最近で言うなら「チ。」なんかも世界からすれば「意図があるんじゃないか」と勘ぐりや他意を潜ませかねない威力を覚えるでしょう。
外国の方にしてみると、日本の「漫画表現」が1コマ内での密度や、オノマトペ、ルビの点で、「漫画記号」が異なるがために、「ストーリー展開がわかりにくい」であったものが、「アニメ」だと「動いてる日本の漫画」観として認識しやすいようで、起こってること、話の進み具合、演出が飲み下しやすいようです。
つまり「アニメを介してから、日本の漫画に深入りする」と言うのが順当なイントロのようで、漫画記号そのものがアニメという一つのオブラートを経由して飲み下しやすくさせるんでしょうね。
日本人の「一つの宗教観に拘泥はさせ切ってるわけではない」信仰の出入りの良さは、「一つの神以外を信じてはならない」とする世界に通底してる信仰のありように比すれば「ニッチ」なスタイルのようでもあり、それがひいては「道徳観念」「善悪」「悪魔」などで片付いてきてた2極化以外の価値観を「渡しやすく」させもし、その浸透が「アニメ」で流布し、伝道のようにメディア経由で世界発信に至ってる。
フレーズのような基盤たる宗教観を、どこかフロート状に柔和に位置させる日本の価値観は、漫画アニメにふんだんにその素養を含んでますし、「それでは困る」存在もきっと世界にあるにしても、ネット世界の如き「中核を持たぬ」クラウド状の「日本の漫画アニメ」たちには、太刀打ちすべき「組織母体」の対象も見つけ難いでしょうね。
そもそも日本でも漫画アニメは「サブカル扱いの文化的には異端」でしかない、有象無象の集合体で、数少ない「自在な精神性を楽しむ」心象における遊戯空間であり、基本ニッチなレイヤー状の存在。
ただ、それが「世界に似通う自在さ」で比類するもののない、対抗馬のない「精神的高揚」を生む素地と化してるし、そもそも思想的な堅牢さを持たない自由世界なものだから、教義や統制に苛まれない自在さという突き抜けが、独特に備わっている。
脆い材料ばかりで組み上がってきてると捨て置かれたものたちが、長い期間小馬鹿にされ、近寄ってるとバカになるよ、とされた「漫画」から、アニメに至って、いつの間にか「コンテンツ」などともてはやされ、企業が資金注入の対象に照準し出すほどの文化的な集約を得たわけですが、日本政府もさながら、中心位置を持たぬ「集合体」みたいな繁栄で成り立っておる、およそ「なんでこれで成立してるんだ?」みたいな産業に見えてくるんです。
なので誰もイニシアティブを取ってない、実に日本的な精神構造で成立してる産業。
つまり他国では成立しない成り立ちで、独自性が生まれてるのに、日本自体がその再現性を有してもいない。
ただ「手塚治虫」という漫画の根幹は見出すことができますが、彼自身も当時の既存アニメーション業界の価格破壊の側であった事実などを鑑みれば、一概に奉るばかりでもない事実にはすぐに勘付けます。
中心核を持たないからこそ成り立つ、ある意味サラダボウル状のダイバーシティが成立しちゃってる権威でもある日本アニメは、宗教による規範の枷(かせ)がないが故に競り上がってきたタフネスさが雑草の如き強さを有しています。根無草ゆえの屈強ともいえましょう。
この「訳のわからなさ」の上に、塔や街を形成してるかのような「日本の漫画アニメ文化」の掌握や再現性は、よそでは叶えようがないのはそのためです。
国家的資質の投じで国立大学や文化組織でこれにあてがおうとする隣国の様子もありますが、長らくうまくいっていないのはそのためです。
「意図や狙い」が根幹に透けて見えるだけで、成立しなさ、の上に立脚してるんですから。
🐼はこれを自分の開講してるところに注入してるんで、交換の効かない授業が展開できます。
伊達や酔狂でこうはならんのです。
それくらいは、人生をそれに費やせたんですもの❤️
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