の女たちの中で一番長生きだった。

<Wikipedia、近江戦国の女たち引用>

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