みどりきみどり空色

草花とそれにまつわるetc.

モミジバフウ

2008-10-31 21:47:07 | Weblog
高い山々でしか見られなかった紅葉も身近な場所でみんなの目を楽しませてくれるころとなった。勤め先のモミジバフウ。今、最も注目される存在。みんなの視線を集めて、みんなの気持ちを潤いをもたらしてくれる。落ち葉を拾ってみると、緑の時は全て同じだったのに、きみどりみどりオレンジ緋色綾なす色で彩られている。どれ一つとっても同じ色はない。自然の作り出す色が目に鮮やかだ。葉脈は一番先に紅く色づいており、まるで血管が走っているようになっている。木全体が植物というより擬人化して見えてくる。実もユニークなモミジバフウさんみんなみんなあなたを見て、感嘆の声と共に、微笑んでいますよ。ありがとう。自然を感じさせてくれて。

族譜

2008-10-28 22:30:43 | Weblog
 久しぶりに観劇。梶山季之原作ジェームス三木脚本の“族譜”。昭和十年代の頃のことだ。日本が植民地化した朝鮮。そこで強制した創氏改名を通して、ある家庭を描いている。日本に協力的な土地の有力者が度重なる改名への押さえつけにも屈せず生きていこうとするが、次第に暴力的に押し寄せてくる官憲たちや兵隊たち、そしてわが子たちが通う学校でのいじめや退校命令にやむなく命を賭して名字を改名していくという話だ。
 日本では私たち、特に若い人など、ひとつのディスプレーみたいに着飾るように響きのいいかっこよさげな名をつけたりして、家のこととか先祖のことなどそれほどり考えない。しかし、朝鮮という国では一家の家宝として家系図のような族譜というものが連綿と受け継がれてきており、そこに惣領として名前を刻んでいくことは、自分の人生全てを名前として書きしるしていくくらい大変重要だという。先祖から受け継いできた命の繋がりという縦の糸とこの苦難の多い時代に私が力一杯生きてきましたという横の糸の交じったところが私の命であり名前であるという。木が一輪いちりん年輪を刻むように族譜に名を入れていくことは命がけのことらしい。木を分析すればその時代がわかるというが族譜には世の中の出来事もしるされ、はるか昔、秀吉に残虐無惨に蹂躙された朝鮮民族のことも書かれているという。それほど重い名を日本人たちは改名させたのだ。そして、主は、アリランを哀愁をこめてうたいおどり、明くる朝、改名を受入れ、族譜に名を記し、そして井戸に大きな石を抱えて身を投げた。娘と抗日青年との束の間の愛や、子供たちの踊り、歌、そして鬼のような日本人や情けをかける日本人などいろいろ織りなすドラマがユーモアもあって笑いもこぼれるときもあったが総じて、内容は重かった。青年劇場の方たちが心をこめて演じてくれたのだろう。私の心にとても響いてくれた。場内の空気はシンと時が止まったようだった。ちょっと力が抜けたような疲労感がある。
 たしか梶山季之ってよく新聞の広告に載った流行作家だったんじゃ?とうっすら記憶していたがこんな真摯なものを書いていたとは。私の命の少し前にはこのようなことが地上で繰り広げられていたのだ。ある逃れられない恐ろしく苦しい状況に陥った朝鮮人の一家を疑似体験した怖い劇だった。秋の夜長の観劇。

どんなキノコが見つかったかな?

