やれやれ、マンボウだけでは物足りず、さらに再びの緊急事態宣言が発せられるみたいですね。前回の二回目の非常事態宣言は比較的緩やかだったため、三回目の宣言は一回目並もしくはそれ以上の厳しい措置も予想される。
ゴールデンウイークの旅行はもうあきらめました。後ろめたい気持ちで旅行してても気分が悪いですからね、また別の機会にします。
今日、うどん屋へ来た若いお客に聞いてみた。「おたくの会社は在宅勤務はあるんですか?」と。すると「あるもなにも、ずーっと在宅ですよ。たぶんコロナが終わっても変わらないと思いますよ。」だって・・・・。
うーん、世の中は僕が思っているよりも早く進んでいる。今後はオフィス街という概念すらなくなるかもしれない。まあ、老人となった僕にはもはや対応する必要はないが、メソポタミア・ヴァレーに住み、月に何度か東京へ出勤するというスタイルが、10年後にはごく普通の生活になる可能性は高いのかも・・・。
さて、菅さんが米国を訪問しバイデン氏と会談をした。内容は特に注目する必要はない。肝心なことは、この首脳会談でバイデンはようやく大統領として世界にデビューできたことと、菅首相は次期首相として米国に認めてもらう儀式が済んだことを意味すると理解している。おそらくバイデンは制限付きで大統領になったということ、つまり、認めてやる代りに重点項目は北軍に従えという意味だろう。それは中国に対する姿勢でわかる。要は、北軍側は選挙の不正の証拠をちらつかせながらバイデンを自在にコントロールすることにしたのだろう。
また、かつて福田氏が総裁選の前に訪米し、帰国した途端総裁選に出馬しないと発表し周囲を驚かせたことがある。これは機構側と会談し色々な条件が提示され、彼はそれを飲めなかったと考える。
今回菅さんはどうだったのかな・・・・?
さて、名古屋が今大変です。河村憎しで、大村愛知県知事は名古屋いじめをしています。河村4選を阻止すべく、自民党はもちろんのこと、立憲、国民、社民(そんなのあったかな・・・?)、共産までもが名古屋市議だった自民党の横井氏を応援、さすがの人気者河村氏も今回はちょっと?という感があります。確かに河村さんの人気は未だにすごいものがあります。さて、どうなるでしょう。
マヨ君はどう思う?
そうですね、この河村市政の3期、名古屋は時代もあるかもしれないけど「まあまあだったんじゃないかな」というのが僕の個人的な印象です。あとは市民がどう考えているのか、非常に興味深いところです。さて、結果はどうなるか?
歴史の勉強ですが、現在は津軽藩を調べてみました。特に結論も何もありませんが、系図を調べていると思わぬ発見があります。面倒なら読み飛ばしてください。ただ、何が知りたかったかはわかっていただけると思います。
津軽家 弘前藩主
初代 - 津軽為信(ためのぶ)(1550-1608)近衛前久の猶子 上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張した。近衛家に限らずその頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。
2代 - 津軽信枚(のぶひら)慶長18年(1613年)に下総関宿藩主・松平忠良の妹であり、徳川家康の養女・満天姫(再嫁。前夫は福島正之)を妻に迎えたことも、江戸幕府体制下での津軽氏の地位を固めた。信枚には辰姫を正室としていたが、満天姫を迎えるにあたり正室から側室に降格させている。
3代 - 津軽信義(のぶよし)
4代 - 津軽信政
5代 - 津軽信寿(のぶひさ) 正妻 綱姫 - 梅応院、近衛家熙の養女、醍醐冬基の娘。嫡男・信興が早世したため、享保16年(1731年)5月16日に信興の嫡男、つまり嫡孫である信著に家督を譲って隠居
6代 - 津軽信著(のぶあき)藩を継承した信著の治世期は不運にも、凶作・松前大島噴火による津波・数度の洪水、疫病の大流行、害虫の大発生、城下や青森町の大火、蝦夷地の有珠山の噴火の影響による群発地震、果ては領内大地震など、天災が相次いだ。領民は困窮を極め、結果として藩財政も著しく悪化した。
