布引丘陵沿いの小道を行くと、うっそうとした雑木林に、コンクリート製のドームの一部が見える。
全国的に珍しくほぼ原形で残る、東近江市の「掩体壕(えんたいごう)群」。
太平洋戦争末期、陸軍八日市飛行場の軍用機を空襲から守るため築造されたが、戦後は朽ちるに任せてきた。戦後76年で風化が進む中、戦跡としての保存活用は曲がり角を迎えている。
↑写真:滋賀報知新聞より
7月26日、滋賀県庁知事室。
来年度予算編成に向けた政策提案のため三日月滋賀知事を訪ねた小椋東近江市長は、「若い世代に戦争の惨禍を伝える貴重な遺構として、保存への取り組みを始めた。ぜひ、滋賀県もフォローしてほしい」と要望した。
市町が政策提案で、戦跡保存の支援を県へ求めるのは異例。
その意図を小椋東近江市長は、「掩体壕は崩壊の寸前。後世に残すべき行政の責務として、早く手をつけたい。そのためにも県と市で共に(保存の方策を)考えましょうという強い意思の表れ」と明かす。
東近江市によると、現存の掩体壕は布引丘陵山麓の東西2kmにわたり、コンクリート製や土製の大小計17基(間口25~10m)。
担当者は「丘陵地帯に『群』として現存するのは全国的に貴重で、一帯の掩体壕を残すことが当時のあり方を伝える資料となる」と話す。只、保存には相当な費用が必要で、「東近江市だけでは無理」という。
これらは戦争末期の1944年(昭和19年)頃から、本土決戦に備えて民地を強制接収して建設された。地権者は戦後、国に解体を求めたが、検証書類がないと突っぱねられ、泣き寝入りをせざるを得なかった。
東近江市による本格的な測量調査は2007~2009年度に行われ、掩体壕の正確な位置、種類を確定した。だが、所有者不明のまま保存対策はとられず、2012年にはコンクリート製の大型掩体壕2基のうち1基の天井の一部が崩落した。
保存が進まない理由は、文化財指定に必要な土地の境界確定の困難さ。登記上で地権者約100人が確認されるが、相続が複雑で境界が不明という。
更に文化財行政のあり方もある。法的には50年を経過した遺物が対象だが、従来は江戸時代以前が扱われてきた。戦跡保存が注目されるようになったのは、原爆ドームの国史跡指定(1995年)、世界遺産登録(1996年)から。だが、職員不足で手が回らないのが現状だ。
地権者への配慮も忘れてはならない。平和学習の案内や保存の働きかけに関わった郷土史家の中島伸男さんは、「地権者にとって、国が勝手につくり、戦後は責任逃れされ、近年は興味本位で勝手に立ち入る行為もあり、わだかまりを抱えてきた。
戦跡の風化で残された時間はそうなく、『戦争の生き証人』の保存を少しでも前へ進めて欲しい」と話している。
<滋賀報知新聞より>