遥か昔になってしまったが、初めて本式にプロテスタントの教会からカトリックの教会に方向転換したいと思うようになって、当時住んでいた親元の家から一番近い教会を探して、カトリック市川教会に行ってみた時のこと、考え方の違う部分は大体わかっていたので、それほど驚かなかったのだけれど、大きく違和感を感じたのはおメダイとご像だったのを覚えている。
ロザリオは、お寺さんのお数珠の感覚で、これはお祈りの道具だとすぐにわかったし、それほど違和感も感じなかったのだが、形の刻み込まれているおメダイやご像はどうも、これはあまり聖書的ではないなあと思ったものだった。けれどもそれは慣れの問題で、いつしか当たり前になり、なるべく自分の心の中のイメージに合うような像の刻まれたおメダイやご像を探してご像は本棚の上に作った自分の祭壇めいた場所に飾るようになっていった。たぶん、ほかの方たちもそうなさっておいでではないだろうか。
十字架やおメダイも、金属アレルギーでやたらな金属は身に付けられないので、これだけは本当に気に入ったものでアレルギーの出ない金属のものを買って身に付けている。それでも汗をかく季節は用心が必要だ。めっき物とナイロンの入った生地で出来たものがまるでだめ、たちまち蕁麻疹がでてくる。かゆみ止めの飲み薬と塗り薬は手放せない。それはいいのだけれど、気になって気になって仕方のないことがひとつあるのだ。
ロザリオだ。ロザリオはお数珠とみれば小さな専用の袋やケースに入れてバッグにしまって持ちあるくのが普通だろう。指輪やブレスレットの形のものは別だが、ふつう、あまり身につけたりしない。しかし、その昔、ある修道会の修練者のシスターたちは特製のネックレス型に作ったロザリオを首にぶら下げていたのをおぼえている。日本の戦国時代のキリシタン大名の肖像画を見ると、ロザリオを首からぶら下げてアクセサリーにしている。あれって、なかなかカッコイイんじゃないの。
真言宗の修行僧が大きな数珠を首から下げてお経を唱えていたりするのをみると、やっぱりまずいなと思ったりもするが、わざとらしくないように工夫すればアクセサリー風に付けてもおかしくはないような気がする。そんな事を考えていたところ、最近、本当に素朴な木の玉のロザリオを首に付けた方を見てしまった。肌色から見て東南アジア系の方だと思うが、やっぱりそんなにおかしくない感じだった。何でもかんでもロザリオをぶら下げればよいというものではないけれど、工夫次第で信仰をあらわすアクセサリーになりそうな気がする。
ただし、見る側の受け取り方には責任が持てないので、工夫は必要だろう。ドンボスコのシスターによると、今、信者でない方たちにロザリオがアクセサリーに流行しているという話もあるので、まあ自己責任で試してみるとかしかないみたい。変なところで勇気が必要になるわけだ。アレルギーにも注意だ。私自身だったら上着を着て隠せる季節になってからなら実験してもいいかなと思う!?
ロザリオは、お寺さんのお数珠の感覚で、これはお祈りの道具だとすぐにわかったし、それほど違和感も感じなかったのだが、形の刻み込まれているおメダイやご像はどうも、これはあまり聖書的ではないなあと思ったものだった。けれどもそれは慣れの問題で、いつしか当たり前になり、なるべく自分の心の中のイメージに合うような像の刻まれたおメダイやご像を探してご像は本棚の上に作った自分の祭壇めいた場所に飾るようになっていった。たぶん、ほかの方たちもそうなさっておいでではないだろうか。
十字架やおメダイも、金属アレルギーでやたらな金属は身に付けられないので、これだけは本当に気に入ったものでアレルギーの出ない金属のものを買って身に付けている。それでも汗をかく季節は用心が必要だ。めっき物とナイロンの入った生地で出来たものがまるでだめ、たちまち蕁麻疹がでてくる。かゆみ止めの飲み薬と塗り薬は手放せない。それはいいのだけれど、気になって気になって仕方のないことがひとつあるのだ。
ロザリオだ。ロザリオはお数珠とみれば小さな専用の袋やケースに入れてバッグにしまって持ちあるくのが普通だろう。指輪やブレスレットの形のものは別だが、ふつう、あまり身につけたりしない。しかし、その昔、ある修道会の修練者のシスターたちは特製のネックレス型に作ったロザリオを首にぶら下げていたのをおぼえている。日本の戦国時代のキリシタン大名の肖像画を見ると、ロザリオを首からぶら下げてアクセサリーにしている。あれって、なかなかカッコイイんじゃないの。
真言宗の修行僧が大きな数珠を首から下げてお経を唱えていたりするのをみると、やっぱりまずいなと思ったりもするが、わざとらしくないように工夫すればアクセサリー風に付けてもおかしくはないような気がする。そんな事を考えていたところ、最近、本当に素朴な木の玉のロザリオを首に付けた方を見てしまった。肌色から見て東南アジア系の方だと思うが、やっぱりそんなにおかしくない感じだった。何でもかんでもロザリオをぶら下げればよいというものではないけれど、工夫次第で信仰をあらわすアクセサリーになりそうな気がする。
ただし、見る側の受け取り方には責任が持てないので、工夫は必要だろう。ドンボスコのシスターによると、今、信者でない方たちにロザリオがアクセサリーに流行しているという話もあるので、まあ自己責任で試してみるとかしかないみたい。変なところで勇気が必要になるわけだ。アレルギーにも注意だ。私自身だったら上着を着て隠せる季節になってからなら実験してもいいかなと思う!?