7代 - 津軽信寧(のぶやす)明和3年(1766年)7月8日、地震のために弘前城が壊れて、幕府から4000両を借り入れた。さらに天明元年(1781年)から起こった天明の大飢饉は藩にとどめを刺すこととなる。天明3年12月25日(1784年)、幕府から飢饉対策のために1万両を借り入れる。このため信寧は財政改革に乗り出そうとしたが、その矢先の天明4年(1784年)に急死。
正室:綾姫 - 松平明矩の娘
8代 - 津軽信明(のぶあきら)信明はさらに倹約令や出費の大幅削減、義倉設置による食糧備蓄、藩校の開設と教育の普及、藩法の制定、年貢徴収方法を定免法から検見法に改めるなどして、着実な改革を行なって財政を再建した。
正室:松平朝矩娘・喜佐姫
9代 - 津軽寧親(やすちか)本家の藩主であった津軽信明が若死にしたため、その養嗣子として跡を継いだ。
10代 - 津軽信順(のぶゆき)信順は内大臣・近衛基前の娘と婚約したが、2年後にこの娘は夭折する。次に信順は田安徳川斉匡の六女・鋭姫と婚約する。斉匡は11代将軍・徳川家斉の弟である。これにより将軍の一門衆となった。しかし、文政3年12月(1821年)に鋭姫は夭折する。翌文政4年(1821年)4月に、今度は斉匡の九女・欽姫と婚約し、文政5年12月(1823年)に結婚した。藩主の無軌道ぶり、藩の経済的危機、これらの責任の所在を巡って津軽藩の家臣団も派閥争いを繰り広げていた。親族の将軍家や幕閣としては、蝦夷地防衛の観点からもこれを静観できなくなり、天保10年(1839年)、幕府は40歳の信順に強制隠居を命じた。家督は支藩である黒石藩主の津軽順承(元は三河国吉田藩主・松平信明の五男)が相続した。
11代 - 津軽順承(ゆきつぐ)三河国吉田藩主・松平信明の五男。安政2年(1855年)、蝦夷地警固を命じられ、宗谷(稚内)に藩兵を派遣した。その際、ビタミンB1不足由来の浮腫病(ニコチン酸欠乏症)防止のために、コーヒー豆を支給している。安政6年(1859年)2月7日、婿養子・承昭に家督を譲って隠居。
12代 - 津軽承昭(つぐあきら)熊本藩主・細川斉護の四男として江戸にて誕生。初名は細川護明(ほそかわ もりあきら)。安政4年(1857年)6月28日、弘前藩11代藩主・津軽順承の婿養子となり、その偏諱を受け津軽承烈(つぐてる)と名乗り、後に承昭と改名した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、当初は新政府に従う。しかし5月、奥羽越列藩同盟に参加する。7月に中央の政局の情報を受け、官軍に与して箱館戦争などで功績を挙げたため、戦後に新政府より1万石を加増された。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となる。
正室:津軽順承四女・常姫 側室 近衛尹子(ただこ)関白近衛忠煕の六女。慶応2年(1866年)5月、津軽藩主・津軽承昭と婚約する。
13代 - 津軽英麿(ふさまろ)近衛忠房の次男として東京に生まれ、旧弘前藩主である津軽承昭の養子となった。妻、津軽照子は旧小倉藩主小笠原忠忱の娘である。夫婦ともに甥の近衛直麿を養子にすることを望んでいたが実現せず、尾張徳川家の徳川義恕の次男義孝が津軽家を継いだ。
14代 - 津軽義孝1907年12月18日、尾張徳川家分家の男爵徳川義恕の次男として東京府で出生した。母が津軽家12代当主の津軽承昭の娘であり、13代当主の津軽英麿に継嗣がいなかったことにより、1919年、津軽家に養子の形で入り、英麿薨去後に14代当主として家督を継承し伯爵を襲爵した。
妻: 子爵毛利元雄(毛利元敏は父)長女・久子 四女に常陸宮正仁親王の妃 華子((1940~)
おつかれさま。ようやく華子さんまで達しました。養子や猶子が多く、油断すると見逃してしまうことが多い系図です。津軽家だけでも大変なのに、尾張徳川家、近衛家、細川家ついでに毛利家まで調べると大変な作業になります。
調べてなんになるって話ですが、少なくとも津軽家の実態はほぼ近衛家だとわかります。細川家、毛利家、近衛家、尾張徳川家の血が脈々と流れ、元の津軽はどんだけー?ですよね。
系図を調べることは歴史を学ぶ基本でもあります。
