野ざらしの狼

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但馬牛の故郷 熱田の廃村を訪ねて

2024-08-19 16:41:00 | バイク
 但馬牛といえば有名なブランド牛であるが、もともとは但馬地方の山あいの農家で、小さな田畑を耕すために1頭から2頭飼われていた農耕牛であった。🐮
 よく働く力持ちの大人しい牛が良しとされ、その良い血統のことを蔓(つる)と呼び、優良品種が受け継がれていた。
 明治以降全国的に生産性を上げるため、外国の大きな牛と和牛とを交配させた。その結果総じて大喰らいで気性が荒く、働きの悪い牛になってしまい、在来種の良さに気づいた昭和初期には、和牛の純血種はほぼ居なくなっていたらしい。
 血眼になって探した結果、但馬の熱田集落にあつた蔓と呼ばれる牛たちが辛うじて残っていた。
 熱田集落は陸の孤島と呼ばれ、通行の便の悪さから広域的な交流が難しく、加えて小代地域の農家の牛に対する愛情で、奇跡的に純血種が残ったのである。

 そして昭和14年にこの あつた蔓からスーパー種牛の田尻号が生まれ、何と現在では全国の黒毛和牛の99.9%が田尻号の遺伝子を持つそうだ。

 神戸ビーフは但馬牛そのものだが、飛騨、宮崎、松坂、米沢などもブランド牛もこの田尻号の子孫なのだ。

 このすばらしきあつた蔓を産んだ熱田集落も、戦後の生活様式の変化とその地理的条件の厳しさから廃村となってしまった。新聞報道でその事を知り、いつか訪ねて見たいと思っていた。


 酷道482号小代峠の通行止めが8月から解除されたので、この度伝説の廃村である熱田への探索を実行した。
 路線が重複しているR9から分岐し、小代の谷へ進む。
途中の分かれ道を右に進むと、天空のバス停と呼ばれる東垣バス停留所がある。

 このバス停の標高は400m程度と思われるが、右方向に扇ノ山1,310m、左方向に鉢伏山1,221m、正面方向に氷ノ山1,510mをたたえる正に天空のバス停である。
 先に進むと道は下り、R482に合流する。ほどなくして秋岡集落が現れ、ここから大型車は離合不能となる。縦断勾配は更に急に、山腹も迫り落石防護ネットの法面が続く。

 秋岡集落から3キロほど進むと左に熱田へ通ずる橋が現れ渡る。ここからは普段の通行が無いため、道が荒れている。直ぐにつぎの橋が現れ、苔むした親柱に熱田川とある。

 ここで間違いない、熱田川に沿って先に進む。地理院地図ではこの道が482号と表示されているが、標識などは皆無で、補修もなされていないようだ。
 渓流が熱田川に合流する箇所は滝になっている。

 上がって行くと分校の表示があった。左に折り返して舗装のない細い道を進むと分校があった。その少し上にはお堂のような建物もある。

 この辺りの標高は650mぐらいと思われる。鉢伏山や高丸山の山麓でもある。
 平地の少なさからして、何故この地に根を下ろして生活を始めたのだろうか。ネットで検索して見ると800年前に尾張の熱田神宮に仕えていた人が移り住み、金銀銅の採掘をして栄えていたとあった。
 雪崩事故をきっかけに、昭和44年には全戸が町中心部の越冬住宅に、牛を引き連れ集団移転したともある。
 春になれば山の家で牛と農作業に励んだのだろうか。その後いつまで牛と暮らしていたのだろう。

 そういえば、私が幼稚園に入る頃までは親戚の家にも牛がいた。居間から降りてたたき土間を囲んで台所、五右衛門風呂、牛小屋、便所となっていた。

 万博が終わる頃には親戚の家から牛がいなくなったように思うが、時代的には熱田集落の集団移転と重なる。

 その後、経済成長からのオイルショック、バブル期とその崩壊、リーマン、コロナと時を刻んだ民家がひっそりと佇んでいる。


 無人にしては草の丈が短い。どなたかが管理されているのであろう。

 集落内の道は荒れており、ラフなアクセルワークやブレーキングは禁物である。


 熱田集落を後にし、R482に戻って小代峠に向かう途中の法面。おわかりだろうか、中央部の雪崩防止柵はグニャリと折れ曲がり、ガードケーブルもズレて落ち込んでいるままだ。
 去年の災害の仕業か、やっとの思いで8月1日の道路解放にこぎつけたのだろう。
 復旧工事が始まればまた通行止めになりそうだ。
 このように厳しい条件下での日々の道路管理に頭が下がる思いだ。

 この後若桜町を経由して帰路についた。







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