今朝(2014.8.6)、自分のブログを確認してみてちょっとびっくりした。個別の閲覧者数に自分でも忘れかけていたような記事が出てきていたからだ。インポートだから、まだplalaブログのころの話だ。タイトルは、しばらくぶりの上野毛教会。そうだこのあと、いろいろとあちらに腹を立ててあちらには全然行かなくなったのだった。あちらの方々は司祭も信者も皆様方、私が向こうを見えるようにはこちらが見えていないのだから、行くだけ無駄だと思ったのだ。
で、先日たまたま別のところから、上野毛の主任司祭も変わり、状況も変わったらしいことがわかり、さらに行く気がしなくなっていたわけだが、この前の東京教区ニュースの教区のさまざまな集まりの動きを紹介しているコーナーに、9月の10日(水)の1時半から、場所は上野毛ではなくてなんと四谷の教会のマリア聖堂で、それまでいつもだと上野毛で開かれていた「詩編の会」主催の「ミサと晩の祈りをうたう集い」が行われるという案内が出ていたのだった。日本205福者殉教者の記念日で、イエズス会に関連が深いためかもしれない。
京都に異動された中川神父様の司式だそうだ。祈りの歌の練習からはじまるから終わるのは4時頃。四谷なら、西荻から何度も乗り換えて上野毛に行くときと違って交通も便利だからこれは行ってみてもいいかなと思う。上野毛は今でこそ駅も整備されたけれど、足腰が悪くなり始めた頃、冬の夜に通うのはとても大変すぎてその頃から行かなくなり始めたのだった。
九里神父様にしてもどうしてこう表面しか見えないのだと思っていたものだった。人間はみんな一人一人違うから、合う、合わないとか、誤った情報ばかり伝わっていくとか、さまざまな要因で気持ちもすれ違っていくのだ。で、結局、幼きイエズスの聖テレジアは大好きだけど、カルメル会自体はたいしたことがないなあと思わざるをえなかったこの年月だ。なんといってもこちらの今の現実はほんとにお金には縁がないし、下手をすると今年も冬になるとまた食べるためのお金にも事欠きそうな現実だ。着るものも買えないような生活ではまあ、あの上野毛の在世カルメル会に自分の場があるとは思えないのだ。あちらは暇とお金のある方々向きでしょう。
バチカンのおかげで、お金はなくてもまあ何とか真実は伝わり始めたので、今自分の出来ること、すべきことをしていくしかないと日々それなりにがんばっているつもりだがそんなわけで今はあまりカルメル在世会への関心は持っていないというのが現状なのだ。