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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第41回) 行き損ねたヨルダン

 1979年8月、ザンビアを出発点としてエジプトのカイロ経由でヨルダン首都のアンマンに入る予定であった。
アンマンから日本帰国便は正確に決めていなかった。アンマンからどこかのヨーロッパ経由か、或いはカイロに戻ってJALなどの帰国便を探す予定であった。手持ちのノーマルチケットはどこ経由でも余裕のチケットだったから。

 ところがヨルダンに行けなかったのである。その辺りは前回の40回に詳しく書いたが結果的にヨルダンのビザとチケットが取れなかったので行くのを断念したからである。
 当初計画ではカイロからヨルダン航空で入国すれば「ヨルダン」のアンマン空港でビザが自動的に取得できることになっていた。
 そのためカイロのヨルダン航空に出向いたが泥棒に入られ閉鎖されていた。座席予約、発券が出来ず、いつ業務再開できるか分からないと言う。
ビザがあれば別航空会社の便で入国できただろうがそれでも何日かの日数を要する。
 加えて、ザンビア起点の西アフリカツアーの全日程が当初より1週間超過していて早々に日本に帰国する必要があった。折角ヨルダンと目の先のカイロまで辿り着き、目的のための許可も事前に入手していたのでヨルダン訪問断念は残念であった。
 
 当時、ヨルダンのフセイン1世国王は「JY1」のコールサインを持つ有名なハムの一人だった。



 振り返ってみるとそもそもアフリカのザンビアでの仕事は第一希望ではなかった。第一希望は中近東の国であった。当時、当初はシリアから日本政府に協力要請を出ていたが途中で要請を取り下げたため赴任国がザンビアに変わった経緯があった。
 そんなこともあり中東のヨルダンでその雰囲気の一端に触れたかったがそれも実らなかった。以来40数年、その後も仕事で多くの海外の国々を訪れたが中近東は短期のカイロ滞在以外訪れる機会がなかった。幻のヨルダンであった。

ヨルダン


 ヨルダンは、ヨルダン川東岸に位置するアラブの国で、古代遺跡、自然保護区、海辺のリゾートで知られている。紀元前 300 年頃に狭い渓谷に繁栄したナバテア人の首都とされる「ペトラ遺跡」が有名で、古墳や神殿をはじめ、ピンク色の砂岩の岩肌を彫って造られた建造物がある。このことから、ペトラは「ローズシティー」という愛称で呼ばれている。
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