先日バガバッドギーターを読むための会に出てきました。
『バガバッド・ギーター』はインドの聖書のようなものです。
私はヨガを教えている側なので、「え?知りません…」というのは、少々まずかろう…という訳です(笑)
ところが『バガバッド…』めちゃくちゃ読みにくいのです! 実は私は旧約聖書は
結構精通しています…子供の頃子供向けに書かれた創世記とかフツーに児童書を読むのと同じ感覚で読みました…なので西洋の文学に出てくるたとえは分かりやすいです。ところが新約を大人になって読もうとすると…挫折。
『バガバット…』もその新約聖書並みに読みづらいのでした(汗)
というわけで『バガバット・ギーター』の全体像を解説してくれる会というのに出てきました。
ここに『バガバット…』を現代語訳してくれているサイトがありました。
■ 『バガバッド・ギーター』エクスプレインド
簡単に言うとですね、『バガバッド…』は物語です。が本の厚みが電話帳よりあります(汗)寓話を使って昔の人は、いかに生きるべきかを理解したからですね。
(※ちなみに私見ですが、物語は忙しい現代人には長すぎくどく感じられます…笑)
登場人物は2人。 神の化身「クリシュナ」と戦士「アルジェナ」。舞台は戦争です。(これはインドがアーリア人によって征服されて出来た国だからです。アーリア人=戦士)
(ちなみに”戦争”は、現代社会版にすると”競争社会”です。)
そして、ストーリーはアルジェナがクリシュナに説法を受ける形で進みます。
①アルジェナはもう戦争をしたくない
②クリシュナはそれでもアルジェナに戦うように指示する
③なぜならそれがアルジェナの義務(本性)であるから
④アルジェナはクリシュナの教えを聞いて迷いを克服し
⑤解脱にいたる
です。それそれに対応する教え(説法)が
①カルマ(業)の永続性
②自己認識(自覚する能力の目覚め)
③カルマから抜け出る方法
④ギィヤナ(思索)ヨガの道
⑤バクティ(愛への帰依)の道
です。
先にヨガという言葉が出てきてしまったのですが一口にヨガと言っても、流派がたくさんありすぎます。どれくらいあるかと言うこと、一例としてこのサイトが参考になります。
しかし、これは古典ヨガを含めた現代のヨガ全部です。(20年前に誰かが提唱し始めたヨガ)と(何千年も前から、一つのあり方として確立している古典ヨガの流派)が、同じレベルではありませんよね。
古典ヨガに
★古典ヨーガの流派
・ラージャヨーガ: 瞑想中心、精神統一、集中、王様のヨーガ
・ハタヨーガ: 身体&呼吸の操錬、身体生理学、ラージャヨーガへ至る素晴らしい階段となる。
・バクティヨーガ: 宗教的ヨーガ。3つの解脱により、神々へ献身的に心身をゆだねる。帰依。神々へのパッション。
・カルマヨーガ: 社会活動→解脱、 行動的・意思的、カースト(本分)の遂行
・ジュニャーナヨーガ: サーンキャ哲学により、霊魂と肉体との関係を厳密に認識する
・マントラヨーガ: マントラを唱える。真言宗とつながる。
ヨーガの思想』番場一雄より抜粋要約) 過去記事はここ。
です。さて、それぞれが『バガバッド…』の中でクリシュナの説法により、以下のように説明されています。
★バクティヨガの3段階の道
カルマヨガ …行為の道。損得や我執に囚われ、目的達成を追及する世界。
↓
ギヤナヨガ …思索の道。我執から離れ、いかに生きるべきかを探求する世界。
↓
バクティヨガ …愛の道。”生かされている”ことを知っている平穏の世界。
①カルマヨガは、カルマ(業:日本語にあるような因果応報というネガティブ意味ではありません)に奉仕するヨガです。カルマが日本では誤解されていますが、ものごとのことわり、というような意味です。何かをすれば結果として当然の帰結がある。ダムを作れば、海岸では流入する土砂が減り、海岸線の侵食がある、というような当然の帰結を自分自身が受け入れることですね。
ほとんどの人が自分に帰することを人のせいにしがちな世の中では、カルマヨガでさえも、きちんと実践するのは難しいことです(笑) 例えば、努力もしていないのに、成果を欲しがれば、それはぜんぜんカルマヨガではありませんね。
というわけで一般的に世間的には、ほぼほとんどの人がこの段階に含まれるとされます。ここには一般的にいう成功哲学というようなものも含まれます。世俗的な成功を求めて頑張ること、ですね。
例えば、卑近な例では、痩せたいために何か運動をするということは現世ご利益的ですが、これはカルマヨガです。現世ご利益だからといって悪いことはなく、痩せたければ、食事を減らすか運動を増やすかどちらかしかない事実に変わりありません。受け入れられないと低いレベルに留まり続けます。そういう段階の人も結構多くいます。例えばヨガをやってもビールを飲んで痩せないと愚痴るとか(笑)?
