「私は施設に預けられていた」先天性四肢欠損症で1児の母・佐野有美、幼少期について告白「両親は手足がない子を育てる事にショックが大きくて」
ただ、うまれて、そこにある命の、そのごくさいしょは、「うまれてきたことによる、あじわうこと」だけにこころひとつあって、まよいがないのかもしれません。
『欠けているのは有美の手足ではない、私たち親の勇気なのかもしれない』なるフレーズが、見栄や体裁のとりつくろいからなんかではなく、おなじ「命宿すもの」どうしだけで通底し合う共感に至らせたんだとおもうとですね、胸に迫るものを覚えるんです。
ああ、これだからひとっていいなって。
大きく世間に蔓延(はびこ)ってしまっている「憐憫(れんびん)の情」には常々「高い位置から見下げてくる目線だな」と🐼は思ってました。そして「そういう心の扱い方」をしといて、した方も、された方も、さほど「何か満ちるかこれで?」なる妙な欠損感も覚えるのでした。
多分、憐憫で動くのは的が外れてる何かだな・・とはつくづく思ってたんです。
「実は私が生まれた時 両親は手足がない子を育てる事にショックが大きくて勇気が持てずにいました。それからしばらくは私は施設に預けられていたそうです」と、両親と離れて暮らしていたことを告白。「でも家族が面会に来てくれる度に家族の顔を見てニコニコして毎回私は笑っていたそうなのですそして身近なモノを左足や口を使って触ろうとしながら遊ぼうとしている姿。その時に母の心に変化が起きたのでした。『欠けているのは有美の手足ではない、私たち親の勇気なのかもしれない』と…そして家族に迎え入れてもらい 私は一緒に暮らすようになりました」と、経緯を説明した。
家族、は夫婦を単位に始まり、「自分たちとはまた別の命」を授かり出して、新しい魂に対面する場所になります。この否応のなさのうちにも、迷ったり、戸惑ったりで「家族」単位内で出入りがあるのは、大人になった人なら、いくつかの例を思いつけることと思います。
うまくいくばかりが人生ではなく、そろっていようがいまいが、人生はそこにあり続けてくれます。
豊穣にするかどうかばかりは、その方が生まれてきてから今までの「決意の仕方」で訓練してきたもので、「見え方」を全く異にするはずなので、「実態のありよう」よりも「精神的な受け取り方」で解釈を大きく大きく大きく変えるはずです。
「大丈夫」さで、人生は渡るところじゃないんです。
良かろうが悪かろうが、人生は味わうところになります。
記事中にある
家族が面会に来てくれる度に家族の顔を見てニコニコして毎回私は笑っていたそうなのですそして身近なモノを左足や口を使って触ろうとしながら遊ぼうとしている姿。
この偽りがない本当の和気藹々(わきあいあい)に、匹敵する「喜べ方」なんてありゃしませんもん。
ああ、これを見に生まれに来ましたか、ってなりません?
そういうありようで、過ごす側でいきませんか?断然いいと思うんです。