2008-10-26 20:56:55 | Weblog
雑木林を切り開いたような公園で、きのこを探す。2時間ばかし歩き回った。最大の収穫物はウラベニ布袋シメジと一本シメジ?だ。ウラベニはクサベニと間違えやすいが、柄がしっかりしている。かさに指の跡のような模様などの特徴がある。裏側の襞が紅色に変化する。苦みがあって富山、東北ではゆでこぼし、塩漬けにして、お正月などの料理に動物性と炒め合わせたりして利用するそうだ。これがあるかないかで御馳走度がグンと違うらしい。傘よりも柄の歯触りなどを楽しみ、得難い美味らしい。キノコH先生のお話はとても面白く、耳新しいことばかりだった。たとえば、東北にはキノコ天狗が、生存しているという。食したキノコの自慢が高じて、少々危険なキノコでも食することがあるらしい。そして当然家族みんな、食中毒に陥って大変な目に遭うとする。ここで、奥さんか誰かが救急車の手配をしようとすると天狗に受話器は押さえられ、吐き下しなどで身をよじってもだえても、ひたすら脂汗流しながら耐えるらしい。キノコにあたったなどと知られれば末代子々孫々の一大恥ずべきこと。決して知られてはいけない。そして快癒した後、キノコ仲間に「あのキノコはうめえかった。」とのたまうと。命をかけた自慢話で盛り上がるのだそうだ。ちょっと考えられぬおかしさが漂う。ブナ林(コナラでも見つけたという参加者)に生えやすいツキヨタケ。今でも中毒を起こす人が多いそうだ。傘が広がる前はこんもり黒々して肉厚でそれは見るからに美味しそうらしい。毒と聞いて柄の黒い部分を切り取って食べる人や表皮をむいて食べる人もあるらしい。そのいい加減さにあきれる。ツキヨタケの発光は闇夜に電気を消し押入に入ってしばらくしてから襞がホーッと発光してくるという。その光りは白黒の新聞が読めるほどという。不思議だ。また、ヒトヨタケ、なんだかネズミ男を思い出しそうな姿格好だが、酒飲み要注意。あたるらしい。白っぽいテングタケみたいなのはとても口当たりよく美味しいのだがどっこい吐き下し、一旦回復してホットしたのも束の間、肝臓がやられて。毒キノコをさわっても大丈夫だが、カエンタケ要注意だ。ミズナラ枯れの株元などに生える。近寄らない方が安全だ。
 また、いくら食べれるとわかっても他人にはあげない方がいい。この場合も子々孫々まで事件は語り継がれていくから・・とキノコ名人はまず、春先から始まる。何も下草の無い頃からミズナラ、ブナの倒木をチェックしておく。そして、やがて、キノコシーズン到来と共にその箇所を丹念に探していくということだ。マイタケなど見つけた日にははがれやすい破片を余さずきれいに持ち帰るという。もし少しでもその破片が誰か他の人に見つかった場合、翌年、必ずそこに生えるという確かな証拠となり抜け駆けされるかもしれないからだ。キノコとりの熱い戦いが山で繰り広げられているのだ。希少なる食い物に群がる強者ぶりなどには驚きだ。他にも、ヒモヅル、タキミシダの話を少し。信頼のもてそうな同定の後、聞いた話の数々だったが、いろいろ興味深かった。

サルナシを食べる。

2008-10-26 17:04:42 | Weblog
 生まれて初めて、サルナシというものを食べた。直径2cm位のグリーンのショボイ実だ。だけど、あに、はからんや。キウイを連想させる実だ。小さなツブツブの種もそっくりだ。鳥が食べているのを見て人間もたべるようになったのだろうか。何も知らない人がこの実を見て食べられると思う人はあまりいないのでは。また、この実でおなかをふくらませようと思っても無理だ。あまりに小さいもの。小鳥なら4,5個ばかし食べれば充分だろうが。
 今、山に行けば得した気分になるだろう。紅葉に感動してもいいし、ショウジョウバカマなどが、来春の準備をするべくロゼットを広げているのを見つけられるし、キノコにもあえるかもしれない。枯れ葉踏みしめて歩くのも楽しい。何かひとつでも、秋の豊かな実りを見つけらられれば嬉しいものだ。熊などには要注意だけれど・・・・・。