最終的に近衛家を調べることになると思いますが、子だくさんだから全部は無理だろうな…。まあ、究極の暇つぶしですね。
ゴールデンウイークの旅行はもうあきらめました。後ろめたい気持ちで旅行してても気分が悪いですからね、また別の機会にします。
今日、うどん屋へ来た若いお客に聞いてみた。「おたくの会社は在宅勤務はあるんですか?」と。すると「あるもなにも、ずーっと在宅ですよ。たぶんコロナが終わっても変わらないと思いますよ。」だって・・・・。
うーん、世の中は僕が思っているよりも早く進んでいる。今後はオフィス街という概念すらなくなるかもしれない。まあ、老人となった僕にはもはや対応する必要はないが、メソポタミア・ヴァレーに住み、月に何度か東京へ出勤するというスタイルが、10年後にはごく普通の生活になる可能性は高いのかも・・・。
さて、菅さんが米国を訪問しバイデン氏と会談をした。内容は特に注目する必要はない。肝心なことは、この首脳会談でバイデンはようやく大統領として世界にデビューできたことと、菅首相は次期首相として米国に認めてもらう儀式が済んだことを意味すると理解している。おそらくバイデンは制限付きで大統領になったということ、つまり、認めてやる代りに重点項目は北軍に従えという意味だろう。それは中国に対する姿勢でわかる。要は、北軍側は選挙の不正の証拠をちらつかせながらバイデンを自在にコントロールすることにしたのだろう。
また、かつて福田氏が総裁選の前に訪米し、帰国した途端総裁選に出馬しないと発表し周囲を驚かせたことがある。これは機構側と会談し色々な条件が提示され、彼はそれを飲めなかったと考える。
今回菅さんはどうだったのかな・・・・?
さて、名古屋が今大変です。河村憎しで、大村愛知県知事は名古屋いじめをしています。河村4選を阻止すべく、自民党はもちろんのこと、立憲、国民、社民(そんなのあったかな・・・?)、共産までもが名古屋市議だった自民党の横井氏を応援、さすがの人気者河村氏も今回はちょっと?という感があります。確かに河村さんの人気は未だにすごいものがあります。さて、どうなるでしょう。
マヨ君はどう思う?
そうですね、この河村市政の3期、名古屋は時代もあるかもしれないけど「まあまあだったんじゃないかな」というのが僕の個人的な印象です。あとは市民がどう考えているのか、非常に興味深いところです。さて、結果はどうなるか?
歴史の勉強ですが、現在は津軽藩を調べてみました。特に結論も何もありませんが、系図を調べていると思わぬ発見があります。面倒なら読み飛ばしてください。ただ、何が知りたかったかはわかっていただけると思います。
津軽家 弘前藩主
初代 - 津軽為信(ためのぶ)(1550-1608)近衛前久の猶子 上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張した。近衛家に限らずその頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。
2代 - 津軽信枚(のぶひら)慶長18年(1613年)に下総関宿藩主・松平忠良の妹であり、徳川家康の養女・満天姫(再嫁。前夫は福島正之)を妻に迎えたことも、江戸幕府体制下での津軽氏の地位を固めた。信枚には辰姫を正室としていたが、満天姫を迎えるにあたり正室から側室に降格させている。
3代 - 津軽信義(のぶよし)
4代 - 津軽信政
5代 - 津軽信寿(のぶひさ) 正妻 綱姫 - 梅応院、近衛家熙の養女、醍醐冬基の娘。嫡男・信興が早世したため、享保16年(1731年)5月16日に信興の嫡男、つまり嫡孫である信著に家督を譲って隠居
6代 - 津軽信著(のぶあき)藩を継承した信著の治世期は不運にも、凶作・松前大島噴火による津波・数度の洪水、疫病の大流行、害虫の大発生、城下や青森町の大火、蝦夷地の有珠山の噴火の影響による群発地震、果ては領内大地震など、天災が相次いだ。領民は困窮を極め、結果として藩財政も著しく悪化した。
