数日前のこと。
子どもの頃から仲良しの、一個上のおねえさんとお話しする機会があって、
あれこれ、とりとめもなく話したのだが。
彼女、なんだか、急に老けた気がした。
コーヒーが冷めるというのに、なんとなく、ぼんやりしているような印象だった。
それで、あたしは、話した内容がつまんなかったかなぁ、と、少し気にしていた。
その後に、くだんの女性と知り合いの方にお話しする機会があって。
彼女のこと、問わず語りに話してくれた。
なんと、つい最近乳ガンの手術を受けたのだそうで。
あぁ、そういえば、おしゃれなヘアキャップだな、と見ていたのだが
あれは、抗ガン剤で薄くなった頭髪を隠すものだったのだ、と、はたと
思い当たった。
もしかすると、体調がすぐれなかったのに、無理してつきあってくれてたのかも。
知っていたら、お見舞いも持って行ったし、もっと気を遣ってあげられたのに。
いや、そんなことはどうでもいいが、もっと何か出来たのではないか?とか、
あれこれ、いきなり頭の中がぐるぐる状態で、ひどく混乱した。
同じ町なのに、失礼なことこの上ない。申し訳なかったなぁ、と、後悔した。
とはいえ、彼女はいまだ独身で、学校から(子どもを通して)の情報も無いし、
親やダンナさまサイドからの情報も、入らない立場に居る。
なにしろ、あたしんちも葬式続きで、出歩くことも皆無だったから仕方ないのだが。
互いの友人がかぶっていないと、そっちからも何も聞こえてこない。
ご母堂様はガンで他界なされたし、お父上もなんだか内臓の病気で亡くなられた。
本人、たった一人でどんなにか心細く淋しい思いをなさったのだろう、と想像したら
不覚にも泣けてしまった。
家に戻って、静かに座って考えるともなく考えていた。
介護や葬式で、しまいこんでいた大型ディスプレイや、不調だから手つかずに
置いたまんまのタワーのパソコンを、えんやこらと寝室まで運びこんだ。
明け方四時までかかったが、なんとかセットした。
これから、何日かかけて、不調は直し、お手入れもするのだ。
最近は、ずっとノートや、テスト用の小型ディスプレイ(14インチ)で過ごしてた。
なんだか、急に思ってしまったのだ。
持っているものを、使わないままで死にたくない。
大昔、学生時代に、下宿していたからいろんなものは間に合わせで済ませていた。
ある日、母が言った。
『一日、一日の積み重ねが、あなたそのものの「人生」なのですよ。
間に合わせの人生で済ませないように、ね。』
そのときは、
なにを言ってんじゃい(^▽^;)>゛
一個のもので何でも済ませられたら、場所もとらないし便利じゃーん。
頭の体操にもなるし。と、言ったら、母が答えた。
「しゃもじは、同じ形をしているけれど、耳かきの代わりにはなりませんよ。」
不埒なアタシは、へーへー、そんなもんですかい。と、うそぶいた。
今思えば、ずいぶんな罰当たり発言だったなぁ。
今思えば些細なこと(当時は、人生の最大の不幸だった)で死にたくなったり、
本人は真剣なのだが、今思えば不都合で自分勝手な発言で他人を傷つけたり。
若さとは、「死」に遠い存在で、それゆえに憧れたりもするものだ。
「死」が身近になると、逃げようと反射的に思うものなのだろうか。
なにしろ、身近というよりも現実、と言った方が近いのかもしれない。
いつ何時、ふっと「死」にとりつかれるか、分かったもんじゃぁないのだ。
もうすでに、あたしの体内には、爆弾が何個も隠されているのだし。
あたしは、大学を卒業した翌年、喉頭ガンの摘出手術を受けた。
ごく初期だったのが幸いして、恥ずかしながら、まだ生きている。
数年前には、内臓を全摘している。
残りの人生がいくらあるのか、あたし自身にも分からない。
せめてもの救いは、母を見送れたことだ。
先に逝かれたら、母が、どんなにか悲しんだだろうか、と思うと、少しは親孝行に
なったのかなぁ、と思っている。
それで、考えた。
新しいものを購入するなんてことまで、しなくてもいい。
せめて、今持っているものを、活用しよう、と。
使わないままで、死にたくない。
その日の間に合わせの人生ではなくて、自分で見て、考えて、できる範囲でいいから
目一杯に生きてみよう、と。
犬や猫を可愛がろう。
魚たちにも、快適な環境を与えてあげよう。
どんなに頑張ったって、生きている間しか、できないのだから。
・・・別に、悲壮感ではありませぬ。
いたって「淡々と」していますから、ご心配なく。(*´∇`*)