一方で痩せるなどの結果にこだわらずに運動をすることもできますね?その段階が次です。
②ギヤナヨガは、思索の道です。物事の”結果”ではなく、プロセスに重要性を見出した段階です。結果に囚われず、行為を行うことができます。結果を期待しない行為は、因果応報という意味でのカルマを産まないのだそうです。
だからアルジェナは戦ってもその報いを受けないわけですね。物事の悪い面ではなく、良い面を見ることを知ったり、大いなる存在に気がついたりする時点です。内的探求がより重要になってきます。
(※ギヤナヨガはジナーナヨガとかギャーナヨガとか色々表記されています、カタカナに落としにくいサンスクリット語の発音のようです)
そして次の段階では、大いなる存在がクローズアップされます。
③バクティヨガは、その気づきに基づいて、大いなる存在との個人的で親密な関係を築いた状態を目差すことだといわれています。バクティというのは、”愛”という意味です。
愛も定義が多い言葉ですが…男女間の愛とか、親子の愛だけでなく、もう少し普遍的な、生きとし生けるものをすべてを愛してくださる大いなる存在の愛、太陽の光のようなものだと考えてください。 バクティヨガはその実践、つまり、太陽のような愛の発信元と受信側の人間が一体化することを目差したものです。
※ちなみにバクティヨガでは、大いなる存在=神を一神教のような神とはみなさず、主従関係や罰し罰される関係はありません。神は怖くないのです(笑)
★バクティヨガの方法論
また、バクティヨガの”方法論”としては、①カルマヨガ、②ギャーナヨガ、③バクティヨガを同時進行的に3つをすべて行います。つまり、①現代社会においては職業における献身奉仕を捨てず、②自己研鑽し、③大いなる存在に対し謙虚である、ということになります。
大いなる存在(神)との個人的な関係を築く、ことがバクティヨガの実践です。
さらに、具体的な方法論に落とし込むと、バクティヨガの実践は、”神の名を唱えること”です。
私見ですが、これは神との同一化をどうやって体験するか?ということの帰結ではないかと思います。誰の内面にも”大いなる自己”はありますが、その大いなる自己を感じることができる人は少ないです。では、どうするか?ということで、
”神の名を唱える”ことで達成(疑似体験?)ではないかと私は思ったのですが、無論これは私の考えです。私見以上終わり。
バクティヨガの実践では、キルタンと言って歌を歌います。キルタンはサンスクリットによるチャンティング(唱歌)です。歌詞は「ハレークリシュナ、ハレーラーマ」以上終わりです(笑)シンプル。ハレーはハレルヤと同じです。
つまりベートーベン第九と同じですね。第九を歌うのは抵抗がないのですが、「ハレークリシュナ」には現在私は、なんとなく抵抗を感じています。何ででしょう(笑)? 文化的にちょっと遠いのですよね。でもキルタンを歌うのは好きなので結構大声で歌っています。
■ 宗教?哲学? インド系そのあたりの整頓
と、ここまで学んで帰ってきたのですが… 疑問が…
疑問その① バクティヨガは宗教なのか?
疑問その② バクティヨガは哲学なのか?
この現代において宗教を受け入れるのはなかなか難しいことですよね?
というのは、宗教というのは、特に日本人の概念においてはネガティブな関連付けをされているからです。
私なんか、宗教 → 偏狭・偏執 → 戦争 という図式さえ浮かんできます…。何しろ、アメリカを戦争に導いたブッシュ前大統領は保守的なクリスチャンで
知られていますし、オーム真理教はカルトでしょう…(汗)
そして哲学としても、インド哲学では、『ウパニシャッド』や『サーンキャ』は無神論だったハズです…
??? どういうことになるのでしょう…? とりあえず定義をまとめておきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★宗教とは?