紅葉となりゆく

2008-10-24 22:43:33 | Weblog
勤め先のモミジバフウの木。10mはあるだろうか。1本だけだが、堂々とした木だ。クリスマスツリーみたいな鋭角の二等辺三角形の姿形が美しい。
 その木が紅葉し始めた。頭頂の方から次第に紅く染めていく。ろうそくのともしびのように上だけが紅い。そのトキ色が少しづつ下に降りてくるのだ。下の方はまだ緑が濃い。そのコントラストを見るのが毎日楽しい。
 緑一色だったジグゾーパズルの小さなひとこまひとこまが日々、多彩な朱のグラデーションとなって変化していく。真っ赤に染め上げたころ大地へ還る準備は整い、木枯らしに乗っていさぎよく飛び立っていく。大地の広大な息吹がこの地の一本の木に現れています。
 ものさしが小さいのかもしれない。雄大な大自然の紅葉より見慣れた景色の中での気づく季節の移り変わりの方が好きだ。
 四季折々いつだって一分一秒刻一刻変化しているのに普段は気づかず、秋とか早春とかになって痛いほど季節の移り変わり、はかなさを感ずる。こんなにも自然は劇的に移り変わっていくのです。
 私の心の中もそして体も、散ったり咲き開いたり、病んだり、持て余したりと、相当めまぐるしく変化しています。七変化以上に変化しすぎて、情けなく愛想が尽きるほどですが、草木一本の変化にただ、ひたすら、心奪われ、殺風景な心に紅がさすのです。

秋は重陽・菊人形だ

2008-10-21 22:22:31 | Weblog
 今年も菊人形展に行く機会に恵まれた。やや汗ばむような日差しの中、菊の品評や菊人形に親しんだ。
 御簾作りの展示場に菊花の鉢花が並べられているが、近頃の暑さ故か、花びらがしぼみはじめているのが垣間見える。素人目には区別がつかないが、金銀の短冊に金賞、銀賞と書かれた札が下がる菊には注目が集まる。
 接ぎ木で造るのか一鉢の中の菊が三本に枝分かれしそれぞれが桃と黄と白花に分かれているのもある。人手の造作が感じられすぎて、面白味はあるが菊本来の自然な感じは損なわれている様な気がしてあまり好きではない。
 今年のテーマは紫式部や源氏物語。去年より菊人形もふえていた。薄暗い中、菊人形達がいろいろポーズをとっていた。秋の明るい日差しから暗転して、平安絵巻の世界へ。ぎっしり織られた菊の花たちが精気を放ち、非日常の幻想へいざなう。
 菊の香に酔った後は、ふらふらと、会場真ん中にしつらえてある食堂よりのいいにおいにさそわれる。いなかびた簡単しつらえの海の家のような食堂での食事が用意されている。金額は大体600円。おすすめは、ちくわ、ごぼ天、たまご、あげ、こんにゃくのおでん。丼物たのんでも、おでんはデザートだ。素直に美味しかった。ここは、イタメシもフレンチもあっち向いてホイ。殺到するじさま、ばさまたちでごったがえしている。財布出す方も、食券売る方もよく似た年だ。自販券売機じゃなく人のふれあいで物事が回るからのろのろタイプにもあたたかい。遠足の子供以外、行き交う人ほとんどお年寄りだ。菊を楽しみ、空腹を満たし、なんだか、芝生で寝ころびたくなった。こんな平和なニッポンの秋がいつまでも続いてほしい。

ジョロウグモに絡め取られるスズメバチ

2008-10-13 23:12:17 | Weblog
家のまわりを歩いていて、ふと気がついた立派なクモの巣と蜘蛛。堂々とした体躯にカラフルな模様。名にふさわしきジョウロウグモ。そしてまわりには衛星のようにたむろっているほこりのようなオス蜘蛛。蜘蛛の巣は、知らなかったが三階建てである。基礎の部分は細かな普通のイメージする同心円状にひろがる網目。そこから立体的に形作られている。そのトラップに絡め取られているのは、なんとスズメバチではないか。一刺し、一殺の恐るべきスズメバチが白い蜘蛛糸でぐるぐる巻きになっている。平和そうな田園風景の広がる秋の一日にこうした食うか食われるかの激しい命がけの戦いの繰り広げられていたとは。蜘蛛や蜂などはどれだけ生きるのか。すぐに迫り来る木枯らしを聞けば身は動きを止め、カサコソと風にもてあそばれ大地へ還っていくだろう。秋は特にいろんな生物たちの営みが、厳しく眼前に繰り広げられ、厳かな気分になる。