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秋の詩 父を想う・・・「十一月」

2015-09-18 20:11:27 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
こんばんは。

還暦を過ぎた今、父(1919~2011)を想い、この詩・自註を詠むと「心が軽く」なるのです。

今日、取り上げる詩・自註を詠み、尾崎喜八の当時の心境に、大いに共感しています。


詩人:尾崎喜八の詩に、作曲家:多田武彦さんは、八つの楽曲を作曲しています。(2015年9月現在)

その七番目にあたる、男声合唱組曲『花咲ける孤独』の「十一月」を取り上げてみます。



~自註 富士見高原詩集より~

十一月

北のほう 湖から風を避けて、

ここ枯草の丘の裾べの

南の太陽が暖かい。

ぼんやりと雪の斜面を光らせて

うす青く なかば透明にかすんだ山々。

末はあかるい地平の空へ

まぎれて消える高原の

なんと豊かに 安らかに

絢爛寂びてよこたわっていることか。


もしも今わたしに父が生きていたら、

すでにほとんど白い頭を

わたしは父の肩へもたせるだろう。

老いたる父は老いた息子の手をとって、

この白髪 この刻まれた皺の故に

昔の不幸をすべて恕(ゆる)してくれるだろう。

するとわたしの心が軽くなり、

父よ 五十幾年のわたしの旅は

結局あなたへ帰る旅でしたということだろう。


しかし今 私の前では、

朽葉色をした一羽のつぐみが

湿めった地面を駆けながら餌をあさっている。

むこうでは煙のような落葉松林が

この秋の最後の金をこぼしている。

そして老と凋落とに美しい季節は

欲望もなく けばけばしい光もなく、

黄と紫と灰いろに枯れた山野に

ただうっすりと冬の霞を懸けている。



【自註 十一月】

富士見高原の自然の中に新らしい生を求めながら、しかし私はもう六十歳に近かった。

それで何かにつけて今は亡い父を思い出すことが多くなり、

その度に彼にとって必ずしも善い息子ではなかった若い頃の自分が悔やまれた。


今となってはもう間に合わないが、また事実としてそんな事の出来るわけも無いが、

せめて夢想の中ででも老父の腕に身をもたせて宥しを乞い、子供として甘えたかった。

そしてこの初冬の丘のように美しく寂び、悠々と老いて、

彼の一生あずかり知らなかった、それでも彼がほほえみうなずいてくれるような善い仕事を、

なおしばらくは許されるであろう命のうちに成しとげたいと思った。




*この秋が、皆様にとって、心豊かな秋となりますように・・・(光夫天)

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