→ 一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。
★哲学とは?
→ 世界の根本原理を追及する形而上学としての学問を指すようになった。
ーーーーーウィキペディアより引用
うーん、余計分からん!って感じですね・・・(汗)
というわけで、ちょっと 位置づけを整理します。
■ インド思想の歴史的流れ
★インド思想 聖典『ヴェーダ』
古代信仰 4つある
・『リグ・ヴェーダ』 原点 宇宙の成り立ち
・『サーマ・ヴェーダ』
・『ヤジャル・ヴェーダ』
・『アタルヴァ・ヴェーダ』
・”ヴェーダ”とは”知る”という意味で、「知識の書」の意味。
↓
時代が下ると「神とは何か」「宇宙はどうやって成り立っているのか」「解脱とは何か」と考える哲学が生まれる (紀元前5~6世紀)
↓
・ヴェーダから「ウパニシャッド(奥義書)」が生まれ、インド思想の原点、「梵我一如」「業」「輪廻」が説明されている。
「梵我一如」「業」「輪廻」 :これらはインドでは”体験知”とされることが特徴。
↓
一元論へ: 「汝はそれである」
↓
対抗し、二元論のサーンキャ哲学に発展。
壷と粘土の寓話:「粘土でつぼを作る。壷(結果)という要素は粘土(原因)の中にあった」この世はプラクリティ(原質、原因)とプルシャ(真我、結果)で成り立つ
踊り子の寓話:「踊り子が踊りをやめれば人は見るのをやめる」「物質が原質にかえっていくこと」= 解脱
↓
「ヨーガ学派」が解脱の「方法」を具体化した。
根本経典「ヨーガ・スートラ」
「馬にくびきをかける」= 神と一体化するために心と体を制御する
↓
八支則(瞑想、呼吸法、アサナなど)でサマディ(三昧という。また覚醒、解脱とも言われる)にいたる道
ヨガでは人格神を認める。「至高の精神」「師の師」”グルを超えた存在”
↓
その下の下位概念として各古典ヨガ流派がある。
ラージャヨガ(王のヨガ:心理中心)
バクティヨガ(神への愛中心)
カルマヨガ(行為のヨガ)
ジナーナヨガ(哲学思索中心)
マントラヨガ(マントラ中心)
ハタヨガ(肉体中心)
↓
現代の健康法としてのヨガムーブメントの中心は、ハタ・ヨガから派生したヨガが多い。基本的に、古典ヨーガから宗教性や哲学性を排除し、健康につながる部分だけを取り出して実践しているもの。
■ 日本の思想
ちなみに日本古来の思想と、これらがどう重なるかを見て行きましょう
★日本思想の特徴
自然崇拝: 自然に神を見る → 人格が神になくても成立
アニミズム: モノに霊が宿る → 汎神論
祖先信仰: 子孫を見守る → 輪廻ではない
シャーマニズム:霊と交信 → 霊媒の許容
神道:歴史上の人物を神社に祭る→ 人格神化
民間信仰: 道祖神など → 現世後利益主義
外来思想: 仏教 → 日本人向けにカスタマイズ
というわけで ヨガを初め、インドの思想の特徴は
「梵我一如」「業」「輪廻」
に凝縮されそうです。 ところが日本の思想は、輪廻ではなく、祖先という血縁に特に固執があります。さらに思想的にかなりあいまい&適当と言うか…(^^;)、あまり突き詰められていませんね。人格神がない自然崇拝がありながら、神社に菅原道真を祀り、学問の神様としてしまう…。
その辺りは 「知」を尊んだインド思想とは、大きく乖離しています。日本には論理思考による追求=哲学はそりが合わないのでしょう。
日本の思想はよく言えば「感覚的」、悪く言えば、「情緒的」です。物事を深く捉えない日本の精神文化、というのでしょうか…
■ アインシュタインの言葉
私は最近アインシュタインの語録集を読んだのですが、私の感覚を代弁していると思ったので引用しておきたいと思います。
「すべてが決められている。
始まりはもちろん、終わりも。
人間にはどうすることもできない力によって。
虫も星も運命が決められているのです。」
「ある意味では古代ギリシャ人が夢見たように
経験や感覚を越えた純粋な思考こそが 真実をつかむことができる、
というのが正しいと思います」
「戦争には勝てる。だが勝っても平和はこない」
「せいぜい草を食む牛が植物学を理解している程度にしか
科学技術を理解していないのに
科学技術の奇跡を軽率に利用する人は
自分を恥じるべきです」
