前にちょっと触れた、ばあやの話。
ばあやは、我が家では絶対に台所には入らなかった。
あたしが誘っても、笑って、黙って首を横に振るだけだった。
あたしは単純に「ばあやは料理が出来ないんだなー。」と思っていた。
台所に続く作業所、ここは親戚が集まるとき(法事とか結婚式とか)の料理を作ったり
何かの行事のとき(餅つきとか)や、うどんや蕎麦を作るときの「のし板」を広げるとか
そういう作業をする場所だったが、吹き抜けの二階への階段があったり、長い水屋(食器棚)
がしつらえてあって、その水屋の板戸をこっそり開けたら、猫足膳がたっっくさん重ねて
おいてあったり丼など重いものがずらっとあったりしたっけ。
何かの行事がある度に、たくさんの手伝いの女の人が集まって、騒がしかった。
そこは板張りで広くて薄暗かった。
四方にたくさんの部屋があったため、そこだけは窓は一個も無かった。
板張り、といっても、今のお洒落なフローリングとかでは無い。
一枚ずつの幅が四尺、長さは5~6間ほどなのか。色は真っ黒、いつも固く絞ったぞうきんで
力を入れて磨いていた。
そこを、ばあやはものすごい速さで、ぎっしゅ、ぎっしゅ、と逆さまになって磨いていたっけ。
ばあやは、他の家族の個人の部屋や二階の部分には立ち入らなかった。
水屋のある作業所と縁側、自分の部屋、離れのトイレ、そこだけを掃除していた。
母が退院してきてからは、ばあやは、あたしの世話をいっさいしなくなった。
というか、かまってくれなくなった。掃除婦に職替えしたみたいだった。
あたしも手伝ったけど、あたしの場合はマンガの小僧さんみたいに、両手でぞうきんを押さえて
端から端まで走る、あれ。でも、すいすいとはいかないよ。途中で突っかかって転ぶの。
まぁ、だんだんに上手にはなったけれど。
我が家の誰よりも、ばあやの仕事ぶりは手早かった。
薄暗いうちから掃除し、柱を磨きあげ、最後に自分にあてがわれた庭に向かう縁側続きの部屋を
綺麗に掃き清め終わると、部屋の片隅に置いてある小さめの長火鉢の前にきちっと座って
おもむろにキセルを取り出し、ぷっか~~~~っと、青白い煙をくゆらせていた。
白い指先でたばこを上手に丸め、キセルに押し込んで、顔をちょっと斜めにして炭火で火を点ける。
そんな仕草の一通りの流れがなんだかとても「美しくて」、幼心にドキドキした。
ばあやの肌は、雪国生まれだからだと笑っていたことがあるが、透き通る白さだった。
肌が白くて薄くて、思わずほっぺたに触ったら、すごく柔らかくて気持ちよかった。
あたしがにっこりすると、ばあやもにこっと笑った。
ばあやは、とても口数の少ない人だった。
まるで「最低限必要なこと以外に口を開けたら損がある」とでも思っているみたいだった。
あたしの方から寄っていくと、ちゃんと相手してくれたけれど、ばあやの方から誘ったり
何かを話しかけてきた、という記憶は、そういえば一度も無い。
ものすごく地味な着物を「きっちり」着ていて、着崩すようなことは無かった。
当時は気付かなかったが、彼女は自分の家に居るという感覚では無かったのだろう。
あたしが小学校中学年の頃だったと思う。
近くに食堂を開いたので、ばあやは早朝そこに通っていき、夜遅くに帰ってくる暮らしになった。
大きいじいちゃまが手筈してくれたのだ、と、みんながひそひそ言っていたのだが。
あたしは内心、とっても案じていた。
ばあやは、料理が出来ないんだよ?それなのに、食堂なんて、何を考えてるの?
