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【滋賀・近江の先人第300回】江戸時代に名古屋で活躍した絵師・張月樵(彦根市)

 張 月樵(ちょう げっしょう、1765年(明和5年) - 1832年7月19日(天保3年6月22日))は江戸時代後期の文人画家。諱は行貞、字を元啓、通称を晋蔵と称し後に快助と改める、別に酔霞堂と号す。近江国彦根城下の生まれ。

ヒストリー
 月樵は1765年(明和5年)、彦根城下表具師総兵衛の息子として生まれた。長じて京に上り、近江醒井(現米原市)出身の絵師市川君圭に南画を習い、次いで与謝蕪村を師とする松村月渓に師事し、月樵の号を与えられた。
 蕪村死去後、師である月渓が円山応挙の門に入る(応挙入門後月渓は呉春と号を改める)と、月渓の画風は蕪村風の精神性豊かな文人風の筆法と応挙の写生を追及した筆法が融合し、平明だが感情が溢れる画風を確立した。

 月樵は応挙門下の長沢芦雪と特に親しく、応挙没後の1798年(寛政10年)頃、芦雪と共に美濃までの旅に出た。帰途、月樵は芦雪と別れ尾張名古屋に留まり、名古屋における南画中興の祖と言われる山田宮常の画風を追求した。
 名古屋菅原町(現名古屋市西区)の雲岳院に居住し、後に富士見が原(現名古屋市中区上前津)に寓居を求めた。1812年(文化9年)妻を娶り、翌年一子卯之助(後に月載、又は晋斎と号し絵師として父を継ぐ)をもうけた。

 月樵は尾張徳川家の御用絵師として御用支配の役職を賜り、名字帯刀を許され、名古屋城内の杉戸・屏風・襖に覇気がある花鳥山水画を多く描いた。藩主から将軍家献上品として「孔雀と菊図」を描いたところ、江戸南画の大成者谷文晁の目にとまり、激賞を受けると共に江戸へ来るように再三手紙にて勧められたが、名古屋を離れることはなかった。1832年7月19日((旧暦)天保3年6月22日)名古屋にて没し、長栄寺(名古屋市千種区)に葬られる。

 活躍したのが主に名古屋ということもあり、現代で言う都心的な評価は得られなかった絵師であるが、病床の正岡子規は「月樵ほどの画かきは余り類がないのであるのに、世の中の人に知られないのは極めて不幸な人である。又世の中に画を見る人が少いのにも驚く。」(『病牀六尺』)と高く評価している。

<Wikipediaより>

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