「人間にとって最も美しく最も深遠な体験は神秘的なものを感じることです。
それは宗教の根底にある原則であり、芸術や化学のあらゆる真剣な努力の根底にある原則でもあります」
「神に関しては、神が存在するかどうかを人間が知ることはできないとする立場です」
「因果律によって支配されている宇宙の営みを徹底的に確信している人間は
事の成り行きに介入する何者かが存在するという考えを一瞬たりとも念頭に置くことはできません…
人間の行為は、内的にも外的にも必然によって決められています。
したがって、無生物が何かに動かされても、その動きに責任がないのと同様に
神の目から見れば人間は責任を持つことができないのです」
「私は信心深い無宗教者です」
■ 日本的フィーリング主義を直感に
天才であるアインシュタインでさえも、思考に寄らない直感による叡智を認めています。
日本的なフィーリングによる判断ではなく、直感による知ですね。
人間にはどうすることも出来ない力=大いなる存在、と私は考えています。
今のところ、それを神と命名することは多少、誤解の余地があるようです。
というのは、神とは既に手垢がついて非常に多種多様の使われ方をした、基本的には一神教、殺戮を許してきた宗教の歴史的な意味が含まれてしまっているからです。
といはいえ、新しい名前を与えることは、さらに混乱します。バクティヨガでは神をクリシュナと呼びますが、この場合の神は、人類の父という意味でも、怒れる神という意味でもなく、大いなる存在、と同じ意味です。が、だったらクリシュナという名でなくてもいいのではないか?と思ったりしました。
その辺は、神が自称している名前を使うのが良いそうですが、神が自らをなんと自称しているか?は、グルによって瞑想された結果なのだそうです…しかし、グルが正しく瞑想したということはどうやって知ることができるでしょう?いやできませんね? いや疑うわけではありませんが…
というわけで神の名、呼称については一時保留という態度がとりあえずベストなようです。
まぁ神は心が広いですから、なんと呼ばれるかは大して気にしていないでしょう(笑)
『バガバッド・ギーター』はインドの聖書のようなものです。
私はヨガを教えている側なので、「え?知りません…」というのは、少々まずかろう…という訳です(笑)
ところが『バガバッド…』めちゃくちゃ読みにくいのです! 実は私は旧約聖書は
結構精通しています…子供の頃子供向けに書かれた創世記とかフツーに児童書を読むのと同じ感覚で読みました…なので西洋の文学に出てくるたとえは分かりやすいです。ところが新約を大人になって読もうとすると…挫折。
『バガバット…』もその新約聖書並みに読みづらいのでした(汗)
というわけで『バガバット・ギーター』の全体像を解説してくれる会というのに出てきました。
ここに『バガバット…』を現代語訳してくれているサイトがありました。
■ 『バガバッド・ギーター』エクスプレインド
簡単に言うとですね、『バガバッド…』は物語です。が本の厚みが電話帳よりあります(汗)寓話を使って昔の人は、いかに生きるべきかを理解したからですね。
(※ちなみに私見ですが、物語は忙しい現代人には長すぎくどく感じられます…笑)
登場人物は2人。 神の化身「クリシュナ」と戦士「アルジェナ」。舞台は戦争です。(これはインドがアーリア人によって征服されて出来た国だからです。アーリア人=戦士)
(ちなみに”戦争”は、現代社会版にすると”競争社会”です。)
そして、ストーリーはアルジェナがクリシュナに説法を受ける形で進みます。
①アルジェナはもう戦争をしたくない
②クリシュナはそれでもアルジェナに戦うように指示する
③なぜならそれがアルジェナの義務(本性)であるから
④アルジェナはクリシュナの教えを聞いて迷いを克服し
⑤解脱にいたる
です。それそれに対応する教え(説法)が
①カルマ(業)の永続性
②自己認識(自覚する能力の目覚め)
③カルマから抜け出る方法
④ギィヤナ(思索)ヨガの道
⑤バクティ(愛への帰依)の道
です。
先にヨガという言葉が出てきてしまったのですが一口にヨガと言っても、流派がたくさんありすぎます。どれくらいあるかと言うこと、一例としてこのサイトが参考になります。