学校の帰り、こっそり遠回りして店を覗いた。
狭い店は、とても繁盛していた。
ばあやは、笑顔で冗談を言い、客達がどっと笑ったりしていた。
安心したと同時に、なんだか淋しかった。
ばあやは、台所に入らなかったのだが、それは我が家の人々に遠慮していたのだった。
彼女はとても料理上手で、仕事も速く、清潔好きできっちりしていた。
愛想も良くて度胸もあり、客の大柄な男どもにも言い負けなかった。
我が家での無表情は「ふり」だっただけなのだ。
何日も通(かよ)ってのぞき見しているうちに、ばあやに見つかってしまった。
なんだか、とっても気まずかった。
たまたま客は居なかったので、ばあやは小さくなっているあたしにラーメンを作ってくれた。
めっちゃくちゃ、美味しかった。
横で、あたしが麺を口に運ぶのを見守っていたばあやは、あたしが美味し!と言うと
ふにゃ~、っと表情をゆるめて、「そうかい?」とだけ、言った。
食べた後、次のお客さんが入ってくるまで、あたしは学校であったこととか、いろんな話を
して過ごした。ばあやは、にこにこして聞いているだけだった。
かなりの上機嫌で帰宅したあたしを待っていたのは、玄関先で仁王立ちの母だった。
母は、「どこに行ってたの?」と尋ね、あたしが、くだんの店に、と応えると
問答無用、というように、いきなりあたしの横っ面をはり倒した。
小柄だったあたしは、学生時代バスケでならした母の平手で、壁まで吹っ飛んだ。
どうやら、あたしが「そこ」に居る、というご注進(告げ口)があったのらしい。
二度と、あそこには行くな。行ってはならない。
母は、それしか言わなかった。
あたしは、一緒に住んでいる家族なのに、どうして行ってはならないのだろうか、と
どうしても納得がいかなかったのだが、母の剣幕に押されて、黙って自室に引っ込んだ。
悔しかった。初めてぶたれたことも悔しかったが、何も言えなかったのが納得いかなかった。
何も言ってない、何も聞いてくれなかった、そういう想いが渦を巻いて、いつまでもいつまでも
机に向かって、目を中空にとどめたまま、過ごした。
今にして思えば、母に対する、あれが初めての反感だったのだろう。
今なら、何故ばあやが台所に入らなかったのか、何故母が怒ったのか、少し分かる。
我が家には当時、舅姑小姑その他もろもろ、たくさんの人間が同居していたのだが。
二人居た、まったく我が家とは血縁の無い「居候」でさえ、もっと待遇が良かった。
「ばあやは家族だ」と思っていたのは、うちの中ではあたしだけ、だったのだ。
もちろん、家族旅行とかで温泉に行くときには、ばあやも一緒だった。
でも、ばあやは、楽しそうでもなく、相変わらず「つっけんどん」な様子だった。
これは「ふり」なのだ、と、あたしは知ってしまっていた。
幼かった数ヶ月を同じ布団で眠り、ぐずれば面倒をみてくれたばあやが家族でないなんて、
あたしには、頭で理解はできても、感情では納得ができない。
たまに思い出すと、あのときの痛みが頬によみがえる気がして、あたしはほっぺたに手を当てる。
めんどうなことって、世の中には、ある。
ばあやは、我が家では絶対に台所には入らなかった。
あたしが誘っても、笑って、黙って首を横に振るだけだった。
あたしは単純に「ばあやは料理が出来ないんだなー。」と思っていた。
台所に続く作業所、ここは親戚が集まるとき(法事とか結婚式とか)の料理を作ったり
何かの行事のとき(餅つきとか)や、うどんや蕎麦を作るときの「のし板」を広げるとか
そういう作業をする場所だったが、吹き抜けの二階への階段があったり、長い水屋(食器棚)
がしつらえてあって、その水屋の板戸をこっそり開けたら、猫足膳がたっっくさん重ねて
おいてあったり丼など重いものがずらっとあったりしたっけ。
何かの行事がある度に、たくさんの手伝いの女の人が集まって、騒がしかった。
そこは板張りで広くて薄暗かった。
四方にたくさんの部屋があったため、そこだけは窓は一個も無かった。
板張り、といっても、今のお洒落なフローリングとかでは無い。
一枚ずつの幅が四尺、長さは5~6間ほどなのか。色は真っ黒、いつも固く絞ったぞうきんで
力を入れて磨いていた。
そこを、ばあやはものすごい速さで、ぎっしゅ、ぎっしゅ、と逆さまになって磨いていたっけ。
ばあやは、他の家族の個人の部屋や二階の部分には立ち入らなかった。
