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中日新聞 <遺構は語る 近江の戦時をたどる> (5)吉身町墓地の六地蔵(守山市)

  「地蔵さん、痛かったやろな。怖かったやろな。新しい地蔵さんに変えたらよいのやけど、この傷跡を後世に残し、戦争のむごさを伝えたいのや。ごめんね。 管理人」


↑写真:中日新聞より

 JR守山駅近くの吉身町墓地(守山市吉身6)に、そう記された看板がある。墓地の一角にたたずむ「六地蔵」は、いずれも顔や光背の一部が欠けている。終戦直前の1945年7月30日16:00頃、米軍機の機銃掃射「守山空襲」を受けた。

 吉身中町自治会が今年まとめた冊子によると、六地蔵は、明治期に政治経済、教育の各分野で活躍した岡田逸治郎(1840〜1909年)の妻が、夫の命日に寄進したとされる。「お地蔵さんこそ、守山で空襲があったことを語り続ける証人だ」と市遺族会長の山川芳志郎(よししろう)さん(81)。

 翌春に小学校入学を控えていた当時の空襲の日を振り返る。「あの日は蒸し暑かったなあ」暑さが少しやわらいだ頃、空襲警報のけたたましいサイレンが鳴り響いた。線路に近い自宅にいた山川さんは、祖母と一緒に庭の防空壕(ごう)に入ろうと外へ。
 爆音をとどろかせて草津から守山駅方面へ、民家のわらぶき屋根をかすめるほどの高さで飛ぶ米軍機が目に入った。革のヘルメットをかぶったパイロットの姿がはっきり見えた。米軍機に向かって怒鳴りつけた。「うるさい、ばかったれ」

 守山市誌には「米艦載戦闘機が来襲し、守山駅の列車を掃射し死者3名、重軽傷者27名を出し、野洲郡医師会が救護活動」とある。
守山市遺族会が昨年9月に発行した守山空襲の冊子には「確認されているだけで死者11名、負傷者22名」と書かれている。犠牲者のうち2人は、栗太農学校の生徒だった。一緒に列車に乗った小島秀治郎さんは、車両の連結部に立ち乗りした。車内は兵士で満員だった。守山駅で降りて被弾を免れた小島さんは学友の死を悔い、戦争の悲惨さを語り続け、今年1月2日、90歳で鬼籍に入った。

 六地蔵のほか、駅北東の旧山中家住宅の天井板や土壁などに、多くの弾痕が残っていた。
2013年に解体され、部材の一部が東近江市の県平和祈念館に寄贈された。厚さ7cmの土壁を貫通した弾痕は、最大で幅10cm。機銃掃射のすさまじさを物語る。

 山川さんの父良一さんは陸軍衛生兵としてフィリピン・レイテ島で戦死した。母きぬさん(故人)は農業に励み、一人息子を育てた。小学5年から高校2年まで新聞配達で家計を支えた山川さんが、戦後76年の今、こう力を込める。
 「戦争がなければ父も、母も、私も、違った人生があったはず。繰り返してはならん。戦争の愚かさ、平和の尊さを教えてくれる、残された傷痕を語り継ぐのが、私たちの役割だ」 

<中日新聞より>
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