昨日の聖書の集いで考えた

2013-03-08 11:10:25 | インポート

こんにちは~、マリーで~す。

夕べはうちのおばはん、家に帰ってきた時間もおそかったし、くたびれてて気持ちがまとまらなかったみたいよ。ほんでまあ、近いところを写真と短い言葉でまとめたのが夕べのブログだったの。

今朝はさあ、アレルギーの薬も効きすぎるくらい良く効いて起きたら8時すぎちゃってたくらいだから、体調もすっきりみたいよ。それであたしまでたたき起こされて、朝から手伝わされてるってわけなの。

昨日の聖書の集いではあさっての日曜日の聖書の箇所を読んだのね。放蕩息子のたとえ話よ。だけど、うちのおばはんがそれを読んで思ったのは、まず自分の家族の問題だったの。放蕩こそしないけどお父さんを苦労させた自分の兄弟のことを思い出したのね。聖書の話は神様と人間の関係だけど、実際の自分の親を思ってみても、親は本当にありがたいと思ってるのよね。子供がどんなに苦労をかけても見捨てないのは親だけだもんね。自分だって、とんでもないことに巻き込まれて親に心配かけっぱなしだったのよ。

それからお父さんが若いころ信者だった天理教のことも思い出したの。天理教って日本の教派神道っていうか、明治の初めにうまれた新興宗教なんだけど、家のおばはんのお父さんは、元々がお寺さんに縁のある宗教的なところのある人だったのね。それで若いころ、天理教の考え方に惹かれて信者になってたの。だからうちのおばはんなんか、お父さん子だったし、かなり影響をうけたところもあるのよ。大体、同じキリスト教でもなぜプロテスタントではなくてカトリックかって言ったら、お父さんに小さいころから聞いていたことと重なるところがたくさんあったのよね。あの人だけじゃないわよ。自分が天理教からキリスト教に宗旨替えした人や、親が天理教で子供や孫がキリスト教に入信した人って案外多いのよ。

考え方がキリスト教に似ているところがあるから、すっと入りやすいのよね。それはとにかく、うちのおばはんは昨日の聖書の箇所を見て、放蕩息子のことより、すべての人間の親であるありがたい神様のほうに心が向いたの。今は亡きお父さんがどんなに苦労しても子供のために良かれと動いてくれていた姿を思い出したのも一因だったかもね。

そりゃあ、親も人間だから怒ったりしても、どうもいろいろなケースをみると、子供は親を見捨てることがあっても親のほうはそれでも子供のことを思ってることのほうが多いみたいよ。で、放蕩息子のたとえからあの人が汲み出したのは親である神様のありがたさ、すべての人の父としての神様の愛や暖かさだったの。賛美歌の一節を借りれば、『見捨てじとのたもう御声ぞ聞こゆる』って感じね。

でさあ、そこであの人がもうひとつ思い出したのが、昔、教会の講座で聞いた『赤ちゃんにとって親はすべて」っていうことばだったの。大人の、それももうおばあさんの世代に入れてもおかしくない年代になったうちのおばはんも、さすがに現実は現実で、はっきりさせるべきことははっきりさせるくらいのことは考えるようになってるけど、人間に対してはとにかく、神様にたいしては子どもごころとか素直なこころをなくしてはいけないと思ってるんだわ。なんかねえ、人間のこころの奥の奥深くにおいでになる聖霊の御座に通じる道には、心の中にやましいことのない、素直なこころ、こどものこころがないと辿り着けないんだっていうの。

現実の世界に生きている大人の人間には世の中で生きぬくための競争心とか、自分を守るため、人を蹴落とすためのいろいろな形の策略とか、有力者には気に入られたいとか、自分を実際より良く見せたいとか面倒な余計なものがたくさんあって、聖霊の御座なんて考える暇もないみたいだけど、でもさ、本当はこれって大事なことなんじゃないの。

どうしたらそうできるかは、人それぞれ、自分なりに考えるしかないのかもしれないけど、カトリック教会ってちゃんとミサとかご聖体とか告解とか、それなりの必要な道具立てができてるわけだし、システムとしてもたいしたもんだと思うわよ。なんだかんだといっても2000年も続いてきた宗教の中にあるものは、人間を生かすために役に立つものがたくさんあるんだと思うの。まあ、それを取り扱うのが人間だから、時々間違いもあるけど、それでも全体としては機能してるんじゃないの。

今度の、前のパパ様の引退と新しいパパ様の選挙の件だってたぶん、そういうことなんだと思うな、あ、言い過ぎだってあの人が出てきたからこの辺で止めとくわね。ほんじゃまたね。