第17回富士見高原詩のフォーラム記念公演(2014年8月)の下見で、昨年5月に富士見を訪れたが、あいにく天候悪く、「美ヶ原」を断念し、急遽予定を変更し「安曇野」を訪れた。
写真は、大王わさび農場(安曇野)
自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より
「充実した秋」
深まる秋の高原に霜のおとずれはまだ無いが、
林の木々や路の草には
もう赤が染み、黄の色が流れている。
大空をしずかに移る鱗雲、
きのこの匂い、鷹の叫び、
きつつきも堅い樹幹に
堅い穴を掘りはじめた。
沢沿いの栗山に いが栗がぎっしり、
里はどこでも枝をしなわせて林檎があかい。
もっと遠い盆地へかこむ
あの南へ向いた大斜面には、
幾村々の葡萄園が
琥珀や紫水晶の累々の房で重たかろう。
乾いた音のする両手を揉みながら、
「今年はなりものの出来がよくて・・・・・・」と
目を細くして言う八十歳の老農の
その栗色の皺深い顔や、はだけた胸にも、
物を制して物の自然を全うさせる
あの「よろず物作り」の
かくしゃるたる秋の結実が笑み割れている。
【自註】
高原の多彩な秋はまた充実の秋でもある。都会に近い田舎などとは全く違って、一切が落ちついて、豊かで、堅実で生きるという事の意味や生の自覚が、至る処に実り、至る処に光彩を放っている。こんな時に野や村を歩くのは本当に楽しい。自然も人間も一体となって、自信に満ちた顔をしている。だから、「もっと遠い盆地」、隣国甲斐の葡萄の豊作にまで思いを馳せる余裕が生まれるのだ。物を規正して物の天命を全うさせる八十歳の老農の、そのかくしゃくとした笑顔こそこんな秋を代表するものではあるまいか。
================================
この「充実した秋」の詩は、自然とともに生きた先人たちの「力強さ」を感じることができる詩であり、
昨年、訪れた「安曇野」で感じた「自然と人」を振り返り、あらためて「満たされた心地よさ」を感じた次第。
北アルプスの山々には、まだ雪があり、安曇野の原風景を楽しみました。(2014年5月26日)
(写真は、大王わさび農園)
安曇野のわさび田を流れる水は、すべて、この大王わさび農場のわさび畑の中から湧き出す北アルプスの雪解け水(伏流水)だそうです。
写真は、大王わさび農場(安曇野)
自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より
「充実した秋」
深まる秋の高原に霜のおとずれはまだ無いが、
林の木々や路の草には
もう赤が染み、黄の色が流れている。
大空をしずかに移る鱗雲、
きのこの匂い、鷹の叫び、
きつつきも堅い樹幹に
堅い穴を掘りはじめた。
沢沿いの栗山に いが栗がぎっしり、
里はどこでも枝をしなわせて林檎があかい。
もっと遠い盆地へかこむ
あの南へ向いた大斜面には、
幾村々の葡萄園が
琥珀や紫水晶の累々の房で重たかろう。
乾いた音のする両手を揉みながら、
「今年はなりものの出来がよくて・・・・・・」と
目を細くして言う八十歳の老農の
その栗色の皺深い顔や、はだけた胸にも、
物を制して物の自然を全うさせる
あの「よろず物作り」の
かくしゃるたる秋の結実が笑み割れている。
【自註】
高原の多彩な秋はまた充実の秋でもある。都会に近い田舎などとは全く違って、一切が落ちついて、豊かで、堅実で生きるという事の意味や生の自覚が、至る処に実り、至る処に光彩を放っている。こんな時に野や村を歩くのは本当に楽しい。自然も人間も一体となって、自信に満ちた顔をしている。だから、「もっと遠い盆地」、隣国甲斐の葡萄の豊作にまで思いを馳せる余裕が生まれるのだ。物を規正して物の天命を全うさせる八十歳の老農の、そのかくしゃくとした笑顔こそこんな秋を代表するものではあるまいか。
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この「充実した秋」の詩は、自然とともに生きた先人たちの「力強さ」を感じることができる詩であり、
昨年、訪れた「安曇野」で感じた「自然と人」を振り返り、あらためて「満たされた心地よさ」を感じた次第。
北アルプスの山々には、まだ雪があり、安曇野の原風景を楽しみました。(2014年5月26日)
(写真は、大王わさび農園)
安曇野のわさび田を流れる水は、すべて、この大王わさび農場のわさび畑の中から湧き出す北アルプスの雪解け水(伏流水)だそうです。
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