しかし、これは古典ヨガを含めた現代のヨガ全部です。(20年前に誰かが提唱し始めたヨガ)と(何千年も前から、一つのあり方として確立している古典ヨガの流派)が、同じレベルではありませんよね。
古典ヨガに
★古典ヨーガの流派
・ラージャヨーガ: 瞑想中心、精神統一、集中、王様のヨーガ
・ハタヨーガ: 身体&呼吸の操錬、身体生理学、ラージャヨーガへ至る素晴らしい階段となる。
・バクティヨーガ: 宗教的ヨーガ。3つの解脱により、神々へ献身的に心身をゆだねる。帰依。神々へのパッション。
・カルマヨーガ: 社会活動→解脱、 行動的・意思的、カースト(本分)の遂行
・ジュニャーナヨーガ: サーンキャ哲学により、霊魂と肉体との関係を厳密に認識する
・マントラヨーガ: マントラを唱える。真言宗とつながる。
ヨーガの思想』番場一雄より抜粋要約) 過去記事はここ。
です。さて、それぞれが『バガバッド…』の中でクリシュナの説法により、以下のように説明されています。
★バクティヨガの3段階の道
カルマヨガ …行為の道。損得や我執に囚われ、目的達成を追及する世界。
↓
ギヤナヨガ …思索の道。我執から離れ、いかに生きるべきかを探求する世界。
↓
バクティヨガ …愛の道。”生かされている”ことを知っている平穏の世界。
①カルマヨガは、カルマ(業:日本語にあるような因果応報というネガティブ意味ではありません)に奉仕するヨガです。カルマが日本では誤解されていますが、ものごとのことわり、というような意味です。何かをすれば結果として当然の帰結がある。ダムを作れば、海岸では流入する土砂が減り、海岸線の侵食がある、というような当然の帰結を自分自身が受け入れることですね。
ほとんどの人が自分に帰することを人のせいにしがちな世の中では、カルマヨガでさえも、きちんと実践するのは難しいことです(笑) 例えば、努力もしていないのに、成果を欲しがれば、それはぜんぜんカルマヨガではありませんね。
というわけで一般的に世間的には、ほぼほとんどの人がこの段階に含まれるとされます。ここには一般的にいう成功哲学というようなものも含まれます。世俗的な成功を求めて頑張ること、ですね。
例えば、卑近な例では、痩せたいために何か運動をするということは現世ご利益的ですが、これはカルマヨガです。現世ご利益だからといって悪いことはなく、痩せたければ、食事を減らすか運動を増やすかどちらかしかない事実に変わりありません。受け入れられないと低いレベルに留まり続けます。そういう段階の人も結構多くいます。例えばヨガをやってもビールを飲んで痩せないと愚痴るとか(笑)?
一方で痩せるなどの結果にこだわらずに運動をすることもできますね?その段階が次です。
②ギヤナヨガは、思索の道です。物事の”結果”ではなく、プロセスに重要性を見出した段階です。結果に囚われず、行為を行うことができます。結果を期待しない行為は、因果応報という意味でのカルマを産まないのだそうです。
だからアルジェナは戦ってもその報いを受けないわけですね。物事の悪い面ではなく、良い面を見ることを知ったり、大いなる存在に気がついたりする時点です。内的探求がより重要になってきます。
(※ギヤナヨガはジナーナヨガとかギャーナヨガとか色々表記されています、カタカナに落としにくいサンスクリット語の発音のようです)
そして次の段階では、大いなる存在がクローズアップされます。
③バクティヨガは、その気づきに基づいて、大いなる存在との個人的で親密な関係を築いた状態を目差すことだといわれています。バクティというのは、”愛”という意味です。
愛も定義が多い言葉ですが…男女間の愛とか、親子の愛だけでなく、もう少し普遍的な、生きとし生けるものをすべてを愛してくださる大いなる存在の愛、太陽の光のようなものだと考えてください。 バクティヨガはその実践、つまり、太陽のような愛の発信元と受信側の人間が一体化することを目差したものです。
※ちなみにバクティヨガでは、大いなる存在=神を一神教のような神とはみなさず、主従関係や罰し罰される関係はありません。神は怖くないのです(笑)
★バクティヨガの方法論
また、バクティヨガの”方法論”としては、①カルマヨガ、②ギャーナヨガ、③バクティヨガを同時進行的に3つをすべて行います。つまり、①現代社会においては職業における献身奉仕を捨てず、②自己研鑽し、③大いなる存在に対し謙虚である、ということになります。