水屋のある作業所と縁側、自分の部屋、離れのトイレ、そこだけを掃除していた。
母が退院してきてからは、ばあやは、あたしの世話をいっさいしなくなった。
というか、かまってくれなくなった。掃除婦に職替えしたみたいだった。
あたしも手伝ったけど、あたしの場合はマンガの小僧さんみたいに、両手でぞうきんを押さえて
端から端まで走る、あれ。でも、すいすいとはいかないよ。途中で突っかかって転ぶの。
まぁ、だんだんに上手にはなったけれど。
我が家の誰よりも、ばあやの仕事ぶりは手早かった。
薄暗いうちから掃除し、柱を磨きあげ、最後に自分にあてがわれた庭に向かう縁側続きの部屋を
綺麗に掃き清め終わると、部屋の片隅に置いてある小さめの長火鉢の前にきちっと座って
おもむろにキセルを取り出し、ぷっか~~~~っと、青白い煙をくゆらせていた。
白い指先でたばこを上手に丸め、キセルに押し込んで、顔をちょっと斜めにして炭火で火を点ける。
そんな仕草の一通りの流れがなんだかとても「美しくて」、幼心にドキドキした。
ばあやの肌は、雪国生まれだからだと笑っていたことがあるが、透き通る白さだった。
肌が白くて薄くて、思わずほっぺたに触ったら、すごく柔らかくて気持ちよかった。
あたしがにっこりすると、ばあやもにこっと笑った。
ばあやは、とても口数の少ない人だった。
まるで「最低限必要なこと以外に口を開けたら損がある」とでも思っているみたいだった。
あたしの方から寄っていくと、ちゃんと相手してくれたけれど、ばあやの方から誘ったり
何かを話しかけてきた、という記憶は、そういえば一度も無い。
ものすごく地味な着物を「きっちり」着ていて、着崩すようなことは無かった。
当時は気付かなかったが、彼女は自分の家に居るという感覚では無かったのだろう。
あたしが小学校中学年の頃だったと思う。
近くに食堂を開いたので、ばあやは早朝そこに通っていき、夜遅くに帰ってくる暮らしになった。
大きいじいちゃまが手筈してくれたのだ、と、みんながひそひそ言っていたのだが。
あたしは内心、とっても案じていた。
ばあやは、料理が出来ないんだよ?それなのに、食堂なんて、何を考えてるの?
学校の帰り、こっそり遠回りして店を覗いた。
狭い店は、とても繁盛していた。
ばあやは、笑顔で冗談を言い、客達がどっと笑ったりしていた。
安心したと同時に、なんだか淋しかった。
ばあやは、台所に入らなかったのだが、それは我が家の人々に遠慮していたのだった。
彼女はとても料理上手で、仕事も速く、清潔好きできっちりしていた。
愛想も良くて度胸もあり、客の大柄な男どもにも言い負けなかった。
我が家での無表情は「ふり」だっただけなのだ。
何日も通(かよ)ってのぞき見しているうちに、ばあやに見つかってしまった。
なんだか、とっても気まずかった。
たまたま客は居なかったので、ばあやは小さくなっているあたしにラーメンを作ってくれた。
めっちゃくちゃ、美味しかった。
横で、あたしが麺を口に運ぶのを見守っていたばあやは、あたしが美味し!と言うと
ふにゃ~、っと表情をゆるめて、「そうかい?」とだけ、言った。
食べた後、次のお客さんが入ってくるまで、あたしは学校であったこととか、いろんな話を
して過ごした。ばあやは、にこにこして聞いているだけだった。
かなりの上機嫌で帰宅したあたしを待っていたのは、玄関先で仁王立ちの母だった。
母は、「どこに行ってたの?」と尋ね、あたしが、くだんの店に、と応えると
問答無用、というように、いきなりあたしの横っ面をはり倒した。
小柄だったあたしは、学生時代バスケでならした母の平手で、壁まで吹っ飛んだ。
どうやら、あたしが「そこ」に居る、というご注進(告げ口)があったのらしい。
二度と、あそこには行くな。行ってはならない。
母は、それしか言わなかった。
あたしは、一緒に住んでいる家族なのに、どうして行ってはならないのだろうか、と
どうしても納得がいかなかったのだが、母の剣幕に押されて、黙って自室に引っ込んだ。
悔しかった。初めてぶたれたことも悔しかったが、何も言えなかったのが納得いかなかった。
何も言ってない、何も聞いてくれなかった、そういう想いが渦を巻いて、いつまでもいつまでも
机に向かって、目を中空にとどめたまま、過ごした。
今にして思えば、母に対する、あれが初めての反感だったのだろう。
今なら、何故ばあやが台所に入らなかったのか、何故母が怒ったのか、少し分かる。
