夏原平次郎(なつはら へいじろう、1919年〈大正8年〉- 2010年〈平成22年〉、91歳没)は、彦根市出身の現代の実業家だ。私は直接見たことがないが2010年没なので生前の夏原を知る人はまだ結構いるに違いない。
夏原平次郎は、滋賀県最大のスーパーマーケットチェーン「平和堂」を一代で築きあげたことから、滋賀県出身の商人は滋賀県内では大成しない(近江商人)という定説を覆した商人と評されている。
確かにこれまでの近江商人は近江を出て大成している。
白と緑の鳩のマークの「平和堂」は今日では滋賀県のどこにでも見かける地元の最有力スーパーである。夏原は長男に「平和(ひらかず)」と名付け、2羽の鳩のシンボルマークや屋号を「平和堂」とするなど、真に平和を希求しての命名だった。
彼は1939年(昭和14年)20歳で徴兵され満州に出兵するも、終戦前の1943年(昭和18年)24歳の時、兵隊の入れ替えのため、再招集までの一時帰国の形で一時除隊した。奇しくもそのまま終戦を迎えたが、中国に残留していれば南方への転戦や抑留になっていたかもしれない。
夏原は農家の長男として戦後も農業にに従事するが、戦後の1953年(昭和28年)、彦根のマルビシ百貨店内に靴屋を譲り受け起業する(夏原商店)。
その後、1957年(昭和32年)36歳の時、「靴とカバンの店・平和堂」を創業した。また、1960年に正札販売を開始し信頼を獲得した。1963年(昭和38年)、世が高度成長期を迎え、実用品から少し高級な品揃えの「ジュニアデパート平和堂」を彦根市に作った。これが今日の平和堂グループの基本スタイルである。
その後、順次、滋賀県内で店舗を拡大し、今日では「平和堂」の店舗数は滋賀を中心に、近畿、東海、北陸に152店(滋賀75、福井6、石川6、富山2、京都19、大阪19、兵庫3、岐阜7、愛知15)、中国に4店舗、年商4,300億円(東証1部上場)の規模を誇っている。
平和堂は滋賀県、東海近畿の他、中国にも進出している。中国で日本批判の煽りを受けた時期、平和堂も大きな被害を被った。日系大手は引き揚げたところあったが、平和堂はそれでも引き揚げず、現地従業員と一緒に努力の末、再開に漕ぎ着けた出来事はTVでも取り上げられていたことがある。
夏原平次郎は、1989年に平和堂財団を設立し、今日もメセナ活動に協力的な企業で積極的に社会貢献活動をしている。夏原や平和堂の悪口を聞いたことがない。きっと近江商人の「三方よし」の精神を引き継いでいた一人だったからだろう。
彼は正に滋賀県内で大輪を咲かせた唯一の現代の近江商人だったに違いない。見事な人生だった。
【ヒストリー】
滋賀県犬上郡)河瀬村大字犬方(現在の彦根市犬方町)の、農家の長男に生まれ、父親は河瀬村の村会議員等を務めていた。
1919年〈大正8年〉生まれ。
1937年(昭和12年)18歳、犬上郡立河瀬青年学校を卒業。実家の農業に従事。
1939年(昭和14年)20歳の時徴兵、金沢の第9師団に入営し、翌年満州に出征した。
1943年(昭和18年)24歳、一時除隊となり帰国、結婚。
1944年(昭和19年)、長男平和誕生。
1953年(昭和28年)34歳、彦根で夏原商店創立。
1957年(昭和32年)36歳、「靴とカバンの店・平和堂」を創業。
1961年(昭和36年)42歳、滋賀県では初、全国でも稀な「正札販売」をスタート)
1963年(昭和38年)、「ジュニアデパート平和堂」の完成。
1966年(昭和41年)からは衣食住を取り扱う「食品スーパーマーケット」を開設。
1968年(昭和43年)、「琵琶湖ネックレスチェーン構想」のもと、滋賀県下に多店舗化を進める。
1973年(昭和48年)、福井県に県外初の敦賀店開店。
1978年京都、1987年大阪、1989年石川、1997年富山に進出。
1989年(平成元年)5月、社長職を長男夏原平和に譲り取締役会長就任。
1998年(平成10年)、湖南平和堂商貿大厦オープン(海外1号店)
1999年(平成11年)5月、会長就任。
2007年(平成19年)、湖南平和堂東塘店オープン(海外2号店)
2008年(平成20年)5月、名誉会長に就任。
2009年(平成21年)、湖南平和堂株洲店オープン(海外3号店)
2013年(平成25年)、平和堂(中国)AUX広場店オープン(海外4号店)
日本流通産業代表取締役社長(のち会長、名誉会長、1974年-1989年)、彦根市商工会議所会頭(1979年-1996年)、日本小売業協会理事(1981年-1997年)、彦根納税協会会長(1994年-1998年)などを歴任。
2010年(平成22年)6月19日、肺炎のため91歳で死去。8月5日に彦根市文化プラザで行われた合同葬には約3000人が出席し、滋賀県知事や彦根市長らが弔辞を述べたとある。
平和堂の歴史HP