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【滋賀・近江の先人第347回】埼玉県行田市で酒造業で成功・横田庄右衛門(滋賀県日野町)

 横田庄右衛門、江戸に下った近江商人。初代横田庄右衛門は、滋賀県蒲生郡日野町出身。生年月日不明(1780〜90年代の生まれか)

 文化2(1805)年、近江商人・横田庄右衛門が良い水を求めて埼玉県の行田で酒屋を開いたのが「横田酒造」の始まりである。
 かつて滋賀県蒲生郡安部(あん)居(べ)村(現滋賀県蒲生郡日野町安部居)に本宅を構えていた「横田庄右衛門」は、江戸時代、日野屋庄右衛門の店名前(たななまえ)で営業していた後、文化2年に行田の山星鈴木忠右衛門店の別家となり、鈴木家と乗合商いをした後に独立した。

 明治5年の酒造免許高調査では、清酒元石900石で行田地域では鈴木忠右衛門家の行田本店である鈴木又右衛門に次ぐ高であった。また、大正10年には醸造高3200石、価額28万9000円であり、価額は当時の北埼玉群内醸造業者中で最上位であった。

 当時の奉公人には、滋賀県出身者が採用されていたことが奉公人請状からわかっており、安政5(1858)年、蒲生郡横山村(東近江市)の41歳になる者が7年季で雇用され、慶応2年には神崎郡下日吉村(東近江市)の24歳の者が5年季で雇用されていた。

 そして、醸造された清酒は、東京・埼玉・群馬・栃木・千葉・茨城方面一帯に需要があったとされており、現在は、成田国際空港やセントレア中部国際空港の売店でも販売され、外国人観光客の日本土産として海を渡っている。

 文化2年(1805年)横田酒造創業。他の近江商人と同じく、 江戸の商圏で一旗上げるため、 関東近郊の水の良い土地を選び、酒蔵を建てる。 酒名「日本」の由来は、創業者が、日本橋の酒問屋で修行の後、独立する際、 "初心忘るべからず"、との家訓をこめてつけられたもの。
 江戸に下った近江商人・横田庄右衛門が良い水を求めて埼玉県行田市の地に造り酒屋を開いたのが始まりである。
『日本橋』の酒銘は、横田庄右衛門が若き頃、お江戸『日本橋」の酒問屋で修行し、独立する際、「初心忘れるべからず」との思いを込めて、自らの修行の地を酒銘にしたことに由来する。
 現代では地名を商標登録することは大変困難なことであることから、極めて貴重な商標といえる。また『浮城』は、地元行田の忍(おし)城が石田三成軍の水攻めでも落ちず、この城は水に浮くのかと恐れられたという故事から名づけられた。

 良い商品を売り、消費者に喜ばれ、利益を社会に還元することを意味する近江商人の教え「売り手よし、買い手よし、世間よし」。
200余年続く伝統の酒造りには、創業者である近江商人、横田庄右衛門の「三方よし」の精神が貫かれているという。

横田酒造                                                埼玉県行田市桜町2丁目29番3号                                  https://yokota-shuzou.co.jp/

<横田酒造HPより>

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