我が家には当時、舅姑小姑その他もろもろ、たくさんの人間が同居していたのだが。
二人居た、まったく我が家とは血縁の無い「居候」でさえ、もっと待遇が良かった。
「ばあやは家族だ」と思っていたのは、うちの中ではあたしだけ、だったのだ。
もちろん、家族旅行とかで温泉に行くときには、ばあやも一緒だった。
でも、ばあやは、楽しそうでもなく、相変わらず「つっけんどん」な様子だった。
これは「ふり」なのだ、と、あたしは知ってしまっていた。
幼かった数ヶ月を同じ布団で眠り、ぐずれば面倒をみてくれたばあやが家族でないなんて、
あたしには、頭で理解はできても、感情では納得ができない。
たまに思い出すと、あのときの痛みが頬によみがえる気がして、あたしはほっぺたに手を当てる。
めんどうなことって、世の中には、ある。
いるなぁ(^^;
自分の趣味だけに留めててくださればよいのに、
他人にもその趣味を押しつけがち。
一切の「汚れ」を厭う性質を思えば理由はわからんでもないが、
水清くして魚住まず。
そういうタイプさんに「猥談やゲーム話はするな」と、
他の友達と喋ってるところへ首つっこまれて苦情を言われる、
辟易する事件があったばかりのワタシ。
その人のことは嫌いじゃないけど、トラブルは苦手なので、
めんどくさいので逃げてきた。
ははは(^^;
いろんな人がいるよね。
人が大勢で住んでれば、人の数だけトラブルもある。
ひとつ屋根の下だからこそ、小さな汚れが許せなくなる。
せめて家屋がちがえば逃げ場もあっただろうに、
閉ざされた雪国の大屋敷の集う大人たちには、
さぞたくさんの小さな無数のドラマが隠れていたんだろうなぁ。
ほめ言葉の意味で。
文学的だと思います。
母は、休日にあたしを連れてその店に出向きましたっす。
ラーメンを注文し、食べ終えて、きちんと代金を支払って
普通に挨拶して戻ってきたですよ。
あのときのラーメン、味もなんも覚えてないんですよ。
なんか、はらはらし通しだった記憶しか無いです。(;´▽`lllA``)
あたしは、子供心に、あたしが仏頂面していると、ばあやに迷惑がかかるんだな、って
そう思ったことは記憶しているよ。
ばあやは、一生独身で過ごしたですよ。
いつだったか、身寄りが無くて、行く場所も無いんだ、って聞いた。
大きいじいちゃまは、窮鳥懐に入らずんば猟師もこれを射ず、だって言ってた。
大きいじいちゃま、って、本当に知り合いが多彩だった。
上下含めて、とんでもない方々とまで、知り合いだったですよ。
しかも、「半端ない」つきあい。
名前を出したら「あぁ。」って言いそう。
人間に上下は無いと思うけど、まぁ、便宜上の言葉で言えば、だから。
あたしは、大きいじいちゃまが、とっても好きだった。
本当に懐の広い人だった。
でも、あとの方々は「普通の人間」だったねぇ。
育つには「面白い環境」だった、と、思っているよ。(*´∇`*)
まきぼうひゃん、トラブってたのか、ご愁傷様(;´▽`lllA``)
他人の怒りに巻き込まれるのはイヤだよね。
面倒ごとは、あたしも嫌い。
あたしも、そういうときは逃げるに限る、で過ごしてる。
そういうとき。
うちらの方ではトラブルの元凶ご本人に対して
「あんなヤツ、今にクソ掴むんだから。」
と、言うのです。ばっちい話で(;´▽`lllA``)
その大きいじいちゃまかい?
よい功徳を積んだのぅ( ´艸`)
ラーメンの代金、払ったか(^^;
うちの地域だと、家族じゃない、
他人行儀の扱いだけど、
彩ちゃんちの地域もそうなのかな?
代金、支払うことは、他人行儀な扱いだよ、うちでも(;´▽`lllA``)
一線を画している、ということなんだろうね。
口には出さない。
誰も、何も言わない。
でも、態度が、きっつかった。(-_-;)
子どもには、せつないことでしたわ。
まきぼうひゃんが書いていたのは
「介護したのは誰?」ってことだったね。
介護したのは、大きいじいちゃまの息子。
普通のおじいちゃま。
普通の、ってのもヘンな言い方だが。
うちらの田舎は結婚が早い。
孫ひ孫、やしゃごなんての、そっちにもこっちにも
居るですよ(^▽^;)>゛
三代家族ではなくて、四代とか、どうかすると五代なんてのも。
北海道の伯母は、孫ひ孫やしゃごを数えると百人を越すって。
それぞれが家族を持っているから、半端なく増える。
楽しいってよ、誕生会なんかは(*^。^*)