桜燕館 -さくらつばめの気まぐれブログ-

日々の雑感と、たま~の旅日記。

桜燕日記 Jun. 2, 2019

2019-06-02 | 桜燕日記
 川崎・多摩区の登戸駅近くで大量殺傷事件が発生して以来、ひきこもり状態にある人を巡る事件が連続して発生している。
 登戸の事件の2日後、福岡・博多区で、同じくひきこもりの状態にあった男が、母親と妹に危害を加えた後、自殺。そして、そのさらに2日後の昨日、今度は東京・練馬区で、元事務次官の父親がひきこもり状態にあった息子を殺害。

 登戸で発生した事件について、テレビのコメンテータなどからは一人で死ねばいいのにという発言が飛び出し、賛否両論が湧き上がっている。また、練馬で発生した事件については、父親に同情の念を寄せる声や、非難する声など、さまざまな声が上がっている。
 一人で死ねばいいのにという発言については、私も犯人に対してそう言いたい気持ちはあるが、同時に、犯人は既に死んでいる、ということも忘れてはならない。一人で死ねばよかったのにと過去形を用いれば、犯人のみに向けて発言しているということがより明確になるが、一人で死ねばいいのにという現在形を用いれば、たとえそれが犯人に向けて発されたものであったとしても、もしかしたら自分に向けて発された言葉かも知れない、などと、無関係の第三者が邪推してしまうことは避けられない。その点、ちょっとした表現の違いではあるけれど、気を付けて欲しいと思った。

 そんな中、今日、また新たな火種となるような発言が飛び出した。
 不良品は不良品どうしでやり合ってほしい、という発言。

 発言の主によると、不良品というのはあくまで凶悪犯罪者のことを指しているのであり、ひきこもりを指しているのではない、という。
 凶悪犯罪者は、凶悪犯罪を起こして初めて凶悪犯罪者となる。凶悪犯罪を起こす前の段階で、あいつはいずれ凶悪犯罪を起こすに違いない、と決めつけることは、不当に人権を侵害する恐れもあり、危険な発想である。
 実際、練馬の事件では、登戸の事件を受け、同様の事件を起こしかねないとの虞を抱いた父親が、息子を殺している。しかし、仮に父親が息子を殺さずにいたとして、息子が本当に登戸と同様の事件を起こしていたかどうかは、当の息子が死んでしまっている以上、誰にも分からない。
 ひきこもりの息子を抱えて苦悩していた父親に対しては、多少の同情の余地はあるものの、息子を殺したという事実はやはり重い。

 それにしても‥‥。
 不良品は不良品どうしでやり合ってほしい、という、生命の選別の正当化とも取られかねない発言が、これほどまでに支持されるとは思わなかった。
 長生きしたくない理由が、またひとつ、見つかった。

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