大いなる存在(神)との個人的な関係を築く、ことがバクティヨガの実践です。
さらに、具体的な方法論に落とし込むと、バクティヨガの実践は、”神の名を唱えること”です。
私見ですが、これは神との同一化をどうやって体験するか?ということの帰結ではないかと思います。誰の内面にも”大いなる自己”はありますが、その大いなる自己を感じることができる人は少ないです。では、どうするか?ということで、
”神の名を唱える”ことで達成(疑似体験?)ではないかと私は思ったのですが、無論これは私の考えです。私見以上終わり。
バクティヨガの実践では、キルタンと言って歌を歌います。キルタンはサンスクリットによるチャンティング(唱歌)です。歌詞は「ハレークリシュナ、ハレーラーマ」以上終わりです(笑)シンプル。ハレーはハレルヤと同じです。
つまりベートーベン第九と同じですね。第九を歌うのは抵抗がないのですが、「ハレークリシュナ」には現在私は、なんとなく抵抗を感じています。何ででしょう(笑)? 文化的にちょっと遠いのですよね。でもキルタンを歌うのは好きなので結構大声で歌っています。
■ 宗教?哲学? インド系そのあたりの整頓
と、ここまで学んで帰ってきたのですが… 疑問が…
疑問その① バクティヨガは宗教なのか?
疑問その② バクティヨガは哲学なのか?
この現代において宗教を受け入れるのはなかなか難しいことですよね?
というのは、宗教というのは、特に日本人の概念においてはネガティブな関連付けをされているからです。
私なんか、宗教 → 偏狭・偏執 → 戦争 という図式さえ浮かんできます…。何しろ、アメリカを戦争に導いたブッシュ前大統領は保守的なクリスチャンで
知られていますし、オーム真理教はカルトでしょう…(汗)
そして哲学としても、インド哲学では、『ウパニシャッド』や『サーンキャ』は無神論だったハズです…
??? どういうことになるのでしょう…? とりあえず定義をまとめておきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★宗教とは?
→ 一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。
★哲学とは?
→ 世界の根本原理を追及する形而上学としての学問を指すようになった。
ーーーーーウィキペディアより引用
うーん、余計分からん!って感じですね・・・(汗)
というわけで、ちょっと 位置づけを整理します。
■ インド思想の歴史的流れ
★インド思想 聖典『ヴェーダ』
古代信仰 4つある
・『リグ・ヴェーダ』 原点 宇宙の成り立ち
・『サーマ・ヴェーダ』
・『ヤジャル・ヴェーダ』
・『アタルヴァ・ヴェーダ』
・”ヴェーダ”とは”知る”という意味で、「知識の書」の意味。
↓
時代が下ると「神とは何か」「宇宙はどうやって成り立っているのか」「解脱とは何か」と考える哲学が生まれる (紀元前5~6世紀)
↓
・ヴェーダから「ウパニシャッド(奥義書)」が生まれ、インド思想の原点、「梵我一如」「業」「輪廻」が説明されている。
「梵我一如」「業」「輪廻」 :これらはインドでは”体験知”とされることが特徴。
↓
一元論へ: 「汝はそれである」
↓
対抗し、二元論のサーンキャ哲学に発展。
壷と粘土の寓話:「粘土でつぼを作る。壷(結果)という要素は粘土(原因)の中にあった」この世はプラクリティ(原質、原因)とプルシャ(真我、結果)で成り立つ
踊り子の寓話:「踊り子が踊りをやめれば人は見るのをやめる」「物質が原質にかえっていくこと」= 解脱
↓
「ヨーガ学派」が解脱の「方法」を具体化した。
根本経典「ヨーガ・スートラ」
「馬にくびきをかける」= 神と一体化するために心と体を制御する
↓
八支則(瞑想、呼吸法、アサナなど)でサマディ(三昧という。また覚醒、解脱とも言われる)にいたる道
ヨガでは人格神を認める。「至高の精神」「師の師」”グルを超えた存在”
↓
その下の下位概念として各古典ヨガ流派がある。
ラージャヨガ(王のヨガ:心理中心)
バクティヨガ(神への愛中心)
カルマヨガ(行為のヨガ)
ジナーナヨガ(哲学思索中心)
マントラヨガ(マントラ中心)
