暑くてもぼんやりしてちゃダメ!

2014-08-01 21:41:42 | Weblog
こんばんは~、おひさしぶりのマリーで~す。

うちのおばはんがまだ四谷にいたとき、そばにいたどこかの奥さんがお家に電話して、竜巻注意報が出てるから、お母さん帰るまでお家の中でおとなしくしててねとかって、話してる声が聞こえてきたもんだからあの人もあわてて帰ってきたのよ。西荻に着いたらお空に稲光が走ってるし、これはお家にたどり着く前に雨が降り出しちゃうかもしれないって焦ったんだけど、無事にお家に帰ってこれて本当によかったわ。

夏の空って本当に変わりやすいから危なくてしょうがないわ。うちのおばはん、杖ついたり買い物用のコロのついたバッグを押してたりで、最近傘はどうせ差せないからって持って歩かなくなっちゃってるんだもん、ざあざあ振りの夕立のときなんか大変よ。冬だったらナイロンのレインコートとか持って歩いてもいいけど、真夏じゃ汗だくになってとても着られないもんね。とりあえず、折りたたみ出来るレインハットだけバッグの中に入れてるけど、あれじゃ本振りのときはまるで役にたたないのよ。まったく困ったもんだわさ。

それはまあいいんだけど、お家についてニュースを見たら、うちのおばはんのお気に入りのタイムスクープハンターの主演の俳優さんが交通事故を起こした話が出てたの。要潤さんていうんだったかしら、真面目な俳優さんなんだけど、どうもこの暑さでぼんやりしちゃってたんじゃないのかしら。うちのおばはんだってこのあいだは四谷の駅のトイレにリュックサックを置き忘れてきて翌朝まで気がつかなくて、置き忘れたってこともおぼえてなくていつも自分の部屋でリュックを置く位置にないって大騒ぎして警察のおまわりさんまで来る騒ぎだったのよ、ほんとにみっともないったらありゃしない。暑さボケで四谷駅のトイレに置きわすれてたのよ。だけど、うちのおばはんのぼんやりくらいならいいけど、交通事故を起こしちゃうぼんやりはやっぱり困るし、大変だわ。

要さん、テレビを見て応援してる人たちだっているんだし、もうちょっと気をつけてちょうだいね。本気だしてよね。交通事故って後まで響いちゃうから大変よ。軽い事故ですんだからいいけど、大怪我だとか死亡事故なんていやですからね。

まあ、つまんないはなしで長くなりすぎるのも何だからこの辺でやめとくけど、皆さんも暑さボケには気をつけてね。ほんじゃまたね。


マリアさまのこころ Maria-sama no kokoro

2014-08-01 08:47:35 | Weblog
昨日の聖書のつどいでは、この歌をお作りになった佐久間神父様がお亡くなりになったこともうかがった。わたしたちは魚のよう、神様の中で泳ぐ、これも佐久間神父様だ。日ごろ親しんでいる子供聖歌のなかにもたくさんの曲を残しておいでだ。どれも懐かしい歌ばかり。

今はただご冥福をおいのりするばかりです。



マリアさまのこころ Maria-sama no kokoro


昨夜の聖書の集いで考えた

2014-08-01 07:39:31 | Weblog
昨日は今期の最後で夏休みの前ということで、いつもの聖書の分かち合いの後、持ち寄りの食べ物、飲み物で打ち上げになった。そこでさまざまな話題が出て、これはなかなか有意義な時間をすごせたと思う。

ふだん気づかずにいる司教様の毎日のお忙しさ、近くにいる方の言葉を借りれば、綱わたらされている、だそうで次から次とやってくる仕事をそれぞれちゃんとこなしていく大変さ、綱渡りのような毎日を見ていての表現だった。その上に毎週木曜日と土曜日には聖書の集いも開かれておいでなのだから大変な日々だ。

それから信者どうしのさまざまな考え方にもあらためて考えさせられた。本当のところ、元根本主義のがちがちのプロテスタントの教派にいた人間だから、アメリカ生まれで日本人と結婚されカトリックになったある方のおっしゃることは実はよくわかる。

カンボジアに行ってもご自分は有名な観光地でもアンコールワットそのほかの異教の宗教施設には行かないとおっしゃっておいでだった。その感覚、本来のキリスト教信者だったら当然なのだと思う。

しかし、日本に住む日本人でもあるから、私自身としては今はそれを強調しようとは思わない。それでは自分の中にある日本とキリスト教の問題の答えには、まったく、程遠くなっていくばかりだからだ。

昨日の聖書の箇所に、イエスは大勢の群集を見て深く憐れみ、という一節があった。これはとても大切なところなのだと思う。イエス様は異教の人だからといって知らん顔なさるとは思えないのだ。

仏教に仏についで重視される菩薩という存在がある。菩薩というのはもうちょっとで悟りを開いて仏になる存在なのだけど、あえてこの世にとどまって迷っている人々を救おうとする存在なのだそうだ。

もうちょっとで仏になる一歩手前で泣いている小さい子どもの声を聞いて、子供をあやすために戻ってきた存在という説明があった。これってまるでイエス様そっくりではないか。

違いばかりを強調するのではなくて、似ているところを見ていくことも必要なのではないのかと、日本人キリスト者のひとりとしては考えないわけにいかないのだ。出ないと、原理主義イスラームのように殺し合いになってしまうことだってあるのだ。イエス様の人々への思いやまなざしとは程遠くなってしまいそうな気がする。そんなことを考えた。

イエス様がどういうお方だったのか、わたしにはこの賛美歌を聴くと初心に戻るような気がしてくる。



アカペラ4声 讃美歌121番 まぶねの中に(rev)