子どもの頃から仲良しの、一個上のおねえさんとお話しする機会があって、
あれこれ、とりとめもなく話したのだが。
彼女、なんだか、急に老けた気がした。
コーヒーが冷めるというのに、なんとなく、ぼんやりしているような印象だった。
それで、あたしは、話した内容がつまんなかったかなぁ、と、少し気にしていた。
その後に、くだんの女性と知り合いの方にお話しする機会があって。
彼女のこと、問わず語りに話してくれた。
なんと、つい最近乳ガンの手術を受けたのだそうで。
あぁ、そういえば、おしゃれなヘアキャップだな、と見ていたのだが
あれは、抗ガン剤で薄くなった頭髪を隠すものだったのだ、と、はたと
思い当たった。
もしかすると、体調がすぐれなかったのに、無理してつきあってくれてたのかも。
知っていたら、お見舞いも持って行ったし、もっと気を遣ってあげられたのに。
いや、そんなことはどうでもいいが、もっと何か出来たのではないか?とか、
あれこれ、いきなり頭の中がぐるぐる状態で、ひどく混乱した。
同じ町なのに、失礼なことこの上ない。申し訳なかったなぁ、と、後悔した。
とはいえ、彼女はいまだ独身で、学校から(子どもを通して)の情報も無いし、
親やダンナさまサイドからの情報も、入らない立場に居る。
なにしろ、あたしんちも葬式続きで、出歩くことも皆無だったから仕方ないのだが。
互いの友人がかぶっていないと、そっちからも何も聞こえてこない。
ご母堂様はガンで他界なされたし、お父上もなんだか内臓の病気で亡くなられた。
本人、たった一人でどんなにか心細く淋しい思いをなさったのだろう、と想像したら
不覚にも泣けてしまった。
家に戻って、静かに座って考えるともなく考えていた。
介護や葬式で、しまいこんでいた大型ディスプレイや、不調だから手つかずに
置いたまんまのタワーのパソコンを、えんやこらと寝室まで運びこんだ。
明け方四時までかかったが、なんとかセットした。
これから、何日かかけて、不調は直し、お手入れもするのだ。
最近は、ずっとノートや、テスト用の小型ディスプレイ(14インチ)で過ごしてた。
なんだか、急に思ってしまったのだ。
持っているものを、使わないままで死にたくない。
大昔、学生時代に、下宿していたからいろんなものは間に合わせで済ませていた。
ある日、母が言った。
『一日、一日の積み重ねが、あなたそのものの「人生」なのですよ。
間に合わせの人生で済ませないように、ね。』
そのときは、
なにを言ってんじゃい(^▽^;)>゛
一個のもので何でも済ませられたら、場所もとらないし便利じゃーん。
頭の体操にもなるし。と、言ったら、母が答えた。
「しゃもじは、同じ形をしているけれど、耳かきの代わりにはなりませんよ。」
不埒なアタシは、へーへー、そんなもんですかい。と、うそぶいた。
今思えば、ずいぶんな罰当たり発言だったなぁ。
今思えば些細なこと(当時は、人生の最大の不幸だった)で死にたくなったり、
本人は真剣なのだが、今思えば不都合で自分勝手な発言で他人を傷つけたり。
若さとは、「死」に遠い存在で、それゆえに憧れたりもするものだ。
「死」が身近になると、逃げようと反射的に思うものなのだろうか。
なにしろ、身近というよりも現実、と言った方が近いのかもしれない。
いつ何時、ふっと「死」にとりつかれるか、分かったもんじゃぁないのだ。
もうすでに、あたしの体内には、爆弾が何個も隠されているのだし。
あたしは、大学を卒業した翌年、喉頭ガンの摘出手術を受けた。
ごく初期だったのが幸いして、恥ずかしながら、まだ生きている。
数年前には、内臓を全摘している。
残りの人生がいくらあるのか、あたし自身にも分からない。
せめてもの救いは、母を見送れたことだ。
先に逝かれたら、母が、どんなにか悲しんだだろうか、と思うと、少しは親孝行に
なったのかなぁ、と思っている。
それで、考えた。
新しいものを購入するなんてことまで、しなくてもいい。
せめて、今持っているものを、活用しよう、と。
使わないままで、死にたくない。
その日の間に合わせの人生ではなくて、自分で見て、考えて、できる範囲でいいから
目一杯に生きてみよう、と。
犬や猫を可愛がろう。
魚たちにも、快適な環境を与えてあげよう。
どんなに頑張ったって、生きている間しか、できないのだから。
・・・別に、悲壮感ではありませぬ。
いたって「淡々と」していますから、ご心配なく。(*´∇`*)
意味を問い返してもいいだろか?