ハタヨガ(肉体中心)
↓
現代の健康法としてのヨガムーブメントの中心は、ハタ・ヨガから派生したヨガが多い。基本的に、古典ヨーガから宗教性や哲学性を排除し、健康につながる部分だけを取り出して実践しているもの。
■ 日本の思想
ちなみに日本古来の思想と、これらがどう重なるかを見て行きましょう
★日本思想の特徴
自然崇拝: 自然に神を見る → 人格が神になくても成立
アニミズム: モノに霊が宿る → 汎神論
祖先信仰: 子孫を見守る → 輪廻ではない
シャーマニズム:霊と交信 → 霊媒の許容
神道:歴史上の人物を神社に祭る→ 人格神化
民間信仰: 道祖神など → 現世後利益主義
外来思想: 仏教 → 日本人向けにカスタマイズ
というわけで ヨガを初め、インドの思想の特徴は
「梵我一如」「業」「輪廻」
に凝縮されそうです。 ところが日本の思想は、輪廻ではなく、祖先という血縁に特に固執があります。さらに思想的にかなりあいまい&適当と言うか…(^^;)、あまり突き詰められていませんね。人格神がない自然崇拝がありながら、神社に菅原道真を祀り、学問の神様としてしまう…。
その辺りは 「知」を尊んだインド思想とは、大きく乖離しています。日本には論理思考による追求=哲学はそりが合わないのでしょう。
日本の思想はよく言えば「感覚的」、悪く言えば、「情緒的」です。物事を深く捉えない日本の精神文化、というのでしょうか…
■ アインシュタインの言葉
私は最近アインシュタインの語録集を読んだのですが、私の感覚を代弁していると思ったので引用しておきたいと思います。
「すべてが決められている。
始まりはもちろん、終わりも。
人間にはどうすることもできない力によって。
虫も星も運命が決められているのです。」
「ある意味では古代ギリシャ人が夢見たように
経験や感覚を越えた純粋な思考こそが 真実をつかむことができる、
というのが正しいと思います」
「戦争には勝てる。だが勝っても平和はこない」
「せいぜい草を食む牛が植物学を理解している程度にしか
科学技術を理解していないのに
科学技術の奇跡を軽率に利用する人は
自分を恥じるべきです」
「人間にとって最も美しく最も深遠な体験は神秘的なものを感じることです。
それは宗教の根底にある原則であり、芸術や化学のあらゆる真剣な努力の根底にある原則でもあります」
「神に関しては、神が存在するかどうかを人間が知ることはできないとする立場です」
「因果律によって支配されている宇宙の営みを徹底的に確信している人間は
事の成り行きに介入する何者かが存在するという考えを一瞬たりとも念頭に置くことはできません…
人間の行為は、内的にも外的にも必然によって決められています。
したがって、無生物が何かに動かされても、その動きに責任がないのと同様に
神の目から見れば人間は責任を持つことができないのです」
「私は信心深い無宗教者です」
■ 日本的フィーリング主義を直感に
天才であるアインシュタインでさえも、思考に寄らない直感による叡智を認めています。
日本的なフィーリングによる判断ではなく、直感による知ですね。
人間にはどうすることも出来ない力=大いなる存在、と私は考えています。
今のところ、それを神と命名することは多少、誤解の余地があるようです。
というのは、神とは既に手垢がついて非常に多種多様の使われ方をした、基本的には一神教、殺戮を許してきた宗教の歴史的な意味が含まれてしまっているからです。
といはいえ、新しい名前を与えることは、さらに混乱します。バクティヨガでは神をクリシュナと呼びますが、この場合の神は、人類の父という意味でも、怒れる神という意味でもなく、大いなる存在、と同じ意味です。が、だったらクリシュナという名でなくてもいいのではないか?と思ったりしました。
その辺は、神が自称している名前を使うのが良いそうですが、神が自らをなんと自称しているか?は、グルによって瞑想された結果なのだそうです…しかし、グルが正しく瞑想したということはどうやって知ることができるでしょう?いやできませんね? いや疑うわけではありませんが…
というわけで神の名、呼称については一時保留という態度がとりあえずベストなようです。
まぁ神は心が広いですから、なんと呼ばれるかは大して気にしていないでしょう(笑)