7代 - 津軽信寧(のぶやす)明和3年(1766年)7月8日、地震のために弘前城が壊れて、幕府から4000両を借り入れた。さらに天明元年(1781年)から起こった天明の大飢饉は藩にとどめを刺すこととなる。天明3年12月25日(1784年)、幕府から飢饉対策のために1万両を借り入れる。このため信寧は財政改革に乗り出そうとしたが、その矢先の天明4年(1784年)に急死。
正室:綾姫 - 松平明矩の娘
8代 - 津軽信明(のぶあきら)信明はさらに倹約令や出費の大幅削減、義倉設置による食糧備蓄、藩校の開設と教育の普及、藩法の制定、年貢徴収方法を定免法から検見法に改めるなどして、着実な改革を行なって財政を再建した。
正室:松平朝矩娘・喜佐姫
9代 - 津軽寧親(やすちか)本家の藩主であった津軽信明が若死にしたため、その養嗣子として跡を継いだ。
10代 - 津軽信順(のぶゆき)信順は内大臣・近衛基前の娘と婚約したが、2年後にこの娘は夭折する。次に信順は田安徳川斉匡の六女・鋭姫と婚約する。斉匡は11代将軍・徳川家斉の弟である。これにより将軍の一門衆となった。しかし、文政3年12月(1821年)に鋭姫は夭折する。翌文政4年(1821年)4月に、今度は斉匡の九女・欽姫と婚約し、文政5年12月(1823年)に結婚した。藩主の無軌道ぶり、藩の経済的危機、これらの責任の所在を巡って津軽藩の家臣団も派閥争いを繰り広げていた。親族の将軍家や幕閣としては、蝦夷地防衛の観点からもこれを静観できなくなり、天保10年(1839年)、幕府は40歳の信順に強制隠居を命じた。家督は支藩である黒石藩主の津軽順承(元は三河国吉田藩主・松平信明の五男)が相続した。
11代 - 津軽順承(ゆきつぐ)三河国吉田藩主・松平信明の五男。安政2年(1855年)、蝦夷地警固を命じられ、宗谷(稚内)に藩兵を派遣した。その際、ビタミンB1不足由来の浮腫病(ニコチン酸欠乏症)防止のために、コーヒー豆を支給している。安政6年(1859年)2月7日、婿養子・承昭に家督を譲って隠居。
12代 - 津軽承昭(つぐあきら)熊本藩主・細川斉護の四男として江戸にて誕生。初名は細川護明(ほそかわ もりあきら)。安政4年(1857年)6月28日、弘前藩11代藩主・津軽順承の婿養子となり、その偏諱を受け津軽承烈(つぐてる)と名乗り、後に承昭と改名した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、当初は新政府に従う。しかし5月、奥羽越列藩同盟に参加する。7月に中央の政局の情報を受け、官軍に与して箱館戦争などで功績を挙げたため、戦後に新政府より1万石を加増された。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となる。
正室:津軽順承四女・常姫 側室 近衛尹子(ただこ)関白近衛忠煕の六女。慶応2年(1866年)5月、津軽藩主・津軽承昭と婚約する。
13代 - 津軽英麿(ふさまろ)近衛忠房の次男として東京に生まれ、旧弘前藩主である津軽承昭の養子となった。妻、津軽照子は旧小倉藩主小笠原忠忱の娘である。夫婦ともに甥の近衛直麿を養子にすることを望んでいたが実現せず、尾張徳川家の徳川義恕の次男義孝が津軽家を継いだ。
14代 - 津軽義孝1907年12月18日、尾張徳川家分家の男爵徳川義恕の次男として東京府で出生した。母が津軽家12代当主の津軽承昭の娘であり、13代当主の津軽英麿に継嗣がいなかったことにより、1919年、津軽家に養子の形で入り、英麿薨去後に14代当主として家督を継承し伯爵を襲爵した。
妻: 子爵毛利元雄(毛利元敏は父)長女・久子 四女に常陸宮正仁親王の妃 華子((1940~)
おつかれさま。ようやく華子さんまで達しました。養子や猶子が多く、油断すると見逃してしまうことが多い系図です。津軽家だけでも大変なのに、尾張徳川家、近衛家、細川家ついでに毛利家まで調べると大変な作業になります。
調べてなんになるって話ですが、少なくとも津軽家の実態はほぼ近衛家だとわかります。細川家、毛利家、近衛家、尾張徳川家の血が脈々と流れ、元の津軽はどんだけー?ですよね。
系図を調べることは歴史を学ぶ基本でもあります。
最終的に近衛家を調べることになると思いますが、子だくさんだから全部は無理だろうな…。まあ、究極の暇つぶしですね。