迎賓館

2012-11-03 20:20:48 | インポート

こんばんは~、マリーで~す。

うちのおばはんは、午前中は赤坂の迎賓館前庭の一般公開を見に行って、ついでに四谷の昼ミサに行って、帰ってきてからずっと写真の整理をしてたの。だけど40枚も撮ってどれもこれも斜めに傾いて写ってるのよねえ。明るさ、暗さや、色合いならパソコンちゃんが修正してくれるけど、ほんのちょこっと斜めになってるのはどうしようもないじゃない。

あの人、腰も悪いけど、右ひざも関節症だから、なんとなく片足をかばってしまって自分の体勢が斜めなんじゃないのかな。せっかくの大量の写真がどれもこれも斜め。しょうがないわよね、人生いろいろあるもんだわさ。斜めの写真くらいでめげてられないわよ。

  

ね、斜めでしょ。40枚全部こんななの。まあ、仕方ないわ。今日はあの人、がっかりしちゃってるからこれでおしまい。

ほんじゃ、またね。

 


仕事の途中だけどちょっとだけ

2012-11-02 12:47:53 | インポート
こんにちは~、マリーで~す。

うちのおばはんはまだ昨日の続きでパソコンを相手に作業中だけど、やっとめどがついてためしにあちこち見てたのよ。相棒の公式フェイスブックページも見たのよ。そしたら、おとといの夕方までは「いいね」が9000台だったのが、もう一挙に16900越えちゃってたの。ほんとに驚いたわ。フェイスブックはSNSだから登録していないと見られないけど、

https://www.facebook.com/AibouNow 今、このブラウザはoperaだから、直接リンクができないから、わかる人はコピペしてみてね。

今日はこの後、もうちょっと仕事をしたら、四谷に出かけて夕方のミサには行くつもりみたいよ。11月は、カトリック教会では日本のお盆みたいな死者の月だから、昨日の諸聖人の祝日に続いて今日は死者の日のミサなの。カトリックはプロテスタントと違って、天国と地獄だけじゃなくて、その中間の浄めの場、煉獄も伝統的に認めて信じてきているのよね。だってさ、ふつう、たいていの人がいいこともたくさんしてるけど、いたし方なく悪いとわかっていてもあまりよくないことだってしなくちゃならない時だってあるじゃない。そのまんま、まっすぐに天国にいくには汚れすぎてるってときはまず煉獄で汚れを落とす必要があるって言う考え方なのね。

煉獄は地獄じゃないからいずれは必ず天国にいけるんだけど苦しい思いをする場所だから、天国の聖人たちや、地上に生きている人たちの祈りの助けが必要なわけよ。プロテスタントでは煉獄のことはほとんど言わないけど、教会で二千年も唱えられてきた使徒信条の諸聖人の通功とか聖徒の交わりって言うのはさあ、この天国でも煉獄でも地上の教会でも時間も空間も越えて信者同士が祈りあい助け合うことができるってことみたいよ。もちろん、最終的には一人一人の人が一対一で神様の前に出るんだけど、みんなで後ろで祈って支えてくれてるってイメージね。

そんなわけで今日はすべての亡くなった人のための日、死者の日なのよ。プロテスタントでは聖書にないからって、切り捨てちゃったものがたくさんあるのは本当に残念なことだと思うんだわさ。カトリックが聖書と聖伝と両方信じるのは人間の心の世界の複雑さをカトリック教会はよくわきまえているってことなのよね。

とにかく、パソコンの調整が終わったらあの人、あたしもつれてお出掛けするはずよ。だから今日はこのへんでおしまいね。

ほんじゃまたね。


シェマー、イスラエル

2012-11-01 23:38:09 | インポート
こんばんは~、マリーで~す。今日はねえ、うちのおばはんは昨日からのパソコンのリカバリーやセットのやり直しでほとんど一日潰しちゃったの。だってさあ、あの人ったら、バックアップとったはずなのに、とってなかったり、もういつものことだけど、ドジなことばっかりしてるんだもの、あれじゃ、明日もまだ仕事が残っちゃってるわよ。

それでも今日は先週から決まっていた聖書の集いの司会を始めてやってみることになっていた日だったから、夕方には切り上げて早めに信濃町の真生会館に行ったのね。うちのおばはんも初めての役だから相当心配だったみたいだけど、あの人に、司会をさせることにした世話役の方も心配だったのか早く来てくれて、わからないところをもう一度教えてくれてたの。

今日はちょうど司教様がご用事でおいでにならないのがわかっていたから、うちのおばはんもやってみる気になったのよ。あの人、緊張するとしどろもどろになっちゃったりするから、司教様がいない日のほうがやりやすいと思ったわけね。思ったとおり、今日あたりだったら、顔見知りばかりで人数もまあまあだし、初めてでも隣に世話役の方が座って教わりながら、何とかかんとか無事にやりとげたわよ。ほんでもって、あんまり間をおかずに、忘れないように近いうちにまたもう一度おなじようにやってみるんですって。

それで今日の聖書の箇所が今度の日曜日の福音で、神様が人間に与えた二つの掟のところだったの。イスラエルよ、聞け(シェマー、イスラエル)で始まる掟よ。それで、あの人は、この間からアメリカの猫先生がツイッターや、はてなブログで書いている現代のユダヤの人たちのことも思い出したのね。シェマー、イスラエルという言葉は今の時代にもキリスト教の世界にもユダヤの人たちの中にも連綿と受け継がれてきているのよね。だけど、その精神は福音書の時代も現代も、もしかするとおなじようにわかっちゃいるけどやめられない状態なのかもね。神の国から遠くはないんだけど、そんなに近くもないとかさ。

なんかあの人も今日はくたびれちゃってるみたいで、やたらしち難しい話になっちゃうから今日はこの辺で終わりにしておくわね。ほんじゃまたね。