内臓を全摘なさった、という箇所。
全摘とゆーと、全部取ってしまうこと、で、いいのかな?
心臓とか肺とか胃とか腸とか。
するといま彩ちゃんは、人工内臓で歩き回っているのだろうか?
人工心肺とか?
プライバシーに触れるのは失礼なことと、承知で聞いているので。
この質問、答えにくかったら、どうか削除してね。
彩ちゃんは怒ってるんじゃなく困惑してるだけで、
悪いのはあたしの側だ、てこと、
わかってて書いてるからね~(^^;
あらためて、びっくり。w( ̄△ ̄;)w マイガ!!
『ある内蔵を』というのの「ある」を書き忘れた。
ごめんね、「ある」が、無かったのだ。
・・・って、シャレになんない。(^▽^;)>゛
心臓も、肺も(たぶん)腎臓&肝臓も、動いてまふ。
アップする前に、読み返せ、ってことだったっす。
すまんです。
あたし自身手術の前後は、もう命も無いとばかりに思い詰めてたことも、あったんだよ。
時間が経てば、薄くなる、っていうか、状況に慣れるっていうか。
なんと言ったら良いのだろう。
うーーーんとね。今、いろんなことで悩んでる方々に
『今がどんなに苦しくても、時間は優しいものだよ。
死ぬとか言わないで、死なないで、時間を待ってみるのも
いいんじゃない?』
と、そんなことを言いたかったんだ。
あたしの悩みって、みなさまのに比べたらちっぽけかもしれない。
だけど、それでも、自分から死なないで、って言いたかった。
死ぬつもりは無くても、必ずいつかは、誰だって死ぬんだから。
わざわざ選ばなくたって、かならず。
意味、伝わりにくいねぇ?(  ̄ _ ̄||)
言い方が下手だンで(下手なもんで)、かんにんしてケロやぁ(ごめんなさいです)。
んでも(それでも)、見てくれて、あんがっと。
この記事自体、削除しようかどうか迷ってたんだった。
あんまり「うれしい記事」では無ェだで(無いもんで)、ねぇ(ー_ー;)もにょもにょ。
彩ちゃんが削除したがる記事は、
いつも、とてもパワーのある記事。
もったいない。
せっかく人よりはるかに痛い思いをして生きてきた。
その土台からくる言葉は重くて心に響く、
とても美味しい、滋養のある言葉だよ。
わたしは彩ちゃんの、こういう記事、好きだ。
あたしの人生にはそこまでの重みがないから、
返事に困ることのほうが多いけど。
一方的に、心の栄養にさせてもらってる。
レス書けないのは、つまらないからではなく、
胸がいっぱいで、言葉にならなくなってるからだよ。
そっか。ないのは内臓ひとつだけか(^^;
いやそれでも大きいけどさ。
「サイボーグ彩ちゃん」を想像してたもんで、安心した(爆)
おなかからミサイルとかビームとか出てきたら、どうしようかと・・・_ | ̄|○|||||
サイボーグあやっぺ。
目指せ、和製サラ・コナー( ´艸`)なんちゃって♪
そっか、こういう重たい、つか、(自分では)おもしろみの無い気がするもんなんだが
まきぼうひゃんが「好き」って言ってくれたんなら
削除は見合わせるよ。
滋養になるかどうか、は個々の問題だで、置いたとしても。
いろんな事情は、人それぞれだで。
みんな、その人にしか無いものを持っているんだと思う。
自分が自分を大切に思えるように、みんなが、そう生きて欲しいと思っている。
とくに、まだ自分というものが確定できずにいる、若い人たちに
いつの日にか、今を振り返って
「その時の自分が居たから、今の自分が居るんだ」
と、感謝の思いをもてるような、そういう大人に育ってほしい。
あたしが見てきたのは、小学校低学年ばかりだったんで
まだまだ、遠すぎる未来の話だから、雲をつかむより遙かだと思うけど。
でも、いつも、そう願わずには居られないんだよね。
育つ課程で、一瞬、一瞬の積み重ねが、その人となりを積み上げていく。
どんな瞬間も、大事な「自分」なんだよ、って。
それを伝えたい、と、いつもいつも、思うよ。(*´∇`*)
うまく言えないのが難点なんだが(^▽^;)>゛